「忍耐と慰めの源である神」  ローマ書一五章一ー一三節


 パウロは「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」といいます。パウロはただ「強い者は、強くない者の弱さを担うべきだ」というのではなく、「わたしたち強い者は」というのです。

 われわれは「わたしたち弱い者は」という表現ならば、よく使いますし、ある意味では、使いすぎるところがあると思います。クリスチャンにとっては、それはひとつの口癖になっている位だと思います。しかしパウロはここで「わたしたち強い者は」というのです。あれぼと謙遜になりなさいと説いてきたパウロが、「わたしたち強い者は」というのですから、それは決して傲慢な意味でいっているのでないことは明かであります。

 そんなことをいったら、すぐ人から傲慢だといわれるかもしれないけれど、そんな批判にはたじろがないほどの自信があるからこそ、パウロは「わたしたち強い者は」と言っているのだと思います。それはそういうことによって、決して自分は傲慢になっていないという思いがあるからであります。

 パウロが「わたしたち強い者は」というとき、それは決して自分の性格の強さとか、腕力の強さをいっているのではなく、その強さはただ神から与えられた強さだという思いをもっているのです。自分自身は弱いけれど、神の恵みによって赦され、受け入れられているという確信をもっている、「弱いときにこそ強い」という信仰をもっているから、「わたしたち強い者は」と言い切れるのであります。

 われわれは教会のなかでは、特に日本の教会のなかでは、われわれは「わたしたち弱い者は」と言い過ぎるところがてるのばないかと思います。それはいってみれば、謙遜傲慢ということで、人から傲慢だと非難されるのを恐れて、先に「自分は弱いのだ」といっているだけの話ではないかと思います。

 われわれは「弱い時にこそ、強い」という信仰を与えられているのですから、われわれは教会のなかでも、パウロのように、もう少し自信をもって、「わたしたち強い者は」といってもいいと思います。

 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきだ」というのです。ここでいう「強い」という言葉は、原語では「できる」という意味が使われております。つまり、「強い者」というのは、「できる者」という意味であります。それは何ができるのかといえば、ここでは、「できない者の弱さを担ってあげることができる」ということであります。

 ここでは、強い人は、弱い人をいじめたり、批判したり、裁いたりすることにおいて、自分の強さを主張することではなく、強いひとは、弱い人の弱さを担ってあげる、そのことにおいて強いのだというのです。

 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」といいます。「自分の満足を求める」という所は、口語訳では「自分だけを喜ばせることをしてはならない」と訳されていて、このほうが原文に忠実ですし、訳としてずっといいと思います。

 強いひとは、なにが強いのかと言いますと、自分だけを喜ばせるのではなく、他の人、特に弱い人をも喜ばせることができる、そういうゆとりというか、豊かさをもっているということであります。

 ここで言う「強い者」というのは、具体的にはどういう強さかといいますと、一四章で問題にされていることで、偶像などそもそも存在しないのだから、偶像に供えられた肉を食べたからといって、自分の信仰が汚れるわけではない、そんものから自由にされた者のことであります。つまり、偶像など存在しない、「神の国は飲食ではない」、食べ物によって左右されることはないと考えている人であります。ある意味では、知的に、知識の上で強いということであります。知的という意味で自由な考えをもっているということであります。

 それに対して、弱い人というのは、偶像というものを完全に否定しきれないで、偶像に供えられた肉を食べると自分の信仰が汚されのではないかと恐れて、それなら、いっそうのこと肉を一切食べないといって、野菜だけを食べようと決めている人のことであります。つまり迷信というものに捕らわれている人のことであります。そいう意味では、知的に弱いということであります。

 しかし信仰的には、決して弱くはないのです。むしろ、信仰的には強いというか、信仰的には純粋なのです。信仰的には一途な人、何とかして、自分の神に対する純な信仰を守り通そうとする人であります。

 それでパウロ、強い人であるパウロは、そういう弱い人のその一途なけなげな信仰を壊さないように、守ろうとして、その弱い人を躓かせないために、自分の自由を放棄して、自分もまた肉を食べないと決心するのであります。つまり、肉を食べるという自分の喜びを放棄して、自分だけを喜ばせることをしないで、弱い人を喜ばせようとするのであります。それが弱い人の弱さを担うということなのです。

