「思い煩うな」 フィリピの信徒への手紙 4章4−7節

 パウロは、「主において常に喜びなさい」といい、そして「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」と言ったあと、何故なら「主はすぐ近くにおられます」というのであります。
 そしてさらに、だから「どんなことでも思い煩うのはやめなさい」といいます。

 竹森満佐一がここのところを説明してこう言っています。「われわれの考えはいつも悲観的になっているというのです。心配症なのです。なぜそうなってしまうのか。それはわれわれが神に信頼しきれないで、どこかに自分の考えに固執しているからだ。人間に運命というものがあるかどうか知らないが、もし、われわれの生活が宿命的であるとすれば、それは、われわれの考えが宿命的なのだ。

 よく犯罪を犯す人というのは手口が決まっていると言われる。警察では、その手口のカードを繰ってみると、大抵その人だということになるらしい。一度それでしくじったら、やめたらよさそうなのに、やっぱりその手口でしかやれないものらしい。そのように考え方が決まっているのである。従って、その人の生活がいつでも決まった方向にしか向かって行かないということになるのである」といっているのであります。

神に信頼しきらないで、自分の考えに固執してしまうから思い煩いが起こるのであります。

「思い煩うな」という聖書の言葉を聞く時に、すぐ思い出すのは、主イエスの「なにを食べようかと命のことで思い煩うな。明日のことを思い煩うな」という言葉、ではないかと思います。これは新共同訳では「思い悩むな」となっていて、残念なのですが、「思い悩むな」というよりは、「思い煩うな」という言葉のほうがずっといいと思います。

 口語訳でいいますと、そこで主イエスは「なにを食べようか、なにを飲もうかと自分の命のことで思い煩い、なにを着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥をみよ、野の花を見よ、神はちゃんと彼らをやしなっているではないか。あなたがたは彼らよりもはるかに優れた者ではないか」と言い、そして主イエスは「あなたがたのうち誰が思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」というのです。

 そうして、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすればこれらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労はその日一日だけで十分である。」と言うのです。

 「神の国と神の義を求めなさい」というのは、神の国というときの国という言葉は、ギリシャ語では支配という意味をもった言葉で、神の国を求めるとは神の支配を求めるということであります。そして神の義とは神の正しさに信頼しなさいということです。要するに、神の支配を求め、神の正しい支配に自分を委ねなさいということであります。神に信頼しなさいということであります。そうしたら思い煩いから解き放たれるというのです。

 この場合の思い煩いというのはどういう思い煩いなのでしょうか。
ここで言われている思い煩いは、人間の限界を超えて考えようとする時に起こる思い患いであります。命のこと、自分の寿命をどうしたら延ばせるかということ、それはつまり、死なないためにはどうしたらよいかということ。またそれはわれわれはいつ死ぬのか、どのように死ぬのかということを考えだすと思い煩いが起こるのであります。

 自分の寿命をわずかでも延ばすなんてことは人間にはできないことです。いつ死ぬかとか、どのように死ぬのか、立派に死ねるのか、そういう事はわれわれが考えて、準備しようとしても、できる事ではないのです。それで自分ができもしないことについて考え出すと思い煩いが起こるのではないかと思います。自分ができることについて考えるならば、なにも思い煩いは起こらないのです。自分にはどんなに考えても、できないことについて考えだすから、思い煩いが起こるのであります。

 明日ということもそうです。明日のことをわれわれはもちろんある程度予測し、計算し、計画を立てるわけです。明日に備えて準備するわけです。しかし明日というのは、明日自身の迫力で向こうからやってくるわけです。明日というのは、なにが起こるかわからない。明日をわれわれの完全な自分の支配下におくことはできないわけです。

 それなのに明日をすべて自分の計画と自分の支配下におこうとするから、思い煩いがおこるのです。自分の限界を越え、人間の限界を越えて考えようとするわけですから、当然悲観的な見方しかでてこないわけです。

 ここでは自分の命について、自分の死について考えてはいけないというのではないのです。思い煩うなというのです。考えるなといっているのではなく、思い煩うな、といっているのです。
 明日に対して、無計画でいい、そんな無責任なことをいうのではないのです。いつも自分の限界をわきまえ、人間の限界を知って、それを超えて考えようとするなということであります。

 人間がなにもかも支配しきれると考えるなということ、神がわれわれの命、われわれの生と死を支配しているのだから、神に信頼しなさいということです。

 明日のことについて計画し、準備することは当然なのです。命についてもそうです。ですから、保険に入るということは、社会人として責任のあることであります。そんなものはいらないという生き方が信仰的だとは、到底いえないのです。われわれは明日についても、自分の老後のことについても責任をもって考えなくてならないのです。

 ただ保険をかけておきさえすれば、もうそれだけで安心だといってしまっていいのか、安心できるかということであります。

 聖書の言葉というのは時々面白い言葉がでてきますが、この「命のことで思いわずらうな」というイエスの言葉で、ルカによる福音書(一二章二五節−)の方はこういう言葉になっております。

