「わたしを思いだしてください」 ルカ福音書二三章三二ー四三節
詩編一三九篇

 イエスと共に二人の犯罪人が十字架につけられました。ひとりの犯罪人は「お前はメシアではないか。自分自身とわれわれを救ってみよ」とイエスをののしった。
 すると、もうひとりの犯罪人がこういって、彼をたしなめたというのです。
「お前は神をもおそれないのか。同じ刑を受けているのに。われわれは自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、このかたは何も悪いことはしていない」といった。
 そうして彼は続けてイエスに向かって、こう訴えたのであります。「イエスよ、
あなたがあなたの御国においでになるときには、わたしを思いだしてください」。

 彼は、もうひとりの犯罪人のように、「わたしを十字架から下ろしてください、わたしを救ってください」とは訴えないのです。
 また、「わたしを赦してください」とか、「わたしを天国につれていってください」と訴えてはいないのです。自分の犯してきた罪を考えてみれば、そんなことはとうてい訴えることはできなかったのです。彼はただ「あなたが天国にいったときに、わたしのことを思いだしてください」「思い出してください」と訴えただけです。

 それに対して主イエスはなんといわれたか。「はっきり言っておくが、お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」といわれたのであります。

 「わたしのことを思い出してください」という言葉で思い出すのは、芥川龍之介が仏教の説話をもとに書いた「くもの糸」という話であります。
 生きているときにさんざん悪い事ばかりしたカンダタという人が死んでから地獄に堕とされた。あるとき、お釈迦様が天上からカンダタのことを思いだした。彼が生きているときに、たった一つだけよいことをした。それは自分の目の前にいた一匹のくもを普段だったら踏みつけて殺してしまうところを、そのときは殺さなかった。
 お釈迦様はそのカンダタのことを思いだした。それでお釈迦様は、くもの細い糸を彼のところに下ろした。カンダタはそのことに気づいてそのくもの糸をたよりにして、極楽にいこうとよじ登りはじめた。

 途中で自分がいた地獄の連中はどうしているだろうかと思って下をみたら、なんとその一本の細いくもの糸をたよってみんなもよじ登ろうとしている。それでカンダタは慌てて、「これはおれだけに下げられた糸なのだ。お前達によじ登る権利などはない」といって、下からのぼってくる連中をけおとそうとするのであります。するとその反動でとうとうくもの糸はきれてしまい、カンダタはもとの地獄に落ちてしまった。それをお釈迦様は天上で悲しそうな顔をしてみていた、という話であります。

お釈迦様は、地獄にいるカンダタのことを思いだしたのです。そして、くもの糸を天上から地獄に垂らしたのであります。

 主イエスは、「わたしのことを思い出してください」といった犯罪人に対して、「お前は今日わたしと一緒に楽園、パラダイス、にいる」といわれたのです。

 「今日」「わたしと一緒に」というのですから、「今日、お前はわたしと一緒にパラダイスに行く、パラダイスに連れていく」ということであります。ただ天の高いところから下を見下ろして一本の細い糸を垂らしたというのではないのです。イエス自らこの犯罪人と一緒に連れ立って、パラダイスに行ってくださるというのであります。

 ここでは、イエスは「今日お前はわたしと一緒にパラダイスにいる」と言われたのです。「今日」と言われた。
 しかし、われわれが告白する使徒信条では、「主はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神右に座したたまえり」と、告白しております。

 つまり、イエスが全能の父なる神の右に座したのは、つまりパラダイスにいったのは、死んでから、「陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り」とありますから、死んでからただちに、つまり、「今日」、すぐパラダイスにいったわけではないということになります。

 天、つまりパラダイスに昇ったのは、三日後だということになります。あるいは、福音書の記述によれば、イエスはよみがえったあと、四十日にわたって、この地上でご自身をあらわして、それから天に昇られたと記されておりますから、四十日後ということかもしれません。

 イエスは死んでから天に昇る間の三日間、どこにいったのか、何をしていたのか。それはわれわれが告白する使徒信条によれば、「死んで葬られ、陰府にくだり」とありますから、三日間、陰府、陰府とは死んだ人がいくところであります、陰府がただちに地獄とはいえないかもしれませんが、しかし地獄も含まれていることは確かであります、地獄までくだったといっても間違いはないと思います。イエスは死んで葬られ、地獄までいって、それから三日後によみがえり、天に昇ったということになります。

