「自分のために泣けー受難節のなかにあって」 ルカ福音書二三章二六ー四三節

 受難節にあたって、ルカによる福音書を通して、イエスがどのように十字架の道を歩んでいったのかを学びたいと思います。イエスの受難の記事は、マルコ福音書やマタイ福音書と似ておりますが、しかし、細かく読んでいきますと、やはり、違った書き方がされているところが見えて来ます。今日はその違ったところをとりあげて、イエスの十字架の出来事とはなんだったのかを学んで行きたいと思います。

 まず最初に取り上げたい聖書の箇所は、ルカ福音書の二三章二六節からの記事であります。この箇所は、マタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも、そしてヨハネによる福音書にもない記事で、ルカによる福音書だけにある記事であります。

 ここはイエスが最高法院でイエスが死に価する罪を犯した者として認定され、当時ユダヤを支配していたローマの総督ビラトに引き渡され、そのビラトから死刑だという判決を受けて、十字架刑に処せられることが決定して、イエスは十字架刑にされるための木を背負わされ、ゴルゴタまでの道のりを見せしめに歩かせられる所であります。

 イエスが十字架を背負って歩いているその途中で、田舎からでて来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせて、イエスの後ろから運ばせたのであります。

 十字架を背負うといっても、あの十字になった十字架を背負ったのではなく、十字架刑の横木を背負わされたのではないかといわれております。十字架の縦の杭はすでにゴルゴダの丘に立てられていたのであります。

 恐らく、イエスはその十字架の横木を背負いながら、息絶え絶えだったのではないかと思われます。倒れては起き上がり、倒れては起き上がりして、ゴルゴダの道を歩いた。それで人々は気の毒に思い、たまたま通りかかったシモンにそれを背負われたのではないかといわれております。

 そういうイエスを見て、民衆と嘆き悲しむ婦人達が群れをなして、イエスに従った。そのとき、イエスは嘆き悲しむ婦人達に向かってこういった。「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」。口語訳では、「自分自身のために泣け」となっていて、このほうが原文に忠実であります。

 「わたしのために泣くな。自分自身のために泣け」というのであります。婦人達は心からイエスに同情して涙をながしていたのだと思うのです。しかし、イエスは「わたしのために泣くな。むしろ自分自身のために泣け」と言われたのです。

 われわれは、ある人が不幸にあったときには、その人のために嘆き悲しみます。しかし、それはなんと薄ペラな悲しみであるかということは、われわれが自分自身でよく経験していることではないかと思います。葬式に参列して、故人の死を悲しみ、また残された遺族のことを思って涙をながすかもしれません。しかし、その帰り道、久しぶりにあった友人達とわれわれは平気で談笑しながら歩くのではないでしょうか。
 われわれは本当に人のために泣くことなどしたことがあるでしょうか。

 イエスは、そんな薄ペラい同情心なんかいらない、それよりは、自分自身の為に泣けと言われたのです。

 本当に涙を流さなくてならないのは、わたし、イエスのことではなく、お前自身のことなのだ、お前達はわたしの不幸に同情し、涙をながしているのかもしれないが、しかし本当は、お前自身のほうがもっと不幸なのだ、もっと悲しむべき状況にいるのだ、どうしてそのことに気がつないのかというのであります。
 このときイエスが、婦人達の、というよりは、われわれ人間の悲しむべき不幸についてどんなに同情し、悲しんでいたかということであります。

 マタイ福音書、マルコ福音書は、イエスの十字架の道、受難の出来事を記す記事は、いわゆるナルドの香油といわれている記事から始めております。ひとりの女がイエスの体に高価な香油を注いだ。弟子達は、それを見て、「何でこんな無駄なことをするのか、この香油を売って、そのお金を貧しい人に施したほうがいいのに」といった。それに対してイエスは、この女はわたしの葬りの用意をしてくれたのだといって、イエスはこの女の行為をとても喜んだという記事であります。

 ひとりの、イエスから罪赦された女が心からの感謝を表す思いを込めてした行為が、くすしくも、イエスの十字架の道を指し示す行為になったと記して、マルコ、マタイ福音書は、イエスの受難の記事を始めているのであります。しかし、なぜか、ルカによる福音書にはその記事はないのです。

 ルカによる福音書では、この出来事を別の箇所に移しているのです。一人の罪深い女が食事しているイエスのところにいって、香油の入った石膏の壺をもってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足もとに接吻をして香油を注いだ。それをみて、ファリサイ派の人が「イエスが本当の預言者だったならば、自分に触れている人間が罪深い人間であることがわかる筈だ。この女は罪深い女なのだから」と心のなかで思ったのです。
 イエスはそれを見抜いて、この女は多くの罪を赦されたからこそ、こうして自分に香油を注いでその感謝の思いをあらわしているのだ。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」といわれて、この女にあらためて、「あなたの罪は赦された」といわれたという記事にしているのであります。
この女は自分の罪の深さに気づき、わたしに赦しを求めてきた、それに対して、お前達は自分の罪に気づいていない、なんと愚かな、傲慢なものかとイエスは嘆いたのであります。

