「父よ、彼らをお赦しください」 ルカ福音書二三章三二ー四九節

 
 主イエスは、三四節をみますと、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ったとあります。この゜彼ら」とは、イエスを十字架につけた人々のことであります。あるいは、そのあと、人々はくじを引いてイエスの服を分け合っていたという人々のことであります。それはもちろん、そういう人々だけのことを言っているのではなく、そもそもイエスを十字架で殺してしまおうともくろんだすべての人々のことであります。

 十字架にかけられたイエスを見つめ、あざ笑っていた民衆、そして何よりも、「他人を救ったが、自分自身を救うことのできない救い主よ。もしお前が神からのメシアであり、選ばれた者であるならば、自分を救うがよい」と、あざ笑った議員たち、その背後には、祭司長、長老、律法学者、ファリサイ派の人々であります。

 本当の救い主であるならば、まず自分自身を救って、そうして他の人々を救うものでなければならないと、考えている人々のことであります。救いというのは、まず自分自身を救うことであると考えている人々のことであります。

 主イエスは、その十字架の上で、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしてるのか知らないのです」と祈っているのであります。
ここで主イエスが、「彼らをお赦しください」と父なる神にとりなしの祈りをしている理由が、彼らは「自分が何をしているのか知らないのです」といっているところに注目したいと思います。

 大祭司、長老、律法学者たちは、なぜイエスを殺したのでしょうか。殺したかったのでしょうか。そして民衆はなぜ最後には、みなそれに賛同し、十字架につけられたイエスをあざ笑ったのでしょうか。

 イエスは、人を殺したことはないのです。姦淫という罪を犯したことはないのです。強盗をしたこともないのです。それどころか、イエスは人々を愛し、貧しい者に施しをし、病人をいやしていたのです。善いことをしてきたのです。それなのに、なぜイエスは十字架で殺されなくてはならなかったのか。

 それは、「神を汚した、神を冒涜した」という理由からでした。神でもないイエスが、「あなたの罪は赦された」と、まるで自分が神でもあるかのような神の権威をもって、罪を赦したからであります。あるいは、安息日律法を破ったからであります。安息日には、なにもしてはならないという律法を破って、安息日に病人をいやしたからであります。

 祭司職でもないイエス、律法学者でもないイエスが、まるで祭司のように、まるで律法学者のように、権威をもって人に罪の赦しを宣言し、安息日律法を自由に解釈し直すことを許しておくことができなかったのです。神の座についていた祭司長、長老、律法学者、ファリサイ派の人々にとっては、イエスは自分たちがあぐらをかいて、いばっていた権威の座を危うくする人物だったのであります。

 イエスは、ローマから派遣された総督ビラトに送られて、この男を十字架刑にしてくれと訴えられましたが、それはイエスがユダヤ人の王として自称しているという理由でした。そしてそれはやがてローマに反逆することになる人物だから危険だと訴えられたのでした。

 しかし総督ビラトは、祭司長たちが、イエスを十字架につけようとしいてるのは、イエスに対する妬みであることを見抜いていました。それは権力争いだと見抜いていたのであります。

 祭司長たちは、自分たちの権威の座が危うくされることを恐れて、イエスを十字架で殺そうとしたのであります。しかもその自分たちの権威の座が、なにかテロリズムとか、そうした暴力とか政治的な力によって、脅かされるというのではないのです。そうではなくて、病人をいやし、貧しい人を助け、重荷を負っている人々に慰めを語ることによって、善いことをしてきたことによって、自分たちの権威が脅かされようとしているのです、それが彼らには我慢できないことであったのであります。

 一番上に立つ者は、一番下につくものでなければならない、一番偉い人は、しもべとして仕えるものでなければないらない、そういっていたイエスは、一番上にたっていた祭司長たちにとっては、我慢ならない存在だったのであります。
それはもう権威というもの根底から否定するものだった。秩序の破壊なのであります。権威の失墜になのです。

 そして民衆もまた同じように、そのようにして自分たちを支えてきた社会秩序が壊されていくことに不安を覚えたのであります。それはイエスが将来のユダヤ人の王として生まれたという噂がたったときに、当時の王様が不安を覚え、そしてエルサレムの人々も同様に不安を覚えたというのと同じであります。

 つまり、「他人を救ったが、自分自身を救うことのできな救い主、自分自身を救おうとしてない救い主」を人々はいやがったということであります。それは結局は自分のよってたっている生活の基盤、われわれの生き方そのものを否定するものだったからであります。
 