 使徒信条というのは、聖書にはいろいろなことが書かれているが、これだけは信じなくてはならないということを簡潔にした信仰の告白であります。この使徒信条の告白のなかの「死んで葬られ、陰府にくだり、三日後によみがえり」というところは、ペテロの第一の手紙の三章の一八節からの言葉に基づいて告白されたのであります。そこではこう記されているのです。「キリストは肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちの所へ行って宣教されました」と記されているのです。

 「捕らわれていた霊」というところは、口語訳では「獄に捕らわれている霊どものところに行き、宣べ伝えることをされた」と訳されていて、「獄」、つまり「地獄に捕らわれている霊ども」のところに行ってということであります。そしてペテロの手紙では、その「獄に捕らわれている霊ども」とは、ノアの洪水のときに、神に従わないで、獄に堕とされたものだと説明されております。

 つまり、端的にいって、あのカンダタのように、あるいは、犯罪人のように裁かれて地獄に堕とされている人々のところにまで、キリストは行って、福音を宣べ伝えにいったということであります。

 イエスは死んですぐパラダイスにいったのではなく、いったん陰府にくだり、その陰府にいる人々に福音を宣べ伝えた、そこでみんなをひきつれて天に登ったのかどうかはわかりませんが、ともかく獄にいる人々にも福音を宣べ伝えて、三日目に、あるいは四十日後に天に昇った、パラダイスに昇ったということであります。

 神の子であるわれわれの救い主、イエス・キリストは、われわれを救うために、天からこの地上まで降りてきてくださったのです。そしてそれだけではないのです。この地上に降りてきただけではなく、十字架で死んで、さらにさらに地上よりも、もっと低い、もっと深い深い陰府にまで降りて、その人達にも救いを宣べて天に昇ったのであります。

イエスが「お前は今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われた「「今日」というのは、「わたしと一緒にパラダイスにいく」ということをより強く印象づけるために「今日」といわれたのであります。三日後になんて、さんな悠長なことではないのです。「今日」なのです。

 仏教説話におけるお釈迦様の話では、お釈迦様の慈悲は天上からくもの糸を下ろしたのに対して、福音書に示された神の愛は、ご自分の独り子をこの地上にまで降らせ、そればかりではなく、陰府まで救い主が降りていって、一緒にパラダイスまで連れて行ったということであります。

ここでわたしは仏教とキリスト教の比較をしようというのではないのです。お釈迦様とイエスとの比較をしようというのではないのです。お釈迦様に比べてイエス様のほうがもっと慈悲深い、なんてそんなつまらないことをいいたのではないのです。

 この「くもの糸」の説話に出てくるお釈迦様が、カンダタに対してくもの糸を垂らして極楽に導いてあげようと思ったのは、あくまでお釈迦様の深い慈悲であります。自分の目の前にいる蜘蛛をたまたま踏みつけなかったというようなことは、われわれ人間が地獄から救い出される資格とか権利とかになる善行などとは到底いえるものではないのです。

これはもうただお釈迦様の一方的な深い慈悲なのです。それをカンダタは自分が一つだけ良いことをしために自分は救われるんだ、その資格と権利を得ていたのだと浅ましくも考え出した、その時に彼はその細いくもの糸を頼って極楽にいこうとしている地獄の仲間を蹴落としはじめたのであります。われわれは自分の善行とか行いにこだわろうとするとき、どんなに浅ましい人間になるか、すぐ人と自分を比較して、自分を誇し、人を裁きたがるかということであります。
われわれは自分の行いによって救いを得ようなどと考え出すと、どんなに浅ましい人間になるか、そしてどんなに悲惨な人生を歩むかということであります。

 カンダタはただただお釈迦様の深い慈悲にすがって、そのくもの糸をよじ登ればよかったのです。しかし彼は浅ましくも自分のわざを自分の行為を見つめ始めてしまった。そのときに彼は転落してしまったのであります。

