「忍耐して待ち望む」 ローマ書八章一二ー二五節


 ローマの信徒への手紙八章一七節をみますと、「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」とパウロは言います。

 救われたわれわれは御霊を受けて神の子にされたのだと言って来たのであります。それならば神の相続人だ、それならば、神の子であるキリストと共同の相続人である、それならば、キリストが担った苦難をも引き受けるのは当然である。キリストと同じ相続人でありならがら、キリストの受けた苦難を引き受けるのはいやだ、いわば神の相続人として良いところだけを引継たいというのでは本当の相続にとは言えないだろうというのであります。

 以前にも紹介いたしましたが、「サラダ記念日」を書いた俵万智さんが「結婚する相手に誰を選ぶか。この人となら一生苦労しなくてすむという人を選ぶか、それともこの人なら一緒に苦労してもいいという人を選ぶか。わたしなら後者を選ぶ」という意味のことを書いておりました。

 「苦労しないですむ人を選ぶか」、それとも「苦労してもいいという人を選ぶか」、本当はこれは違っているようで、実は同じことだと思います。つまりこの人となら苦労を共にすることができるということは、本当はこの人となら苦労も苦労ではないということだからであります。

 それはともかく、確かにこの人となら苦労しなくていいというような安易なことで、たとえば家がある、車ももっている、姑がいない、だからこの人と結婚するという人もいるかもしれませんが、そのような結婚が長続きする筈がないこと目に見えております。

 人を好きになるということは、その人と苦労を共にすることができるでしょうし、その人となら苦労も苦労でなくなるということだろうと思います。パウロはそのことを言うのであります。

 そしてもう一つここでパウロがキリストと共に担う苦難について言う理由は、われわれが救われたのは、ただキリストの優しさ、その愛の優しさ、そういうものに触れて気分がさわやかにされて救われたのではないということであります。われわれはむしろキリストの苦難に触れて、つまりキリストの十字架の苦難にふれて救われたのであります。それならばその苦難をわれわれは避けて通れない筈であります。

教会の暦では、先週からアドベント、待降節に入っておりますが、聖書によれば、イエス・キリストはその生まれたときから苦難を受けて生まれたのだと書くのであります。マタイによる福音書は、イエスが生まれたときは、ユダヤ人の王として生まれたという噂がたったために、時のユダヤ人の王ヘロデは、そのイエスを幼児のうちに抹殺してしまおうとした、そのために幼子イエスは両親につれられてエジプトまで逃げていったと記されているのであります。そしてそのためにイエスを抹殺しようとしてイエスが生まれたというベツレヘムの町とその周辺の二歳以下の男の子はことごとく殺されたというのであります。

 ここには、われわれが想像し期待するようなクリスマスにまつわるロマンチシズムなどはみじんも感じられないのです。

 キリストの苦難とはどういう苦難だったのでしょうか。それは神の愛をわれわれに伝えるという苦難でした。その神の愛とは、われわれ人間の罪を明らかにし、しかもその罪を赦すということで示される愛でありました。ただ人に優しさを示せばいいという慈悲深い愛ではなかったのであります。

 われわれはそのようなキリストの苦難の伴った愛によって救われたのであります。それならばわれわれもまたキリストと同じ神の子としての共同の相続人になるば、キリストと同じように苦難を避けて通るわけにはいかないのであります。キリストと一緒に苦労しようというのであります。

 パウロはその苦難について述べる時、できるだけその苦難を大げさにならないように、軽くしようとしているのではないかと思います。一八節をみますと、「わたしは思う。今のことの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足らない」というのであります。

 苦難そのものが目的ではないのだというのであります。宗教にはなにか苦難を担うことがまるで目的であるかのような宗教もありますが、そういうことはキリスト教にはないのです。難行苦行することが救われるための目的ではないのです。「この苦しみはやがて現される栄光に比べれば言うに足りない」、大したことはないというのであります。

 そして一九節からは、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでる」いうのです。

 ここを読んでいて不思議に思うのは、ここで、いきなり「被造物は」と出てくるところであります。なぜここでいきなり「被造物は神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」ということがでてくるのか。前の節とまったく関係のない言葉がここででてくるのです。

 この一八節から一九節を結びつけるものは、苦しみということであります。
 神の子たちの担うべき「苦しみ」と、被造物が現在服している「虚無」という苦しみ、そして二二節にある「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味をっていること」という、「うめき」「産み苦しみ」ということであります。苦しみということが結びつけているのであります。

