「望み得ないのに望む信仰」  ローマ書四章八ー二二節


 ある人がこんなことを言っておりました。「今の日本の若者にとっては、手に入れようと思ったら、なんでも手に入るかもしれない。ないのは希望だけだ」といっていて、ああ、なるほどなあ、と思いました。

 今の若者にとっては、もう自分の将来がわかってしまっている。たとえばどんなに出世して社長になったとしても、そういう管理職になったとしても、なにもいいことはないということが見えてしまっているのではないかと思います。
それが今の若者を無気力にしてしまっているのだなあと思いました。希望がないということが、どんなに人を無気力にしてしまうかということであります。

これは東日本の大震災大津波が起こった以前のある人の言葉だったのですが、震災後は、一番に欲しいのは、希望ではないかと思います。

 この前、ある新聞に、被災地の人に送って一番喜ばれたのがカレンダーだったと書いていて、ああ、なるほどなあと思いました。カレンダーを見ることによって、これからのことを考えることができるというのです。つまりそこに希望が生じるというのです。このことを書いていた人は、大学で希望学という学問を講じている人なのです。

あのナチズムの猛威がふるわれた強制収容所の体験を記したフランクルの「夜と霧」という本を読みますと、その過酷な強制収容所を生き延びた人は、体の丈夫な人ではなかった、なんらかの意味で希望を失わなかった人だと書かれております。その希望は、たとえばやがて強制収容所から解放されて、家族と再会したい、そういう希望をもっている人がその過酷な生活に耐えて、生き延びることができたというのであります。

 そういう家族をもっていない人は、生きる力を失って死んでいったというのであります。そしてその多くの場合、すでにその家族はもうすでに殺されているのです。ですから、家族との再会というのは、幻想にすぎないわけです。それでもそういう幻想にわらをもつかむ思いで望みをもてる人が生き延びることができたというのであります。

 また、ある年のクリスマスを過ぎて、その収容所のなかで死者の数が急激に増えたというのです。それはその収容所の中の人々がクリスマスにはなんらかの解放があるのではないか、なにしろ、その日はクリスマスなのだから、そういう漠然とした期待をもってクリスマスの日を待ち望んだ、しかしクリスマスが来てもなんの変化もなかった、その期待が裏切られ、希望を失って生きる意欲を失って死んでいった人の数が多かったというのであります。

 その収容所では、一切の望みが絶たれたところなのであります。そしてその一切の望みがたたれているところでこそ、望みというものがどんなに必要か、どんなに望みが人に力を与えるかということであります。その望みは幻想でもいいのです。

松沢哲郎という人がおりますが、その人は「人間とは何か」を知ろうとして、人間に一番近いチンパンジーを長い間観察してきた人ですが、その人がこういうことを書いております。
 「人間とチンパンジーとの違いは、想像力をもっているかどうかの違いだというのです。想像力というのは、クリエイティブという意味の創造力ではなく、イマジネーションという意味の想像力ということです。チンパンジーは、想像力というものをもっていない。だから、今という今だけの世界を生きているから、チンパンジーは絶望しない。「自分はどうなってしまうだろう」とは考えない。たぶん明日のことさえ、思い煩ってはいないようだ。それに対して、人間は容易に絶望してしまう。でも、絶望するのと同じ能力、その未来を想像するという能力があるから、人間は希望をもてる。どんな過酷な状況のなかでも、希望をもてる。
 人間とは何か、それは想像する力。想像する力を駆使して、希望をもてるのが人間だと思う」と書いているのであります。

パウロは、ローマの信徒への手紙で、三章でわれわれが救われるのは、律法を守って、つまり、良い行いをして、それを根拠にして救われるのではない、ただ信仰によって救われるのだといったのであります。大事なのは信仰なのだというのです。
そしてその信仰を神から与えられたのだというのであります。

 そしてそのあと、四章にきて、われわれが信仰によって救われることによって、われわれの人生にどのようなことが起こるのかというと、それはわれわれが希望をもって生きるようになるのだというのです。信仰をもてるようになると、希望をもてるようになるのだというのです。

パウロはアブラハムの信仰について説明して、彼の信仰は、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ」といいます。口語訳では、「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」というのであります。

 アブラハムは、神からお前に子供が与えられるという約束を受けておりながら、もう百才にもなったのに、百歳というのを文字どおり取る必要はないと思いますが、要するに、もう、人間的可能性からいったら、子供ができるということがあり得ない年になってということであります、百歳になっても、その神の約束は実現しない、その間彼はその神の約束を信じられないで、養子をとろうとしたりするのですが、その度に神に叱られて、神の約束を信じるように導かれていった。アブラハムはそのように人間的可能性からいって、もう望みとうものがまったくなくなった時にも、「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」という信仰を与えられたのだと述べているのであります。

 ある人がこのアブラハムの信仰を説明して、こういっているのであります。「望みがない時にこそ、望みが本当に必要なのではないか。望みがない時にこそ望むことができるということが、望むということの本当の力なのである」という意味のことを言っているのであります。