 強い人からみれば、弱い人の信仰とか信仰的知識を、それは迷信だといって批判できるものかもしれませんが、しかしあえて、その弱い人の信仰を批判しないで、その弱い人の歩み、生き方を承認し、受け入れていくということであります。それが弱い人の弱さを担ってあげるということであります。

 弱い人のもつ一番の弱さは自分の生き方を乱されるということではないかと思うのです。自分の生き方にあまり強い確信をもっていない、人からこうだと言われると、人の意見に右往左往してしまう、そうしては自分のベースを乱される、そういう弱さではないかと思うのです。弱い人が一番躓くのは、自分なりの生き方、自分のペースを乱されることであります。

 そういうときに、あなたはあなたなりの生き方でいいんです、と言ってあげる、その生き方を受け入れ、肯定してあげる、その弱さを受け入れてあげる、それが弱い人の弱さを担ってあげるということであります。

 それはパウロ自身が自分の肉体に弱さを覚えていたときに、どうかこの自分の肉体のとげをいやしてくださいと、必死にキリストに願ったときに、主イエス・キリストから「わたしの恵みはお前に十二分に注がれているのだ。お前は弱いままでいいのだ。わたしの力はお前の弱さに十分に発揮されるのだ」という言葉を与えられて、自分は弱い時にこそ強い、という信仰を与えられたのであります。自分の弱さが主イエスに赦され、受け入れられていることを知って、それを信じて、その弱さをキリストに担っていただいて、強くなったのであります。

 だから、今パウロは、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきだ」といっているのであります。

 自分だけを喜ばそうとするのではなく、おのおの善を行って、隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきだというのであります。そして「キリストもご自分の満足はお求めになりませんでした」といいます。ここも口語訳では、「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」となっております。

そして、旧約聖書を引用します。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」という言葉、これは、つまり、「あなた」というのは、神であります、神をそしるそしりが、神に向かうのではなく、わたしにふりかかった、つまり自分は神に従うゆえに、迫害されているということであります。

 イエス・キリストは、神に従って、われわれ弱い人間を救うために、この世にいらしたのに、迫害され、十字架につけられて殺されていった、イエス・キリストは決してご自分を喜ばせようとはしなかったというのです。

 ヘブル人への手紙では、「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。だから、わたしたちは憐れみを受け、また、恵みにあずかって、時機を得た助けを受けるために、御座に近づこうではないか」と、述べられているのであります。

 主イエスは、われわれの弱さを思いやることのできたかただというのです。われわれの弱さをよくわかってくださり、われわれの弱さを担って、黙々と十字架の道を歩んでくださったというのです。

 主イエスは弟子達との最後の晩餐の席で、突然、食事を中断して、弟子達の足を洗い始めたというのです。
 ペテロがびっくりして、「先生であるあなたがわれわれの汚れた足など洗わないでください」と、いいますと、主イエスは「もしわたしがお前の足を洗わなければ、わたしとお前との関係はなくなってしまう」といわれたのであります。
 足はわれわれの一番汚れているところであります。その足を洗うことによって、われわれと関わりをもってくださったというのです。

 主イエスは、われわれの清い心とか、汚れのない魂とかかわりをもとうとされたのではなく、われわれが信仰に精進して、清い心をもてるようになったら、われわれと関わりを持とうとされたのではなく、そうではなく、われわれの一番弱いところ、われわれの一番汚れた魂と関わりをもってくださって、われわれの足を洗い、われわれの罪を赦してくださったのであります。

 そして、続いてパウロはいいます。「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで、希望を持ち続けることができる。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、また父であるかたを讃えさせてくださいますように」と祈るのであります。