ここでいわれている被造物は何を指しているのか。いろいろ議論はあるようですが、被造物の代表は人間ですから、人間のことをさしているのだともいえますが、しかしやはりここではわざわざ被造物という言葉を使っているので、人間を含めた自然界全体のことをさしていると思います。それは今日環境問題のことを考えますと、よくわかることであります。

 神の子とされたわれわれが担うべき苦しみと、今自然界全体、被造物が服している虚無とうめきという苦しみは、無関係ではないというのです。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」というのです。「共に」です。

現代の環境破壊の問題を考えれば、それはわれわれひとりひとりの人間の欲望と深くかかわっていることがわかると思います。便利さを追求するという文明のゆくつくところが、ついに環境破壊へとつながっていることが今切実な問題になっているのであります。

 原子力発電の問題は、われわれひとりひとりの欲望の問題とかかわっている問題であります。われわれが自分達の日常生活においてただ便利さを求めるという欲望を追求したために、電力がどうも不足がちだということがわかってきた、そのためには、原子力を利用しようということになって、自然の摂理に逆らってまでして、原子力の利用を思いつき、それはしかたないことだとみんなも承認するようになったのではないかと思います。

 しかしそれが津波という自然界の反逆を受けて、原子力発電所が被害を受け、いったん破損された原子力発電所は核の猛威というか暴走を納めることができなくなっているのであります。

 それは旧約聖書の神話にでてくるバベルの塔の話で示唆されていることがそのまま起こったのではないかと思わせられる出来事であります。

 バベルの塔の神話は、人間が神のようになろうとして善悪の木の実を食べて、神のごとくなろうとしてとうとう自分達の知恵で文明を作り上げ、それを天にまで達する塔を建てて、もはや神を必要としない世界、神になりかわって人間だけの世界を作り上げようとした話であります。それに対して神は怒り、人間の言語をバラバラにして、その人間の知恵の結集である文明の傲慢な企てを阻止したという話であります。

 ここには、人間の知恵を結集して積み重ねた文明に対する痛烈な批判がすでに記されているのであります。それは文明という人間の傲慢な罪の姿に対する神の裁きであります。

 核を利用し、あるいは遺伝子を操作するというわれわれ人間の知恵が、今あの原発事故によって、その核の猛威を受けて、それをどうにも押さえきれないという文明の復讐を受けているような気がするのであります。

 原子力発電所が使えなくなり、電力不足があきらかになったときに、われわれは自分たちの便利さを抑制して、少しでも、電気を使わないように抑制して、その危機を乗り切ろうとしたのであります。

 それは少し大げさにいえば、ひとりひとりが自分たちの限りない欲望を少しでも抑制するという意志と行動によって、自然界の秩序を回復することになるのだということを示すことができたということではないかと思います。
 
ひとりの人間の意志と行動が、自然界の破壊をあるいは留めることにつながるかもしれないという希望を与えたのであります。

 脚本家の山田太一が、しきりに現代人はあきらめということの大切さを忘れてしまっているといっております。あの東日本大震災以後、あまりにも頑張れ、頑張れといって、頑張ればなんとかなると思っているところがあって、それは傲慢ではないかというのです。われわれ現代人はあきらめるということを忘れてしまっている。われわれはどこかであきらめるということが大切だといっているのであります。

 今東北の大震災後は「頑張れ日本」が標語になっている、そうしたなかで山田太一がそう発言したために、それは懸命に頑張ろうとしている人々に水をさすようなことではないと大きな論議になっているそうであります。
 
 自分達の欲望を限りなく拡大することにやっきになっている。それが原子力発電を要請し、あるいは遺伝子のさまざまの操作を追求することによって死をまぬがれようとしている、しかし、人間はいつかは死ぬのだ、あきらめてその死を受けいるというあきらめが必要なのではいなかということなのであります。

キリストと共に苦しむという苦しみ、それは自分達の自己中心的な生き方を止める、断念する、自分達人間の欲望を限りなく追求する生き方を断念するという苦しみでもあると思います。

 われわれ人間は神によって造られた被造物にすぎないことをあらためて自覚して、被造物と共に神の前に服するということが、神の子とされたわれわれの責任であります。

 ひとりの人間が救われてキリストと共に苦しむ道を歩み始めるときに、全被造物もまたそれによって希望もてるようになる、ということなのだとパウロはいうのです。
 
 二三節には「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされることを、つまり、体の購われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる」といい、「わたしたちは、このように希望によって救われている」というのであります。リビングバイブルでは、このところを「わたしたちは、このように信じて待ち望むことで救われる」といったあと、さらに付け加えて「信じて待ち望むとは、今はもっていなくても、やがて与えられると確信して待つことです」と訳しているのであります。