 確かにその通りだと思いますが、しかし望み得ないときに、望むということができるだろうか。

 われわれが望みをもつ時というのは、少しでも可能性というものがある時ではないかと思います。たとえば、医者からこの病気は難しいけれど治ります、と言われたときに、われわれは希望をもつことができるのであります。もう駄目ですといわれたら、われわれは希望などもてなくなるのであります。

 それはわれわれが希望をもつときというのは、いつも可能性があるとき、自分になにか可能性があるとき、その可能性を根拠にして希望をもとうとするのであります。

 望み得ないときに、望むなんてことは、本当はあり得ないことだと思うのです。つまり、望み得ない時というのは、人間的な可能性といったら、ゼロの時であります。

 そういう時に望むことができるとすれば、それは何を根拠にして望むのでしょうか。それは人間的可能性を根拠にしてではなく、ただただ神の可能性だけを信じて、希望をもったということであります。

 自分の行いによって義とされようとするということ、自分の行いによって救われようとするということは、自分の可能性を頼りにして救いを得ようとする生き方であります。

 しかし、そうではなくて、信仰によって、救われようとするということは、もう人間的可能性、自分の可能性を根拠にして救いを得ようとするのではなくて、ただ、神の憐れみと神の恵みを信じて、ということです、つまり神の可能性を信じて、救われるようとするということです。ですから、その時に、望み得ないときに、人間的可能性がゼロになったとしても、なお望むことができるということなのです。

 アブラハムはどこに望む根拠を見いだしたか。それは神の恵みあり、神の約束であります。お前達に子供が生まれる、という神の約束であります。百歳になってるのですから、もう人間的可能性からいったらゼロであります。アブラハムはただ神の可能性だけを信じて、望み得ないときに、望むことができたのであります。

神を信じるということは、神に信頼するということであります。信頼するということと、期待するということとは違うと思います。期待するということは、自分が中心なのです、自分を中心にして、こういうことが起こったらいいなあと、期待してり、望んだりするのであります。

 しかし信頼するということは、自分を中心にするのではなく、相手を信頼するわけです。相手が中心なのです、相手のいわば善意を信じて、望むのであります。

われわれは神様に期待はするのです。しかし信頼しているだろうか。われわれは神様に期待はする、しかし信頼していない、だから自分の望みどおりのことが起こらないときには、自分の祈りがかなえられないときには、われわれは失望して神様を信じられなくなってしまうのではないか。

 大事なのは、神に信頼することであります。神にただ期待するのではなく、信頼することであります。

 ある人が信頼ということについてこう言っております。「信頼するということは、あの人ならこういうことは絶対にしないということを信用することだ」といっているのです。

 個々の点では、自分の思っている通りのことをしてくれないかもしれない。自分の願いどおりのことをいつもしてくれるわけではないかも知れない、しかし、最終的には自分を裏切るようなことはしないということを信じるということ、それが信頼することなのだというのです。いつもいつも自分の期待通りの願いをかなえてくれることを信じることではないということなのです。

われわれの信仰はいつだって、期待から始まります。この病気を治してくださいとか、この学校に入れますようにとか、そういう期待から始まります。期待から始まらないような信仰はないと思います。そうでない信仰ははなはなだ観念的な信仰でしかないのです。
 われわれの信仰は、期待から始まります。そういう意味でいえば、われわれの信仰も新興宗教を信じる人と少しも違いはないわけで、われわれの信仰も御利益的な信仰でしかないのです。クリスチャンであるわれわれは新興宗教を信じるひとよりも、高級な人間だなどということは、けっして言えないと思います。

 しかし、われわれは神様に祈っているうちに、その期待からはじめられた信仰がいつのまにか、神に対する信頼に変えられていくのです。だから自分の願いがそのまま叶えられなくても、われわれの信仰は衰えないのです。神に対する信頼は変わらないのです。なぜなら、われわれは神の善意を信じているからです。またわれわれの神はただわれわれを甘やかしたり、われわれを我が儘にする神さまでないことを知っているからであります。

われわれの信仰は期待から始まり、信頼に変えられていくのであります。
そこが御利益信仰と違うところなのではないかと思います。

そして、ここで、大事なことは、「死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神をアブラハムは信じ」というところです。ここは口語訳のほうがずっといいと思いますが、口語訳では、「死人を生かし、無から有を呼び出される神」を信じたとなっております。

 つまり、ここで大事なことは、神を信じるということなのです。神は、死人を生かし、無から有を呼び出されるんだという事柄を信じたということではないのです。「死人を生かし、無から有を生じさせる神を信じた」ということ、まず神を信じたということなのです。
 つまり、奇跡を信じるのではなく、奇跡を起こしたまう神を信頼するということなのであります。
アブラハムは、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。
 事柄を信じるのではなく、神を信じる、この違いです。

