「無駄に終わらない人生」        フィリピ書二章一二ー一八節


今日は今年最後の聖日の礼拝を守っております。この一年をふりかえって、われわれはどのように振り返ることができるのでしょうか。この一年無駄に走ってこなかったのだといえるかどうかであります。

 パウロは、フィリピの手紙の二章で、「このようにしてキリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったことを誇ることができる」と言っております。
 自分の人生を振り返って、自分の走って来たことが無駄でなかった、自分の労してきた事が無駄でなかったと思えたら、そういう人生を送れたら、どんなにいいだろうと思います。人生の終わり近くになってそう思える人は少ないのではないかと思います。

 旧約聖書に「コヘレトの言葉」という不思議な書物がありますが、これは口語訳聖書では「伝道の書」と訳されております。コヘレトというのは、伝道とか伝道者という意味なのですが、新共同訳はそれを個人の名前と考えて「コヘレトの言葉」したようなのですが、その書は、「空の空、空の空、一切は空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか」という言葉で始まる書物であります。これは新共同訳では、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するがすべての労苦も何になろう」となっております。

この人は、お金もたくさんあったし、またそれを自分のしたい事のために使ってきた、社会事業もして来た、学問にも打ち込んできたことがあった、知識もあった、いろいろな才能もあって、それを用いていろんな事をしてきたというのです。しかし人生の終わりになって、そうした事がみな空しく思えるというのです。

 今パウロは何をもって自分の人生は無駄でなかった、空しくなかったというのでしょうか。それはフィリピの教会の人々がこの曲がった邪悪な時代のただ中にあって、非のうちどころのない神の子となり、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保ってくれたら、という事なのであります。

 要するにフィリピの教会の人々が信仰的にしっかりしてくれたら、自分の人生はむだでなかった、むなしくなかったと思えるというのであります。

 パウロは自分がどんな大きな事業をなしとげたかとか、沢山の資産を子ども達に残せたかとか、そういう事で自分の人生はむだでなかった、むなしくなかったと思えるというのではないのです。そうかといって、自分がフィリピの教会の人々に福音を宣べ伝えて、そして彼らを信仰に導いた、そういう意味で、自分はフィリピの教会の人の役に立った、だからむなしくないというのでもないのです。

 自分が人の役に立った、だから自分の人生はむだでなかった、空しくなかったというのではないのです。何かそんな事をここで言っているように聞こえるかも知れませんが、そうではないと思うのです。

 それは、この一連の箇所でパウロが言っていることはこういう事だからであります。一二節からみますと、こうなっております。
 「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と言って、「あなたがたが非のうちどころのない神の子として世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりと保ってくれたら」、「自分の今までの走って来たことがむだでなく、労したことがむだでなかったことを知って誇りに思う」というのです。

 パウロは確かにフィリピの教会を立てるために大変な苦労をしてきたのです。信仰に彼らを導いたのもパウロなのです。しかしそれは彼らが信仰の道を歩み始めるきっかけをつくってあげただけで、彼らが本当に救われるかどうか、非のうちどころのない神の子になるかどうか、星のように輝くかどうかは、彼ら自身の問題なのです。彼ら自身が救いの達成のために努力するかどうか、彼らが努力するかどうかは彼らの問題なのです。いや、それ以上にその救いを完成へと導いてくかさるのは神さまなのです。パウロはその事をよく知っているし、信じているのです。

 パウロは今自分が役に立ったことをもって、自分の人生はむだでなかった、むなしくなかったといっているのではない、自分が人の役にたった事を誇ったり、役に立った自分を誇ったりしているのではないのです。

 確かに自分の労苦が実を結び、役に立った事を喜んではいるでしょうが、そのことでむなしくなかったと言っているのではないのです。ただ自分が役に立ったから、うれしいということではなく、フィリピの教会の人々が非のうちどころのない神の子になって救われるのをみて、自分の人生は無駄でなかった、空しくなかった、と言っているのです。

 少し極端に言えば、自分の労した事が全然役に立たなくても、フィリピの教会の人が救われていれば、うれしい、むなしくないということなのです。たとえば自分よりももっと強力な指導者が現れて、その人の指導のおかげで、フィリピの教会の人々が、非のうちどころのない神の子になっていれば、それを見る事ができるならば、パウロはそれを心から喜べるし、自分の人生がむだでなかった、むなしくなかったと思えると言うのです。