 口語訳でよみますけれど、「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか」というのです。

 ここでは、「そんな小さな事さえできないのに」というイエスの言葉は面白いと思います。われわれにとって自分の寿命をわずかでも延ばすことはそんな小さな事ではなく、どんなにか大きな事なのに、イエスは「そんな小さな事」と言ってしまうのです。それは主イエスの目からみれば、そんな小さなことだというのです。
われわれ人間にとって、自分の寿命をわずかでも延ばすことは、決して小さなことではなく、一日でも長く生きられるならば、どんなお金をかけても惜しくないというほどに大きなことであります。それをイエスは「そんな小さなこと」といわれるのです。
 それは逆に言うと、神がどんなにか大きなかたかということです。われわれ人間にとって大きなことが、主イエスの目からみれば、そんな小さなことであるということは、逆にいうと神様というかたはどんな大きなかたかということであります。

 そのあと、イエスは「そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか」というのです。ここはなんど読んでも不思議な思いがします。なぜ「ほかのこと」なのか、命についての思い煩いのことを言っているのですから、もう「命のことで思い煩うな」といえばいいところなのに、ここでは、「そんな小さなことさえできないのに、どうしてほかのことを思い煩うのか」というのです。なにかおかしいような気がするのです。

 しかし考えてみれば、われわれ自分の命をどうやって延ばそうか、どうやって安楽に命を保ち、そしてどうやってうまく死ねるかということを思い煩いだすと、われわれは「ほかのことも」思い煩いだすのではないか。

 われわれ命のことで思い煩いだすと、自分の今日の生活を切り詰めて、貯金にまわそうと考え始める、そうすると生活がみみっちくみみっちくなって、いつも心配症になっていって、思い煩いの多い生活になってしまうのではないかということです。ですから、命のことで思い煩いだすと、われわれは「どうしてほかのことでも思いわずらうのか」と言われるような思い煩いをすることになってしまうのではないかと思います。

山田太一という人が、現代人は諦めということができなくなっている、昔の人はよくあきらめたものだ、しかし現代人はなんでも人間はできると思いこんでいる、そこに現代人のおごりがあるのではないかとしきりにいうのであります。

 臓器移植の問題、あるいは、子供をもうけるということでも、代理出産ということまでして、どうして自分の子供をもうけようとするのかということであります。自分の子供をもうけたいために、自分の母親に代理出産してもらう、どうしてそこまで自分の子供をもうけるということに執着するのか、と思いたくなるのであります。
 
 山田太一は、諦めが大切だといいますが、そのことはわれわれ信仰者にとっては、単なるあきらめではなく、神に対する信頼であります。自分の考えを諦めて、神に信頼して与えられる望みをもつということであります。単なる諦めではなく、希望をもつということであります。われわれはもっともっと神様に信頼して生きなくてはならないということであります。

 パウロは「何事も思い煩うな」といった後、すぐ続けて「何事につけ、感謝を込めて」と続けるのであります。この「なにごとにつけ」という事が大切なのであります。

 このことで竹森満佐一はこういうのです。「それは何か自分にいいことがあった時だけ感謝するということではない。なにごとにつけ、すべてのことについて感謝するということだ。そうであるとすれば、それはやはり小さな自分の考えの中だけで考えて、喜んでみたり怒ってみたりすることではないはずだ。それではすべてのことに感謝するということにはならない。すべてのことについて感謝するというのは、少し極端かもしれないが、はっきり言えば死についても感謝するということだ。われわれは夜寝る前に、今日一日こうして生きることができたことに感謝の祈りをする。

 もしそうであるならば、一生の終わりに死の床の中で、今まで生きてきましたが、今死ぬことができて感謝です、というのが本当ではないか、できるかできないかは別にして、それが本当ではないか。そうでなければすべてのことに感謝していることにはならない。その時にはじめて、生きていることについても本当の意味で感謝していることになる」というのであります。

 そして続けてこういうのです。「死ぬことについて感謝出来ないで、生きている時だけ感謝しているというならば、それは自分の都合のいいことだけに感謝しているのであって、自分の都合の悪いと思うことには感謝していないことになり、なにごとにつけ感謝していることにはならなくなる。ただ、ある事だけについて感謝する、たとえば、今日は健康であったら、健康についてだけ感謝する、病気については感謝しないというのであったとしたら、それはわれわれが世間のおつきあいで、自分の都合のいいことをしてくれた人の所になにか届けておけといったことと全く同じことで、神に感謝したことにはならない。」