 われわれはイエスが三日目によみがえったということだけをとりあげられて、あなたは復活ということを信じますか、信じられますか、と問いつめられたら、はい、信じますと簡単に言えるでしょうか。そんな荒唐無稽なことをあなたは信じているのですか、といわれたら、たじろぐのではないでしょうか。
 しかしわれわれは、まずなによりも、神を信じている、いろんなことを通して示された神の恵みを信じている、だから神は死人を生かし、無から有を呼び出されるという事柄をも信じることができるのではないかと思うのです。

 つまり神様を信じ、神様を信頼するが故に、神はあの十字架で死んだイエスを三日目によみがえらせたことを信じているのです。

ある人が、復活ということは、神の恵みと共に信じるのだといっております。復活、死人のよみがえりという事柄だけを切り離して信じるのではない、神を信じるが故に、復活を信じるのであります。

ヨハネによる福音書で、ラザロの復活の記事のなかで、主イエスがマルタに対して「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。あなたはこのことを信じるか」と、イエスがマルタに迫ったときであります。それに対して、マルタはすぐ「はい、信じます」とは答えていないのです。そうはいわないで、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じています」と答えているのです。

 このとき、マルタは復活そのものことはよくわからないのです、しかしイエスがメシアであること、イエスが救い主であることは信じていますと答えたのであります。

 事柄を信じるのではなく、生きて働いておられる神そのかたに信頼するということであります。その時に自分のちっぽけな願いに固執しないで、望み得ないのに、なおも望みつつ、という望みが与えられるのではないか。つまり自分の期待するような望みがかなえられなくても、その自分の期待する望みが途絶えた時にも、そこからまた新しい望みが与えられるということであります。

望みの根拠を自分の可能性におくか、それとも死人を生かし、無から有を呼び出される神におくかであります。自分の救われる根拠を自分のわざにおくか、律法をまもっている自分の行為におくか、それとも、ただ神の恵みを信じるという信仰におくかであります。

 芥川龍之介の「くもの糸」という話を思いだします。これはもともとは仏教の話を、芥川龍之介が用いて書いたもののようですが、生きているときに悪いことばかりしていたカンタダという者が死んでから地獄に落とされた。
 あるとき天上でお釈迦様が地獄にいる人をみていたときに、カンダタが生きているときにたった一つだけよいことをしたことを思いだした。それはカンダタがあるとき、自分の目の前にいた蜘蛛を踏みつけようとして、哀れに思ってその蜘蛛を踏むのをやめたということだった。それでお釈迦様は天上からその蜘蛛の糸をカンダタにおろしてあげるわけです。カンダタはその事に気づいて、その細い糸を頼りにして、懸命に天に昇ろうとした、その途中、地獄にいる連中はどうしているだろうかと下を見下ろしたら、その地獄にいた連中が、その細い今にも切れそうなくもの糸にしがみついて、ぞくぞくと天に登ろうとしてあがってきていることに気づくわけです。それでカンダタはこれは自分だけにおろされたくもの糸なので、お前達にはその権利も資格もないぞといって、自分のあとについてくる者を足でけ落とそうとする。そうしましすと、その反動で糸はゆれて、ついに切れてしまい、カンダタはまた地獄に落ちてしまった。お釈迦様は天の上からその様子を悲しそうにみていたという話であります。

 ただ一度だけ、自分の目の前にいた蜘蛛を踏もうとして思いとどまって、踏まなかったということなんて、善行とはとてもいえないような行いであります。少なくともそんものは、それによって天国に行ける権利とか資格なんかには到底成り得ない行いであります。
 彼に蜘蛛の糸が天からおろされたのは、それはただただお釈迦様のカンダタにたいする憐れみであります。それなのに、彼はそれをお釈迦様の憐れみだとは思わずに自分の良い行いのためだと勘違いした、自分の業を誇りだして、他の人をけ落とそうとし始めた。そのときに彼は再び地獄に落ちてしまったというのであります。

自分の行いによって救われようとするときに、われわれは必ず人をけ落として、自分がまず救われようとするのであります。

 自分の行いとか自分の業を頼りにして生きようとしたり、救われようとするときには、われわれはいつも自分のことを見ようとする、自分の過去の業績を頼りにして、下ばかり、過去ばかり見つめてしまうのであります。

 しかし大事なことは、そういう自分の行いではないのです、神の憐れみ、神の恵みを信じることです、そのときには、もう自分の過去を見るのではなく、ただ上だけを見上げる、お釈迦様が憐れみをもって自分におろしてくれた細い糸だけを信じて、それだけを頼りにして天に昇ろうとするのであります。そのときに希望が与えられのであります。

 信仰によって義とされる、信仰によって救われる、その信仰に生きるときに、われわれに与えられる贈り物は、希望であります。どんなときにも、望み得ないときにも、望みが与えられる、希望が与えられるということなのであります。
 希望が与えられる、それはなんというすばらしい贈り物ではないでしょうか。