 ルカが、マタイやマルコにある葬りの記事を、罪赦された女のイエスに対する感謝の愛を示した記事にして、イエスの十字架が罪を赦すためのものであることをあらかじめ示したのであります。

 そして、イエスがペテロが三度わたしのことを否むであろうと予告する記事のなかでは、ルカ福音書は「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った。だからあなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」といわれたということを記しているのであります。

ルカ福音書だけは、「わたしはお前の信仰がなくならないように祈っている」というイエスの言葉を記しているのであります。マルコとマタイは、その代わりに、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたよりも先にガリラヤへ行く」言われたのです。それがルカが示す「わたしはお前の信仰がなくならないように祈っている」ということなのかもしれません。

 そして、そのペテロがイエスが捕らえられて、大祭司の庭に連れていかれたときに、ペテロも遠く離れながらもそれを見ていた。そのときに人々から「お前もあのイエスの仲間だった」といわれたときに、ペテロは「わたしはあの人のことなんか知らない」と誓い、その誓いが三度に及んだときに、鶏がないた。そのときに、「主は振り向いてペテロを見つめられた」とルカは記しているのであります。これはマルコもマタイの記事にはないのです。「主は振り向いてペテロを見つめられた」。

 そしてペテロはそのとき、「今日鶏が鳴く前にお前は三度わたしを知らないというだろう」といわれた主の言葉を思い出して、外に出て激しくないたのであります。

 ペテロが主イエスの自分に注がれたまなざしに気づいて、主の言葉を思いだして、外に出て激しく泣いたのかどうかは、はっきりとは記されてはおりませんが、ルカ福音書では、イエスがペテロの裏切りを、ただ非難するべきものとしてとらえたのではなく、それをペテロの弱さとしてとらえて、そのペテロの弱さに深く同情し、深く憐れみ慈しんでいるイエスの様子をわれわれに伝えているのであります。

 その前の記事ですが、ゲッセマネのイエスの最後の祈りの場面ですが、イエスが「父よ、御心ならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と、イエスが必死になって、父なる神に祈っているとき、ルカ福音書だけは、こう記しているのであります。

 「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」と書き記しているのであります。
 ルカだけは、天使が現れて必死に祈っているイエスを力づけたのだと記しているのであります。しかし、それによってイエスの苦しみがなくなったり、軽くなったのではなく、かえって、ますますイエスは苦しみもだえ、切に祈り、汗が血のしたたるように地面に落ちたというのです。
 ルカは天使が現れたことを記しておりますが、その天使はイエスの苦しみを取り除くために降ってきたのではなく、イエスの孤独な苦しみを背後から支え、ますます父なる神に祈るように励ますために来たのだと記すのであります。

 そしてイエスが必死になって祈っているとき、弟子達は眠りこけていた。深夜ですから、むりもないかもしれませんが、ルカによる福音書では、「イエスが祈り終わって立ち上がると、彼らは悲しみの果てに眠りこんでいた」と記すのです。
 
 この場面は、マルコ福音書や、マタイ福音書では、その様子をイエスが見て「お前達はわずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い」と、イエスは弟子達を叱責しているのです。イエスは弟子達に対して、怒り、ある意味では、あきれ果てた様子を記しておりますが、ルカによる福音書は「イエスが祈り終わって立ち上がると、「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいてた」と、書き記しているのであります。

 そのあと、イエスはマルコやマタイと同じように、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないよう、祈っていなさい」とは書いてはいますが、弟子達が眠っている理由を「彼らは悲しみの果てに」と書き記しているのです。

 そして、ルカ福音書にあって、マルコやマタイにない記事は、人々がイエスを十字架につけた時であります。そのときに、二人の犯罪人も一人は右に一人は左に十字架につけられた。イエスはその犯罪人のちょうど真ん中に十字架につけられたようであります。そのときにイエスがこう祈ったと、ルカは記すのであります。
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ったと書き留めるのであります。

 ここでいう「彼ら」というのは、犯罪二人のことをいっているのではなく、イエスを十字架につけようとしている人々、それは実際にイエスを十字架につける作業をしていたローマの兵士たちだけのことではなく、イエスを十字架に追いやったすべての人々のことを含んだイエスの深い思いであります。

 自分を罵り、蔑み、十字架へ、十字架へと追いやったすべての人々、つまりわれわれを含むすべての人に対するイエスの言葉であります。「彼らをお赦しください」と祈られた。しかもその理由は「彼らは何をしているのかわからないだけなのだ」と言われたのであります。