 まず自分を守ろうとするわれわれ、なにがなんでも、まず第一に自分が大切で、自分にしがみついているわれわれにとって、自分を捨てなさい、自分の命にしがみつくなと勧めるイエスという存在、ましてその人がメシアであり、救い主であるということには、我慢できないのであります。なんとかして、抹殺したくなるのであります。

 祭司長たちは、人を殺したこともないでしょうし、姦淫を犯したこともないでしょうし、物を盗んだことはないでしょう。良いことはたくさんしてきたと思います。正しく生きてきたこと思います。それはわれわれも同じだと思います。しかしそれはいつでも、最後のところで、最低限、自分の存在を危うくさせないという条件つきで、そうしたことをしてきたのではないかと思います。

 われわれ自分は正しいことをしている、正しい生き方をしているという自負を持って生きていると思います。少なくとも、自分はそう間違った生き方をしてるわけではないという自負で生きていると思います。そういう自負がなければ、われわれは生きていけないと思います。そういう自負がなければ、われわれは生きていけないと思いこんでおります。思いこんでいる。

 そういうわれわれの生き方をゆるがすようなイエスという存在は、われわれにとって我慢ならないのです、なんとか抹殺したいのであります。イエスは悪人によって十字架につけられたのではなく、そういう正しい人々によって、いやわれわれによってイエスは十字架につけられたのであります。

 主イエスは、いま十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分がなにをしているのか知らないのです」と、祈っているのです。

 イエスを十字架につけた祭司長たち、そしてわれわれは、本当は自分がなにをしているのかわからずに、知らないで、そうしているのだと、イエスは見ておられるです。正しいことをしていると思っている、思いこんでいる人間には、罪がわからないのです。自分の罪に盲目なのであります。
 主イエスは「見えると言いはするところに、あなたがたの罪がある」といわれましたが、見えると言い張っているわれわれは、本当はなにも見えていない、なにもわかっていないのであります。

 それに対して、イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人はどうでしょうか。ひとりの犯罪人は、われわれと同じように、「お前はメシアではないか。自分自身とわれわれを救ってみろ」とイエスをののしりました。
 しかしもうひとりの犯罪人は、「お前は神をもおそれないのか。同じ刑罰をうけているのに。われわれは自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、このかたは何もわるいことをしていない」と言ったのであります。

 この犯罪人は、イエスをみて、「この人は何も悪いことはしていない」と看破しているのであります。自分の罪をよく知っている人間、そして自分の犯した罪を悔い、その罰を引き受けて、十字架で死のしのおうとしている犯罪人だけは、イエスに罪がないことを看破しているのであります。

 イエスが十字架で息引き取って死んだとき、ひとりの異邦人の百卒長は、「本当に、この人は神の子であった」と告白しているのであります。ルカによる福音書では、「本当にこの人は正しい人だった」と告白したと記されております。
 「本当にこの人は神の子であった」「本当にこの人は正しい人であった」と告白したのは、告白できたのは、選民ユダヤ人ではなく、ユダヤ人からは蔑まれていた異邦人であった、と福音書は隠さずに明らかにしているのであります。

 自分の罪を知っている人間、そして自分の罪に悔いている人間、自分の罪に対して神の罰を受け入れようとしている人間が、イエスこそ、本当のメシアであり、神の子であり、正しい人であったと見抜くことができたのであります。

自分は正しいと思っている人間、そのように思いこんでいる人間は、自分がなにをしているのかわからなくなっていることが多いのではないでしょうか。あのへりくだりの道を歩んでいくイエスのなかに、本当の神の子の姿、メシアの姿、正しい人の姿をみることはできなくなっているのであります。

 この犯罪人は、イエスに対して「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、訴えるのです。「救ってください」とはもう言えないのです。「地獄から救い出してください」とはもう言えないのです。せめて「地獄にいるかも知れないわたしのことを思いだしてください」というのです。

 するとイエスはただちに、「はっきり言っておく。お前は今日わたしと一緒にパラダイスにいる」といわれたのです。「わたしと一緒に」とイエスはわざわざその犯罪人にいうのです。しかも、「今日」ただちに、遠い終末の日なんかではないのです、今日、ただちに、しかも「わたしと一緒にパラダイスにいる」、といわれるのです。イエスがどんなにこの人のことを慈しんだかということであります。愛したかということであります。

 自分は救われる権利があるとか、資格があるとか思っていない人、思えない人、ただただイエスにせめてわたしのことを思いだしてくださいと訴えるしかない罪人、自分の罪を知り、自分の罪に悔いている人、主イエスはその人と共にいてくださるというのです。

