「わたしを思い出してください」 ルカ二三章三九ー四三節

 聖書の詩編というところに「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」とい言って、神様に感謝しているところがあります。

 「兄弟が共に座っている。もうそれでけで恵みだ、もうそれだけで喜びだ」というのです。「ほかになにもなくてもいい、ご馳走なんかなくてもいい、愛する兄弟姉妹がここに共に座ってお互いに顔を見合わせることができる、もうそれだけでうれしい」というのです。

 しかし今われわれは、共に座ってくれる筈の兄弟姉妹、あるいは親が、ここには座っていない、それはなんという寂しさ、なんという悲しさ、そういう淋しさ悲しさを味わいながら、ここに座っているのであります。

 今日は召天者記念礼拝として、すでにこの世にいないかたがたを思い起こし、記念するために集まって、礼拝をまもっております。

 死んで行く者にとって、自分が死んだ後、もうだれも自分のことを思いだしてくれないということは、どんなに淋しいことかわからないと思います。

 前にもお話をしたことがあると思いますが、ノーベル文学賞を受けた大江健三郎が、その賞を受けるために、スエーデンのストックホルムに行くときに、彼の義理の兄であった伊丹十三からこういわれたというのです。
 
 スエーデンにいったら、きっと各国の新聞記者からこういう質問を受けるだろう、「あなたはどうして広島の原爆にこだわるのか。戦争の悲惨さはなにも広島の原爆だけではないのに、どうして原爆にこだわるのか」と質問されるに違いないから、それに対する答えを考えておいたほうがいいといわれたというのです。

 それで、大江健三郎はこういう答えを用意したというのです。「原爆の悲惨さというものは、死んでいく人とその人の死を記憶してくれる者が同時に一瞬のうちに死んでしまうということなんだ。だからその死は親しい者に、誰も記憶されないで死んでいかなくてはならないということなのだ。それはどんなに寂しいことか、どんなに悲しいことか。それが原爆の悲惨さなのだ」という答えを用意したというのです。

 死んでいく者にとっては、自分の死が誰かに知ってもらっている、自分の死を記憶してくれる人がいるということは、死んでいく人にとって大きな慰めだというのです。しかし、死んでいく人も、そしてその死を記憶してくれる人も、同時に一瞬のうちに、失われてしまうということがどんなに悲惨なことかというのであります。

 死んだ後、もう自分のことを思いだしてくれる人がいない、それはどんなに淋しいことかということであります。

 イエス・キリストが十字架で死んだときに、イエスと共に、十字架にかけられたものがふたりおりました。それは二人の犯罪人でした。そのひとりが一緒に十字架にかけられたイエスに向かって、こういって悪態をつきました。
 「お前はメシアではないか。奇跡を起こして、今自分を救い、そしてわれわれも救ってくれよ」といったのであります。

 するともうひとりがこういった。「お前は神様を恐れないのか。われわれは今までさんざん悪いことをしてきたのだから、今こうして報いを受けて、十字架刑にされているのは、文句はいえない。しかしこのかたは、イエスというこのかたは、何も悪いことをしていないのに今十字架にかけられて殺されようとしているのだ」といって、あいかたをたしなめたあと、イエスに向かってこういったのであります。
 「イエス様、あなたが天国においでになるときには、わたしを思いだしてください」といったのです。

この訴えは、「あなたが天国にいらしたときには、わたしを天国に連れて行ってください」という願いがこめられていただろうと思います。しかし彼は直截そんなことはおこがましくていえなかった。

 恐らく、この犯罪人は、さんざん悪いことをしてきましたから、自分が死んでもだれも自分のことを思いだしてくれない、まして、悲しんでくれる者は、だれもいないと思ったのです。家族はいたかもしれません。しかしもうとっくに縁を切られていたのかもしれません。

 この犯罪人は、さんざん悪いことをしてきたのですから、自分は天国にゆけるとは思っていなかったと思います。自分は死んだら地獄に突き落とされるのではないかとおもっていたかもしれません。