 われわれが救われるのは、ただただ神の憐れみなのです。主イエスにおいて示された神の愛なのです、その神の愛にすがるだけなのです。自分のわざ、自分の善行、自分の行いではないのです。それはわれわれの信仰ですらないのです。われわれの意識としての信仰、われわれの自覚としての信仰などというものは、この地上で生きていく上では、多少はわれわれを支えてくれるかもしれませんが、そんなわれわれの信仰は、われわれが救われて天国にいける資格とか権利とかにはひとつもならないのです。ただただ神の一方的な神の愛にすがるしかないのです。

 パウロは、このイエス・キリストの十字架の恵みについてこう語っているのです。口語訳「すべての人はみな罪を犯したために神の栄光をうけられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされたのである。神はこのキリストを立てて、その血による信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった」と語るのであります。

 十字架で示された神の恵みは、たった一度の善行を根拠にして、救いの手を差し伸べたというようなものではないのです。「価なしに」、われわれ人間側のよきわざなどをいっさい根拠にしないで、われわれにはなんの勲もなく、われわれの側では一切お金を払うことはなく、「価なしに」、ただただ神の一方的な憐れみによって救われたのだということなのです。

 つまり、われわれ人間に、カンダタが勘違いしたような誤解を一切与えないようにして、「ただで」「価なしに」神の一方的な憐れみによって救われることを明らかにしてくださったのであります。

 われわれ人間側からは「価なしに」でありますが、しかし、神の側からは、莫大な代価を払ってであります。イエスは十字架において、われわれの罪を担って、われわれが受けなくてはならない償いという代価を支払ってくださって、われわれの罪を贖ってくださって、われわれにほうには、「価なしに」に、われわれを救ってくださったというのであります。

 主イエスは、「はっきりいっておく、お前はきょうわたしと一緒に楽園にいる」と言われた。「はっきりいっておく」というのは、「アーメン」という言葉です、「まことにまことに」という重みのある言葉です。「きょう」というのです、三日後に、とかそんな悠長なことはいわない、「きょう」というのです。そして「わたしと一緒に」というのです。自分は天上にいってそこからくもの糸でもおろしてあげるというのではないのです。イエス自ら一緒につれていってくださる、というのです。

死んでいこうとしている犯罪人は、この時、どんなに孤独だったかがわかります。自分がこれから陰府にくだったときに、そこではもう誰一人、自分のことを思い出してくれるものがいない、それがどんなに淋しいことか、悲しいことか。
彼はいまイエスに向かって、「わたしを思い出してください」、「せめて、あなただけでも、わたしのことを思い出してください」と訴えたのであります。陰府におとされるわたしのことを思い出してくださいと訴えたのであります。

大変プライベートなことになりますが、わたしの息子が三十三の若さでガンのために、病に陥り、息を引き取ったときに、もう危ないというので、家族が呼ばれました。病床には、いろいろな機器が取り付けられていて、脈の状態を示す機器も明らかに危ない状態を示しておりました。意識ははっきりしておりました。わたしはそのときに、息子が眼鏡をかけているのに気がついて、彼の眼鏡を外してあげようと思いました。わたしは寝る時には必ず眼鏡を外して寝るからであります。それで眼鏡を外して楽にしてあげようと思ったので、眼鏡をはずそうとしますと、彼はいきなり「外さないで」と大きな声で叫んだのです。
 それまで彼はその眼鏡で家族のひとりひとりをじっと見つめていたのです。穴のあくほど見つめていた。彼はこれから死に臨むときに、家族のひとりひとりを自分の脳裏に刻みつけて、死のうと思っていたようなのです。「外さないで」と叫んで、すぐ息を引き取りました。その言葉が、私と息子がかわした最後の会話になりました。

 死んでいくということがどんなに孤独であるか、死んだあと、自分のことをだれも思い出してくれる人がいないということがどんなに淋しいことであるか。
彼は自分が死ぬときに、家族のひとりひとりを自分の脳裏にきざみつけ、死んだあとも、そのひとりひとりを思い起こそうとしたのではないかと思います。

 あの犯罪人は、もう自分が死ぬとわかったときに、そして自分は確実に地獄に行くと思ったときに、ただただ最後の最後にイエスにすがりつくようにして、「わたしのことを思いだしてください」と訴えたのであります。さんざん悪いことをしてきた自分のことを思ったら、もう誰も自分のことを思いだしてくれる人などいるはずはないと思ったのです。