 弱い人が一番求めているのは、忍耐と慰めの神なのではないでしょうか。

 ある人のここでの説教でこういうのです。「われわれはどんな神を求めているか。大胆と勇気とを与えてくれる神か。しかし、われわれの一番欲しい神は、忍耐と慰めの神なのではないか。勇気を与えられてもわれわれは十分に戦うことはできない。愛を与えられても愛することにすぐくじけてしまう。失敗に失敗を重ね、罪に罪を重ねているわれわれの欲しいのは、忍耐と慰めの神である。この愚かな罪人を、終わりまで赦してくださるかたのみ、われわれが安心して身を託すことができるおかたなのである。なんどでも赦してくださる神にのみ、われわれは頼ることができる」といっているのであります。

 弱い人というのは、強い人からみれば、ほんとうにまだるこいほどに、もたもたとしか歩めないのです。そういう人とつきあうためには、そういう人と一緒に歩くためには、本当に忍耐して、忍耐して、なによりも忍耐が必要なのではないか。ときどき、テレビなどでみますけれど、脳梗塞などで足が不自由になった人をもう一度歩かせるために、いろいろな器具を使って励ますリハビリの場面がありますけれど、リハビリさせる訓練士に必要なのは、なによりも忍耐だろうなと想像するのであります。

 そして、愛という言葉よりは、慰めという言葉のほうが、なにかいっそう力づけられるのではないかと思います。

 そしてその忍耐と慰めの源である神がわれわれに希望をあたえくれるのだというのです。われわれには、なにがなくても希望さえあれば生きていけるというところがあると思います。それが偽りのはかない望みでもいいのです。そのはかない偽りの望みさえ絶たれたら、われわれは到底生きていけないと思うのです。

 今パウロがいう希望は、忍耐と慰めの源である神があたえてくださる希望だというのです。われわれの弱さと罪を忍耐して、忍耐して、そうして慰めようとして、主イエス・キリストを通して与えられる希望は、決してはかない希望である筈はないのであります。

 そうしてパウロは、「だから、神の栄光のためにキリストがあなた方を受け入れてくださったように、あなたかだも互いに相手を受け入れなさい」と勧めます。そして、話はこの救いは割礼を受けている選民ユダヤ人だけにではなく、異邦人にまで及ぶのだという話に発展していくのであります。

 パウロがここで異邦人の事に言及するのは、必ずしも、異邦人を弱い人として考えていっているというよりも、ここで大事なことは、強い人も弱い人も、互いに批判し、軽蔑しあうのではなく、割礼を受けているユダヤ人も、異邦人も、互いに心を一つにして、神を礼拝しようではないかということではないかと思います。

 つまり、「キリストもあなたがを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」ということであります。そして「忍耐と慰めの神があなたがにキリストに倣って、互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父であるかたをたたえようではないか」というのです。

 強い人も、弱い人も、ユダヤ人も異邦人も、批判しあうのではなく、互いに相手を受け入れ、互いに同じ思いを抱いて、神を礼拝しようというのです。

 このことで、ある説教者がこういっているのです。「日本のある地方の教会の牧師の報告では、その地方では、偏見の強いところで、ある部族と他の部族とは、どうしても付き合うことができなくて、互いに憎しみ合っていた。その解決が全く見いだせないでいた。しかし、この両方の部落の人たちが礼拝に来るようになった。この人達は礼拝では一緒に神を拝むことができた。しかし、礼拝が終わるとまた、口もきかなくなるというのです。こういう状態は困ったことである。しかし、礼拝においてだけは、同じ気持ちでひとつ口のように神を賛美することができるのは、驚くべき救いだ」といっているのであります。

 礼拝が終わったら、またもとにもどって、互いに口もきなくなるというのでは、困った状態だし、なんにもならないではないかというかもしれません。しかし、礼拝している時だけは、同じ思い、同じ神、同じイエス・キリストのことを思い、礼拝できるということは、確かに驚くべきことてあり、これは本当に大事なことだと思います。

 われわれの礼拝、この聖日ごとのこの礼拝は、そのように驚くべきことが起こる場なのであります。われわれはこの小さい礼拝も、そのような場にしなくてはならないと思うのです。

 このローマの信徒への手紙は、実質的には、この一五章の一三節で終わっております。上富坂教会でも、このローマの信徒への手紙を三章二一節から今まで連続して学んできましたが、ローマの信徒への手紙での説教は今日で終わりにしたいと思います。