 そして竹森満佐一は、神に感謝するというのは、神に礼拝を捧げるということだ、というのです。こういうのです。
 「話が飛躍するように思われるかも知れないが、神に感謝するということは、神を礼拝することだ」というのです。
 「人間どうしの場合でも、人のお世話になった時には、そのお世話になった程度に応じてなにかをもっていく。どの程度にしたらよいかでわれわれは苦労する。あまりおおけさすぎてもおかしいし、あまり少なすぎてもおかしい、というので、どの程度のお礼にしたらいいかで苦労する。

 それならば神にお礼するのにどの程度のお礼をしたらいいというのだろうか。人間どうしの場合でも、相手が立派なかただったら、おかしなものはもっていけない、それならば下手なものをもっていくよりは何ももって行かないという場合もあるだろう。

 それならば、相手が神なのだから、なにかをもっていくよりは、ただ神に心から敬意を表する、もっと適切な言葉でいえば、神を拝むということ以外は、何もないはずである」というのです。

 「なにごとにつけ神に感謝する」ということは、神を拝むという礼拝を捧げることだというのであります。

 そのようになにごとにつけ神に感謝できたら、われわれは思い煩いから解放されるのであります。自分の悲観的な考えから解放されて、神に信頼できるようになるからです。

 しかし現実には、事はそんなに簡単ではないことはわれわれがよく知っていることです。パウロもそのことはよく知っていて、その後に「なにごとにつけ感謝をこめて、祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けあけなさい」というのであります。

 神を拝むという事だけ言ったら、われわれの信仰生活は、やはりきれいごと過ぎると思います。神を拝むということは、われわれの求めるところを卒直に神にお願いするということで、それを排除するということではないのです。
ここでは、新共同訳では「求めているものを神に打ち明けなさい」と訳しております。ここは口語訳では「神に申し上げるがよい」となっておりますが、ここは原文をみますと、神様に知られるようにしなさい、という言い回しになっています。現にもう一つの訳では「あなたがたの求めるところが神に知られるようにしなさい」と訳されております。新共同訳の「神に打ち明けなさい」という訳はおもしろい訳であります。

「神に知られるようにしなさい」というのは、あまり表だって堂々といえるようなことではない、ただ自分の心のなかでうめくような思いで神にお願いしたいことがある、つぶやくような祈りかもしれない、しかしそれでもいいから、そのうめくようなつぶやくような恥ずかしい祈りでもいいから、神様にうちあけなさいうことであります。祈りというのはそういうものであります。

そしてそのように、神様に対して率直に素直に、恥ずかしいところも隠さずにさらけ出して、神様に打ち明け話をするように親密になったならば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」いうのであります。

 この「あらゆる人知を超えた平和が」というところを、ある聖書の訳では「すべての理性を超えた神の平安が」となっております。

 今日から教会の暦では、クリスマスを待ち望む待降節、アドベントに入ります。マリアが天使ガブリエルから、いきなり「おめでとう。恵まれたかた、主があなたと共におられます。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高きかたの子となる」と告げられるのであります。

 そのとき、マリアはどんなに戸惑い、恐れ不安になったかわからないと思います。ヨセフとは婚約してはいましたが、まだ結婚してはいないのです。それでマリアは「どうしてそんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と戸惑うのです。

 するとさらに天使ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高きかたの力があなたを包む。生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と告げられのです。
それでマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と応えたというのであります。

 マリアは人間的に考えれば、決して幸せではなかった筈です。戸惑いと不安と恐れで一杯だったと思います。しかしマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、その天使の言葉を受け入れたのであります。後のマリアが歌ったといわれる、マリア賛歌をみますと、マリアは「今から後、、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう」と、神に感謝し、神を賛美しているところをみまと、マリアは幸せと平安に包まれたのであります。それはマリアがこのときに、神に信頼したために、「あらゆる人知を超えた神の平安、つまりすべての理性を超えた神の平安」が与えられたからであります。

 処女降誕ということは、それこそ人間の理性を超えた出来事であります。それはとうてい受け入れられ事柄ではないのです。しかしマリアは受け入れた。その時、「すべての理性を超えた神の平安に」よって、その不安と恐れが取り去られたのであります。

 その後、マリアはいろいろと不思議な出来事を経験しますが、そのたびにマリアは「これらの出来事をすべて心に留めて、思いめぐらしていた」と聖書は記しているのてあります。この時のマリアの特長は「すべての出来事を心に留めていた」「心に留める」という姿勢でした。

 マリアは、心を煩わせてのではなく、心に留めて、思い巡らしていたというのであります。

 われわれもまたすべての出来事について、あまり心を煩わせのではなく、マリアのように心に留めて思い巡らし、人知を超えた、人間の理性を超えた神の平安に包まれたいと思うのであります。

 死にまつわること、いつ死ぬのか、死んだあとどこにゆくのかということは、どんなに考えても、われわれ人間の理性を超えたことであります。しかし神はわれわれ人間の理性を超えた平安で守ってくださるというのですから、死についてもただ諦めるのではなく、そこに神から与えられる望みをもって死を迎えたいと思うのであります。