 イエスは、われわれ人間の罪をただ糾弾するのではなく、われわれ人間の罪をわれわれの愚かさとして、われわれの無知として、つまり、われわれの弱さとして、理解し、われわれを深く憐れんでくださって、「彼らは自分が何をしているのかわからずにいるのです」といわれて、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたのであります。

 われわれは何か悪いことをするとき、罪を犯すときは、自分がなにをしたいかは分かっている筈です。それはわれわれが自分が得したい、自分だけが得したい、自分だけが人よりも立派になりたい、という思いが、われわれを罪に駆り立てるのだということはわかっていると思うのです。しかし、イエスは、それはわれわれが本当は、自分がなにをしたいかはわかっていないからそうしているに過ぎないのだ、彼らには、悪意はないのだと言ってくださっているのであります。ルカはそこにイエスの深い憐れみをみているのであります。

 これはルカが自分勝手に都合良く、そのように解釈したというのではなく、ルカがイエスの深い、豊かな愛に触れて、そのようにイエスの十字架の罪の赦しを受け止めたということであります。

 そしてこれもルカだけが記しているのですが、イエスと共に十字架につけられたふたりの犯罪人のことであります。ひとりは、「お前はメシアではないか。それならば、自分とわれわれをこの十字架から解放して、救ってみたらどうか」とイエスを罵った。するともう一人の犯罪人は、「お前は神を畏れないのか。われわれは自分のやっていることの報いを受けて、いまこうして十字架で罰を受けている。しかし、このかたは何も悪いことをしていないのに、十字架で殺されようとしているのだ」といって、仲間をたしなめ、そしてイエスに向かって「イエスよ、あなたがあなたの御国においでなるときには、わたしを思い出してください」と言ったのであります。

 この犯罪人は、自分の犯した罪のことを考えたら、イエスに向かって、わたしをあなたの御国に、つまり天国に連れていってください、とは言えなかったのです。だから、「あなたがあなたの御国いらしたときに、せめてわたしのことを思いだしてください」としかいわざるを得なかったのです。

 するとイエスはただちに「はっきりいっておく。お前は今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われたのであります。ただ「お前のことを思いだしてあげるよ」と言われたのではなく、また将来いつの日か、というのでもなく、「今日ただちに、わたしと一緒に」と言われたのであります。イエスと一緒にパラダイスに最初に行ったのは、この犯罪人だったというのであります。

 そうして、イエスは息を引き取るときに「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言って、息を引き取ったのであります。
 このイエスの十字架の上での最後の祈りも、マルコ福音書、マタイ福音書ではイエスが「 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫して息を引き取られたと記されているのであります。

 マルコ、マタイが描くイエスの十字架像は、われわれ人間の罪を担って、われわれの身代わりとなって、屠られる小羊としての神の子、そういうイエスの姿、それはイザヤ書五三章で歌われている「苦難のしもべ」の姿であります。「その打たれた傷によっていやされた」と、イエスの十字架を理解しているのであります。
 われわれは自分の正しさをあくまで主張することによって、自分の我を主張することによって罪を犯すのであります。その罪を救うためには、その罪を明らかにして、神の子みずからが罪人のひとりとして、神に裁かれ、神に見捨てられた者として、十字架で死に、その打たれた傷をわれわれに示すことによってしか救いの道はなかったことを示そうとしたのあります。

 それに対して、ルカが描くイエスの十字架像は、われわれ人間の罪をわれわれ人間の弱さとしてとらえ、その弱いわれわれを糾弾するのではなく、裁くのではなく、どこまでも、赦すということ、赦し続けることによって、神の愛に気づかせる事によって、われわれの弱さとしての罪を救おうとなさった救い主の姿を示したのではないか。

 同じイエスの十字架を描きながら、このように違うのはどうしてなのか、なにか矛盾しているではないかと思われかもしれません。しかし、それは同じひとりのイエスがそれを受け止める人間の見方によった、このような違いを示した、それほどにイエスの存在、イエスの生き方、死にかたが豊かな、深い存在だったということであります。イエス・キリストご自身の存在そのものが、そのように違う十字架像をわれわれに示したのだということであります。

 われわれの罪も、あるときには、自分の正しさをあくまで主張するという我の強さとしてあらわれる時もあるし、また自分の意志の弱さ、もろさとして現れることもあるということであります。

 われわれはイエスの十字架において示された神の義、われわれの罪に対して、あくまで否として示された神の義が示されたことによって、がーんと打ち砕かれることによって、救われるし、またあくまでわれわれの罪をゆるしてくださるという神の愛によって救われるのだということであります。