 自分が人の役に立った、そのことだけに固執してしまうと、それはまた大変空しいことになるのではないでしょうか。

 わたしが神学校を卒業して最初の赴任地であります四国の教会にいた時に、その教会で中心的な役割をしていた人が晩年になって脳溢血で倒れて、身体が不自由になって、役員もしりぞき、教会の礼拝にも一時出席できなくなったことかありました。その人はお医者さんで、その町の初代の教育委員長もして、教会のためだけでなく、町の人々からも慕われ、重んじられた人でした。

 病床を訪問して、一緒に聖書を読んでいた時に、その人から今まで自分がやってきたことが空しいといわれてびっくりした事がありました。聖書も讃美歌もつまらなくなったともいい、教会のためにもいろいろな事をしてきたけれど、なにかむなしく感じると言われて、わたしは困惑いたしました。わたしは神学校を卒業をして初めての赴任地で、牧師になったばかりで、とても困惑しました。

 奥さんは大変信仰深い人でしたから、大変おろおろして、時々、ご主人がいない時に、私との祈りの時には、どうか主人が最後に神様の栄光を汚さないようにさせてくださいと、祈っていて、胸が熱くなったことがなんどかありました。

 そのかたが亡くなったあと、記念の文集が出ましたが、その中に奥さんの日記も載っていて、その頃のことをこう書いているのです。五十年あまりの信仰生活を送って来て、主人は「自分は今日までキリスト者の真似をして来ただけだった。自分がキリスト者である事は芝居に過ぎなかった、主よ、どうかわたしより離れて下さい、わたしは罪あるものです」と苦しんで祈っているというのです。

 そのご主人に対して、奥さんは「ただ幼子のようになりましょう。難しい事を考えずに、ただ、みどり子が母の腕に抱かれるように、私達も主のみふところに抱かれましょう」と、それだけをご主人にいい続けたというのです。
 そして奥さんは「神様どうか主のみ栄えを汚すことかありませんように導き守り給え」とただ祈りつづけました、と日記に書いているのであります。

 そのかたは教会のためにも、町の人々のためにも本当に役に立って来たのです。威張らないし、優しいし、親切だし、その人を悪く言う人はいないような立派な人生をそれまで歩んで来た人であります。その人が「自分がしてきたことはすべてむなしい」というので、わたしは本当に困惑いたしました。

 今まで人の役に立って来た、そして今は身体が不自由で人の役に立てなくなっ
た、そうしたら、突然空しさに襲われたわけです。役に立つという事だけを自分の生きがいにしていると、われわれもそういう空しさに襲われてしまうのではないでしょうか。

 そのかたは、あるときに訪問して聖書の学びをしているときに、「四国のお遍路さんは、頭に「同行二人」と書いた編み笠をかぶって、お寺参りをする。「同行二人」というのは、どんなにひとりで歩いても弘法大師さんも一緒に歩いているという意味だ。信仰というのは、それと同じで、どんなときにも神様がともにいてくださるということですね」といわれて、とてもはれやかな顔をしておられるのを見て、わたしは本当にほっとしました。そして信仰をとりもどしたのであります。

 信仰というのは、自分が何かするとか、自分が神様を捕らえるとかという事ではなく、神様がどんな時にも一緒にいて下さるという事だと知るようになって、平安を与えられて、信仰的にも幸いな最後を迎えることができたのであります。

 役に立つことだけが生きがいだということだと、年をとって人の役に立てなくなったとき、われわれは突然空しさに襲われてしまうのではないでしょうか。年をとって、ただ昔は自分は人の役に立ったんだと、その思い出にふけって楽しむことだけが人生の生きがいになってしまったら、あまりにも淋しい晩年という事になってしまうのではないか。

 確かに人の役に立てたらうれしいにちがいないのですが、わたし自身年をとって、何の役にも立てないようになった時、その空しさに耐えられるかどうか自信はないのですが、しかし今から、自分は役に立てた、自分が役に立ったのだと、自分が自分が、という思いを捨てる訓練をしておかないと、年をとって人の役に立てなくなったとき困るのではないかと思うのです。