 それで、自分は地獄に行くかも知れない、しかし、その地獄にいる自分をあなたが天国にいらしたときに、天国からわたしのことを思いだしてください、思いだしてくださるだけでいいのです、せめて思いだしてください」と訴えたのではないかと思います。

 死んだ後、自分のことを誰も思いだしてくれる人はいない、それがどんなに淋しいことか。

 死んだ後も自分のことを思い出してくれる人がいるということは、なぐさめであります。

 このことで思いだすのは、芥川龍之介の「くもの糸」という短編であります。これはもともとは、仏教の説話を題材にしたものであります。

 生きているときにさんざん悪いことばかりしたカンダタという人が死んで地獄にいくのであります。あるとき、お釈迦様が極楽から地獄にいる者をみていたら、そこにカンダタがいた。それで思いだした。彼は生きているときにさんざん悪いことばかりしたけれど、ただ一度、自分の目の前にいた一匹の蜘蛛をふみつけようとして、しかし哀れに思って踏むのをやめた。それをお釈迦様は思いだした。

 それで極楽からくもの糸を彼のところにおろしてあげた。彼はその自分の目の前に降りてきた細いくもの糸をこれは自分が踏もうとしてふまなかった蜘蛛、自分が助けてあげた蜘蛛の糸だということに気がついて、それに捕まって極楽まで行こうとするのであります。

もう少しで極楽の入り口まできたときに、地獄にいる連中はどうなっただろうかと下を見下ろすのであります。そうしましたら、なんと自分のあとに続いて、その細い糸を頼ってみんなが上に登ってくるのを見るのす。それは細い細い蜘蛛の糸なのです。自分ひとりだけても今に切れそうな蜘蛛の糸なのです。それなのに、地獄の連中がみな必死になってそれにつかまって登っていきている。

 それで彼はあわてて、これは自分のためのくもの糸だ、お前達なんかこれを登って極楽に行く権利も資格もないのだといって、足でけ落とそうとするのです。そうしましたら、その反動でその細い糸はたちまち切れてしまって、かんだたはまたもとの地獄に堕ちてしまった。

 それを天上からお釈迦様が悲しそうにしてみていたという話であります。
 死んだ後、自分のことを思い出してくれた人がいた。それはお釈迦様だった。お釈迦様は、彼をどのように思いだしたか。それは彼がたった一度だけ良い行いをしたことを思いだしたのであります。踏みつけようして、哀れに思ってふみつけなかった蜘蛛を助けたという、たった一つの彼の善行を思いだしたのであります。

 しかしそんなものは善行でもなんでもなく、ただ踏みつけなかったというだけのはなはなだ消極的な善行にすぎなかった。

 しかしお釈迦様は、かんだたの、その善行ともいえない小さな善行を思いだしてあげて、彼を助けようとした。しかし彼は結局は救われなかったのであります。
再び、地獄に堕ちてしまったというのです。

 もしわれわれが死んだ後、自分のしたことのあのこと、このことをただ思いだしてもらって、ああ、あの人はいい人でしたと思い出されたとしたら、どうでしょうか。
 われわれのおこなってきたわざ、行い、それだけが評価されるとしたら、われわれはどれだけ、その評価に耐えられるでしょうか。われわれは良い行いの一つや二つはしてきたかもしれません。しかし行いということからいえば、われわれはそれ以上に悪いことを沢山して来ているのではないか。

 もしわれわれのしてきた行いだけが評価されて思いだされたとしても、われわれは安心して喜べるだろうか。そのような思い出されかたをしてもわれわれはうれしいだろうか。

 主イエス・キリストはどうだったか。主イエスはわれわれの行いをみられたのではないのです。われわれの心をみられた。どういう心か。美しい心か、清らかな心か。そうではないのです。