詩編一三九篇は、「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」という言葉で始まる詩編であります。主なる神は、わたしの座るのも立つのも知っているというのです。だからその神からあるときには、逃げだそうとしても、逃げ出せないというのです。そしてその神から逃げだそうとして、「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」と歌われているのであります。
 陰府に逃げていっても、主なる神はそこにいますというのです。

武藤健という牧師が書いた説教集に、「知られたる我」という題の説教集があります。その題になった説教は、この詩編一三九篇から取られております。
 その説教のなかである牧師の息子さんが自死したエピソードが載っております。その青年は青年時代特有の深い孤独感に悩み、とうとう自死してしまった。後にその父親が小さい冊子をだした。それを読むと父親である牧師がその息子の悩みを息子のかたわらにいて、どんなに深くその悩みを知り、それを見つめていたかが刻銘に記されていたというのです。
 そして武藤健は、もし息子が父親がこんなにも自分の孤独を自分の悩みを知っていてくれているということがわかったら、彼は自死することはなかったのではないかというのです。
 そしてわれわれはどんな孤独な人間でも、孤独だと思っていたとしても、神はわたしのことを究め、わたしのことを知ってくださっているのだ、信仰とは、わたしが神様のことを知るとか信じるとかということではなく、神様のほうでわれわれひとりひとりのことを知ってくださっている、と説教しているのであります。

 信仰とは、わたしが神様を知ること、わたしが神様を信じることではないのです。神様がわたしのことを知ってくださっている、そのことを信じることを信じることが信仰なのであります。

 死は孤独であります。そのときに、この自分のことを知っていてくれる者がいる、その人が傍らにいるということがどんなに慰めであるか。
 
 前にある看護婦が「安楽死」について書いた文章が新聞に載せられておりました。こんなことを書いておりました。真の安楽死とは、痛みを和らげる麻酔の注射をうつことではないというのです。死を前にしている患者は看護婦に「もう早く死にたいから楽にしてくれる注射を打つように医者にいってくれ」と訴えるのだそうです。そのときに患者はどの看護婦にもそんな訴えはしないというのです。そう訴えて、「はい、それでは先生にそう伝えます」というような看護婦には絶対に訴えないというのです。そう訴えられて、おろおろし、「それはできないのよね」と、患者と一緒に悩んでくれる看護婦に訴えるというのです。
 そしてその人はこう記しているのです。「真の安楽死とは、モルヒネとか麻酔の注射をうつことではない。真の安楽死とは、自分を愛してくれている人、家族とか、それまで診てくれてきた医者とか看護婦さんとかが傍らにいてくれることだ」と書いているのであります。

 死んで行く人にとって、自分の愛する人がかたわらにいてくれること、さまざまな事情で、実際にかたらわにいることができなかったという場合もあると思います、たとえそのときに、かたわらにいなくても、死ぬ時に自分を愛してくれるひとのことを思い出すことができるということ、そういう人がいるということが、どんなに慰めであり、支えになるかということであります。

 これから十字架の上で死に、もう確実に地獄にいこうとしている犯罪人にとって、イエス・キリストという存在、そういうかたがいて、「アーメン、お前は今日、わたしと一緒にパラダイスにいる」といってくださったということはどんなに慰めであったかわからないと思います。

 ある牧師が北欧を旅行してるときに、列車のなかで、一人の人と一緒になって幼児教育の話になった。そのとき、その人がこういったというのです。自分達の国では、大切な幼児教育の一つは、子供が夜、寝るときに子供が自分の部屋でどんなに寂しがり、また夜の闇の深さにこわがり、親を呼んで泣き叫んでも、親は子供部屋にかけつけないことだというのです。
 子供がその闇のなかで、その孤独のなかで、親なんて頼りにならないのだということを悟って、神様に祈るようになる、ただ頼りになるのは、神様なのだ、と悟らせること、これが一番大切な幼児教育なのだといってるそうです。

 本当にそんな幼児教育が行われているかどうはわかりません。そんなことをしたら子供はいつまでも親に見捨てられたのではないかというトラウマをかかえることになるのではないかと心配してしまいますが、そんなトラウマを受けたとしても、神だけが頼りになるかただということを子供に教えるということがどんなに大事かということだろうと思います。

 主イエスは、「わたしのことを思いだしてください」と訴えた犯罪人にたいして、「アーメン、まことに、いう、お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と断言してくださったのであります。