教会というところは、よく奉仕、奉仕といって、奉仕することを言いすぎるのではないかとわたしは時々、思うのです。何か教会の仕事をして、奉仕することが、そのようにして目に見える形で役に立つことが、神様に奉仕することだと考えているところがあるのではないか。教会のなかで、ただ礼拝に出席して、そしてすぐ帰ってしまうということでは、とても肩身の狭い思いをする人がいるのではないかと思うのです。

 英語では、礼拝ということをサービスというのです。つまりサービス、奉仕ということのもっとも基本的なことは、神にサービスすること、それは神様を礼拝するこなのです。それが神に奉仕する、神に仕えるということなのです。礼拝に出るということが最大の奉仕なのです。

 教会では、しばしば奉仕、奉仕といわれて、奉仕しないと、奉仕ができないとなにか信仰者として、肩身が狭い思いをするようになってしまったら、それでは、行いによって義とされる、行いによって救われるのだということになってしまって、パウロのいっている「信仰義認」、つまり、われわれが救われるのは、行いによるのではなく、ただキリストの恵みを信じる信仰によって救われるのだということからいつのまにか逸脱してしまうことになるのであります。

もちろん教会もまた具体的に体を動かしていわゆる奉仕をしてくれる人がいないと成り立っていかないし、成長しないのは確かなのです。ですから、奉仕している人の働きは尊いし、ありがたいし、できる人はどんどん奉仕していただきなくてはならないと思うのです。しかしそのように奉仕できる人が、そして現に奉仕している人が、そのような健康と環境を今与えられて感謝であるという謙遜な思いをもっていないと、そのようにして本当に仕えるという気持ちをもっていないと、それは教会の交わりにはならないと思います。

 そして、教会の場合、本当の奉仕とは、神を礼拝することなのだということを肝に銘じておかなくてはならないと思います。

 この世の価値基準はでは、役に立つ人が尊いという価値基準で人をみております。ですからもう何の働きもできなくなったしまった老人は粗大ゴミになってしまうのであります。

 パウロは、コリントの教会のなかでいろんなことで分裂が生じたと時に、こう言ってコリントの教会の人々をいさめるのです。

 教会というところは、ちょうど人間の体のようなものだというのです。人間の体にはいろんな肢体がある。頭もあれば、心臓も、目や耳もある。しかし「わたしは手ではないから、からだの一部ではない」といったら、どうなるのか、というのです。もし耳が「わたしは目ではないかから」体の一部ではないといったら、どこで聞くのかというのです。「目が手に向かって、お前は要らないとはいえず、頭が足にむかって、お前なんか要らないなどといえないではないか」というのです。「神はご自分の望みのままに、体の一つ一つの部分をおかれたのだ」というのです。

 そして「体の中では、ほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのだ。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組みたてられたのだ。体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮しあっているのだ。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむ。一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのだ」、そういって、パウロは教会の分裂を回避させようとするのであります。

 つまり、教会の中には、とても行動的で力強い働きをする人がいる。そういう意味ではとても役に立つ人がいる。しかしそういう行動的でなく、ある意味では少しもあまり役に立てない人もいる。それでもいいのだ、その人も同じキリストというからだに属しているという点で大事な人なのだということなのです。

 ここで注目しておきたいのは、パウロが「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体に組み立てられた」と言っているのですが、しかし考えてみれば、体の部分にどこにそんな部分があるだろうか。体というのはよくできていて、重要な部分はちゃんと骨などで守っているのです。見劣りのする部分をいっそう引き立たせて」なんてことは、体に関してはあり得ないのです。

 つまり、体に関していえば、役に立つ部分と、あまりそれほど役に立たない部分というのは歴然としてあるのです。全く役に立たない部分というのはないかもしれませんが、しかし役に立つ部分は重んじられるのは歴然としている。頭脳がなければ、心臓がなければ、人間は生きていけないのです。しかし小指がなくたって人間は生きていけるのです。

 そう考えれば、 パウロがここでいっていることは、つじつまがあわないことになるのですが、パウロはここではもう人間の体の話から離れて、人と人との関係の話、具体的には教会の中での人との交わり、関係の話に話しを移しているのです。