 われわれはクリスチャンになってもいつも思うことは、こんな状態で本当に救われたといえるのだろうかという不安と嘆きではないかと思います。多少は人を愛せるようになったかもしれません。多少は自己中心的な生き方を抑制できるようになったかもしれません。

 しかし、根本的にはわれわれはやはり自分中心の生き方からは抜き出てはいないのではないか。いざというとき、やはり最後に顔を出すのは、自我ではないか、自己中心的な思いではないか。そういう自分の現実の姿を見せつけられたときに、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体からだれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆かざるを得ないのではないか。

 われわれは救われた現在の自分だけをみたときに、絶望的になるのではないかと思います。そういうときに、われわれは現在の自分の姿だけをみるのではなく、リビングバイブルの訳のように「今はもっていなくても、やがて与えられると確信して、待つことだ」と、将来与えられる神からの救いを望むことができる、その望みによって救われるのだというのです。

 「望みによって救われている」というこの言葉はどんなにありがたい言葉かと思います。

 パウロは同じことをコリントの信徒への手紙の第二の四章でもこういっているのです。「わたしたちは落胆しない。たとえわたしたちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされていく。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べるものならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目をそそいでいるのだ」というのです。

 「見えるもの」とは現在の自分、クリスチャンになっても一向によくなっていない自分の現実の姿であります。それだけに目を注いでいたら絶望してしまう、しかしそうではなく、「見えないもの」、神があたえてくださる、体の完全な贖いがあるという希望を与えられているのだということであります。

 そしてそこではパウロはさらに続けて、こういうのです。われわれはこの地上の幕屋にあって苦しみもだえている。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいてるというのです。
 そして続けてこういうのです。「それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではない、天から与えられるすみかを上から着たいからだ」というのです。
 
 自分の中にある醜いものを完全に脱ぎ捨てようとするとき、われわれはなかなかそれはできないのです。しかしそういう自分の醜いものの上から、もうそのあるがままの醜い自分の上にすっぽりとキリストのあたえてくださる罪の赦しという赦しの上着、白い衣を上からすっぽりとかぶることが許されている、それがわれわれの救いなのだというのです。

 罪を犯したアダムとイブは、自分達の醜い裸の姿をみて、あわてていちじくの葉で覆い隠そうとしましたが、神は哀れに思って、神自ら皮の着物を造ってくださって、着せてくださったのであります。

 今はわれわれには、その皮の着物よりももっと大きな白い衣を着せていただいて、われわれの醜い罪の姿をおおってもらえるのです。

 詩編三二編では「いかに幸いなことでしょう。背きの罪を赦され、罪を覆っていただいた者は」とあります。罪が赦されるということは、罪が覆われることだと表現されているのです。それはなんというありがたい言葉かと思います。自分の罪を隠すことができるということはなんとありがたいことではないでしょうか。

 「被造物は神の子の現れるのを切に待ち望んでいる」というのです。被造物はどういう神の子の現れるのを待ちの望んでいるのでしようか。

 それは神の子であるわれわれが、なにか立派なクリスチャンになった、立派な人間になったということなのでしょうか。そうではないのです。われわれクリスチャンもクリスチャンでない人とちっとも変わっていないかも知れないのです。この世にあってクリスチャンでない人と同じように心の中でうめきながら苦しんでいるのです。

 しかしわれわれはそういうわれわれであっても、必ず将来「からだの贖われるんだということを待ち望んでいる」、そういう待ち望んでいるという生き方の姿勢が大事だと思います。

 クリスチャンという完成品が大事なのではなく、まだ完成品ではないのだ、途上にある人間なのだ、しかし完成される望みをもってこの地上でうめきながらも生きているのだ、そういう神の子であるわれわれの姿を被造物は待ち望んでいるというのです。それがわれわれのクリスチャンとしての証なのではないか。

 しかし、われわれクリスチャンにとって、あきらめるということは、神から希望が与えられているからであります。希望があるから、あきらめることができるのであります。
われわれは忍耐して待ちのぞむことができるのであります。忍耐して、忍耐には、うめきのような苦しみが伴うと思います。しかし待ち望むという希望が与えられている、だから心の中でうめきながら、忍耐して、待ち望むことができるのであります。