 イエスに対して、「あなたが天国にいらしたときには、わたしのことを思いだしてください」と訴えた犯罪人は、死を前にして、今自分の犯してきた数々の悪を反省し、自分がこうして十字架刑で殺されるのは当然の報いだとそれを受け入れた。それを思うと、イエスに対して、もはや自分を救ってくださいとはおこがましくてとうていいえないのです。だから、あなたが天国にいらしたときに、せめてわたしのことを思いだしてくださいと訴えたのであります。

 イエス・キリストはその人の悔いた心、砕けた魂を、その心をみられたのです。そうしてイエスはその犯罪人に対して、ただちに「はっきりいうが、お前は今日わたしといっしょに天国にいる」といわれたのです。
主イエスは、この人の行いを評価したのではなく、この人の悔いた心を受け入れたのであります。

 イエス・キリストによって示された神さまは、われわれの行いをみて救おうとなさるのではないのです。われわれは良い行いをしたから救われるのでないのです。生きているときに、良い行いをしたから天国にいけるとか、極楽にいけるとかというのではないのです。悪いことをしたから地獄に落とされるというのでもないのです。

 もしわれわれが自分の行いによって救われるとするならば、あのカンダタのようにあんなつまらない善行、踏もうとして踏まなかったというだけの善行を誇りだし、これで自分は天国に行ける資格と権利を獲得したのだと誇りだし、そうして他の人を地獄にけ落とするのであります。
行いによって救いを獲得しようとするならば、われわれはきまって自分を誇りだし、そして必然的に他人を軽蔑し、差別し、人を裁きだすのであります。

 イエス・キリストはその犯罪人に対して「はっきりと言っておく。お前は今日わたしと一緒に天国にいる」と言われたのであります。イエスと一緒に最初に天国にいったのは、どこかのお偉い聖人でもないし、ペテロでもないのです。この男だったのです。

 今日われわれはすでにこの世を去った故人を思いだすためにここに集まっております。故人を思いだすのは、生きているわれわれの義務であり責任であります。

それは、われわれが故人がしてきた良い行い、あるいは世間的な意味で評価された善行を思い出すのではないと思います。そうしたことも全部ひっくるめて、その人がした良いことも悪いことも、いじわるだったことも、親切だったことも、全部ひっくるめて、その人がこの世に生きてきたその生涯を思いだすためにここに集まっているのであります。

 そしてきょうわれわれは、ただわれわれが故人を思い出すという記念会をしているのではなく、われわれ以上に神様が亡くなられた故人ひとりひとりを覚えておられる、思い出しておられる、神は決して亡くなられたひとりひとりをお忘れになってはいない、そのことを改めて、思い起こし、召天者記念礼拝として守っております。

 つまり神様を仰ぎながら故人のことを覚え、思い出そうとしているのです。
 
 聖書の詩編というところに、「われわれが天に登ろうとも、神様、あなたはそこにいまし、われわれが陰府に身を横たえようとも、神様、あなたはそこにいます」という言葉があります。
 陰府とは、昔の人々が考えていた死んでからいく暗い暗い世界のことであります。その陰府にも神様はそこにいらしている、神様は天上の天国にいるだけでなく、地の底の暗い陰府にもおられるというのです。
 
 さきほど告白しました使徒信条には、イエス・キリストは十字架で死んだ後、その陰府にまでくだられたとあります。イエス・キリストはあの暗い暗い地の底の暗い陰府にまで、降って救いを宣べに行ったのだというのであります。それは陰府にいるかもしれない、地獄にまだいるかもしれないカンダタのところにも、そうして、最後までイエスに悪態をついたイエスと一緒に十字架につけられたあのもうひとりの犯罪人のところにも、イエスは行って救いを伝えにいったということであります。それがわれわれの信仰の告白なのであります。

 召天者記念礼拝は、われわれ人間だけが、われわれ遺族だけが、すでに天に召されたかたを思い出すだけではなく、神様もまた覚えておられる、思い出しておられる、そのことを知り、信じ、天からの神様からの慰めを得ることなのであります。