 教会の交わりのなかでは、役に立つから尊いという価値基準から離れて、どんなに見栄えのしない、役に立たないとい思われる人も神は大切にお考えになって、その人をいっそう引き立たせているというのです。

 つまり、教会といういうところは、役に立つから尊いという価値基準を離れて、同じキリストという一つの体に属しているから尊い、だからどんな小さな存在でも、それこそ小指の爪の先でも、キリストという一つの体に属しているという限りにおいては、その価値は同じだというのです。

 われわれが自分の人生をふりかえって、役に立つことが尊いという価値基準だけでいっさいのものを判断するとなると大変むなしいことにならないか、大変困ることになるならないか。

 確かに、利潤追求を第一にしなくてはならない会社の組織では役に立つ社員が重んじられるのは当然であります。しかしその基準がわれわれの人生のすべてにおいて適用されるならば、これは大変困ったことになるのではないかと思うのです。
 
 パウロは「このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」という時、ただ自分の労苦が役に立ったということを喜び、誇っているのではないのです。

 「このようにして」という言葉がその冒頭にあって、この文章が続いているのです。「このようにして」というのは、フィリピの教会の人が完全に救われて、正しい信仰に立つことができて、ということ、そのことをパウロは何よりも喜んでいるということなのです。

 われわれも自分の愛する人がいたら、その人が幸せになっているのをみたら、うれしく思うのではないでしょうか。それはその人の幸せに自分が少しでも役に立ったからではないのです。自分がなんの役に立っていなくても、自分が何の関与をしていなくても、その人が幸せになってくれたら、われわれはうれしいと思うのです。

 自分の子どもが、だれか素晴らしい人と結婚できたらうれしいと思うのです。親である自分がその事に何にも労苦せず、関わっていなくてもです。自分が自分の子供の結婚になんの関与もしていない、なんの労苦もしていない、つまり自分が役に立ったわけでもない、しかしそれでも自分の子供が誰かいい人と結ばれて幸せな人生を送っているのをみたら、われわれ親はうれしいのではないでしょうか。

 自分が労苦し、役に立ち、自分が関わって、相手が幸福になった時だけ、その人の幸せを喜ぶというのでは、ずいぶん情けないことだと思います。

 パウロは今、ピリピの教会の人々が信仰的にしっかりしてくれたらどんなにうれしいかというのです。一七節一八節をみますと、「わたしは喜ぼう、あなたがた一同と共に喜ぼう、同じようあなたがたも喜びなさい、わたしと共に喜びなさい」と言って、パウロはどんなにうれしいかということを言っております。

 われわれがただ自分が幸福になること、それだけを追求して、それだけが自分の生きがいになっていたら、それはずいぶん空しい人生になるだろうなと思います。われわれはこうした教会の交わりのなかにいますと、教会の一人一人のことが気になるわけです。だれかが重い病気になって入院したとなるとその人のことが気にかかります。

 ときどき、どうして他人の動静のことで自分の生活がふりまわされてしまうのか、と思う時があります。どんなに自分がなにか幸福な状態になったときでも、教会の一人の人が重い病気になっていたら、やはり手放しで自分の喜びにひたれないという時があります。そういう時どうして自分の人生が他人に左右されてしまうのかと思いたくなる時もあります。

 しかし考えてみれば、そのようにして自分の人生がただ自分一人の、あるいは自分の家族だけのことで、終わるのではなく、他人によって左右される、他の人の幸不幸によって左右される、それはなんと幸いなことだろうかと思うのです。
 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣ける人生、そういう人生を歩めたらどんなにかしあわせかと思うのです。

 この一年を振り返って、自分がどれだけ人の役に立ったかと思って、自分の働きを誇って、充実感をもつのではなく、そんなことではなく、自分のことではなく、ある人の喜びを共にすることができたか、その人の喜びを一緒になって喜べたとしたら、それはむなしい一年ではなかったといえるのではないでしょか。それはただ喜びだけでなく、悲しみも同じです。ある人の悲しみを自分もまた共に悲しんだ、心から悲しんであげることができたらならば、それは決してむなしい、無駄な一年ではなかったということになるのではないかと思うのであります。