 昼の十二時ごろに、全地は暗くなりました。それが三時頃まで続きました。太陽は光を失いました。大祭司しか入ることのできなかった神殿の垂れ幕が真っ向から裂けたというのです。もはや、聖人と汚れた人をわけへだてしていた垂れ幕がさけて、もう誰でも神殿の奥まで入ることができるようになったというのです。

 そして主イエスは、大声で叫んだ。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」といわれて息を引き取ったのであります。

 もういっさい自分を主張しない、自分にこだわらない、すべてを父なる神に委ねたのであります。

 われわれは自分にこだわって生きているとき、自分がなにをしているかわからなくなっているのです。自分の存在を脅かす者、脅かそうとする者を抹殺したくなるのであります。

 われわれはもちろん、みな自分にこだわっていきていますし、自分を守ろうとして生きています。そうしないと生きていけないのです。いつもいつも自分を捨てるなんてことは、到底できることではないのです。

 しかし大事なことは、なんとしてでも、自分で自分を守らなくては生きていけないのかということなのです。自分というものは、ただ自分で自分を守ろうとして生きることができるのか。そうしなくては生きていけないのか。

 本当はわれわれは誰かによって守られ、誰かによって生かされて、生きているのだということに気がつくことが大事だと思うのです。

 普段は、われわれは自分で自分を守って生きようとしいるのです。しかしいざというときに、一番大事なときに、本当の危機に立たされたときに、われわれは自分というものがどんなにか頼りにならないかと思い知らされるのではないか。
自分にしがみつき、ただ自分で自分を守ろうとして生きようすることがどんなに醜く、そははどんなに人を排除し、裁き、人を傷つけてしまう生き方かということに気がつかなくてはならないと思います。

 ある人の言葉に、絶えず祈りなさい、という御言葉があるけれど、それは四六時中、祈り三昧にふけることではない、一日中祈りにふけることではない、そうではなく、いつでも、祈る用意をして生きることだと言っておりました。

 それは自分を捨てるということでも言えると思います。われわれは始終自分を捨ててなど生きてはいけないのです。しかしいざというとき、一番ここというときに、いつでも自分を捨てる用意と覚悟して生きていくということだと思うのてず。

 自分で自分の十字架を負うて生きるということは難しいことであります。十字架を負うて、わたしに従ってきなさいというイエスの言葉は、われわれにはとても重荷であります。重い言葉であります。

 しかし、十字架を負うということは、どこかに自分が担う十字架はないかと探し回ることではなく、十字架というのは、だれかに負わされるものではないかと思います。自分で見つけ出して、自分が負おうとする十字架なんてものは、本当は自分にとって負いやすい適当な十字架にすぎないのであって、そんなものは十字架を負うということではないと思います。

 十字架というのは、誰かによって負わされるものであります。
イエスと一緒に十字架を担うことができないで、イエスを否認し、十字架から逃げてしまったペテロに対して、復活の主イエスは、そのペテロに対して、「お前は若いときは、自分で帯びをしめて自分がゆきたいところに行っていた。しかし年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められて行きたくないところへ連れて行かれる」と言われたのであります。それはペテロがどのような死に方をして神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスは言われたのだとヨハネによる福音書は記しているのであります。「他の人に帯びを締められて」でであります。

 どんなに逃げ回っても、自分がその十字架を負わなくてならない時というものがある。たとえば、介護の仕事など、そうかもしれません。そのときに、その負わされる十字架をただ逃げ回るのではなく、自分でも負うという決意と、用意と覚悟しておくということが大事なことだと思います。

 主イエスは、「父よ、彼らの罪をおゆるしください」と祈られました。それは、あの愚かにも、自分にしがみつき、自分を主張し、自分で自分を守ろうとして生きようとしている彼らに、あなたの愛で彼らを守ってくださいということであります。
 イソップの童話にあるように、北風でではなく、暖かい太陽の愛で、自分という厚着で自分を守ろうとしている彼らの自我を一枚一枚、脱がすようにしてくださいという祈りであります。
 「あなたの愛で彼らを包んでください」という祈りであります。

 そしてわれわれはどんなにじたばたしても、最後に自分が息を引き取るときに、「父よ、わたしの霊をあなたに委ねます」という以外に、死ぬことはできないのだと思います。考えみれば、われわれは死ぬときに、そのときにはじめで自分に対するこだわりから解放され、自分の罪から解放されるのではないかと思うのてず。
 われわれにとって、われわれが死ぬときに、「わたしの霊をみ手に委ねます」と、自分のすべてを委ねることのできるかたを知っている、主イエスの父なる神を信じて、死ぬことができるということは本当に幸いだと思います。