「へりくだった心をもって」2章1−11節

 今日の聖書の箇所は、イエス・キリストについて書いてある箇所の中でも大変有名な箇所の一つであります。キリスト賛歌とも言われている箇所です。

「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」といいます。

 イエスの生涯を大変簡潔に、その本質をとらえて、美しく書いている所であります。そしてこれは、パウロが書いたのではなく、初代教会において、キリストを賛美する歌として歌われていたもので、それをパウロがここで引用したのだろうと言われております。

 パウロがこのキリスト賛歌をここで取り上げているのは、ここでイエス・キリストの生涯について何かを語ろうとしているのではなく、イエス・キリストの歩まれた道を示すことによって、イエス・キリストが歩まれたように歩もうではないか、その生き方を真似ようではないか、と訴えるためであります

 ここでパウロが何を訴えようとして、このキリスト賛歌を持ち出しているのでしょうか。それは「何事も利己心や虚栄心からするのでなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」ということを勧め、「互いにこのことを心がけなさい。これはキリスト・イエスにもみられるものです」といって、イエス・キリストの生涯を語り、十字架の死に至る壮絶な戦いの生涯を引用しているのであります。

 「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」とか、「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意をはらいなさい」などという事は、まるで小学校の先生が生徒に言うような事ではないでしょうか。

 こんな当たり前の事をいうために、あのキリストの十字架の生涯が持ち出されるのは、なにか拍子抜けするような気がするのであります。

 ペテロ第一の手紙にも、やはりイエス・キリストの十字架の死に至る生涯が短く記されて、その生涯を見習いなさいという所があります。

 口語訳でよみますが、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪を自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたはいやされたのである」と、キリストの十字架の死に至る生涯が記されて、キリストを模範として生きなさいと勧められております。

 そこではどういう状況のなかで、このキリストの生涯が持ち出されているかといいますと、「僕たる者よ、心からのおそれをもって主人に仕えなさい、善良な主人に対してだけでなく、気むずかしい主人にも仕えなさい、不当な苦難に耐えなさい、神を仰いでその苦痛に耐えなさい」と勧めるためであります。

 ここでは、いわば迫害に耐えなさい、善のためには不当な苦しみも耐えなさい、キリストもそうしたのだから、というために、キリストの十字架の生涯の事が持ち出されているのです。

 それに比べると、このフィリピの信徒への手紙のこの箇所でのキリスト賛歌の引用は、ずいぶん当たり前のことを勧めるために引用されているのであります。

 しかし考えてみれば、「へりくだった心をもって互いに人を自分よりも優れた者としなさい」という事、そして「おのおの自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」という事は、あのキリストの十字架の死に至る生涯を持ち出して、われわれにへりくだる事を教えなくてはならないほどに大変な事なのではないでしょうか。それはある意味では、不当な苦しみを受けて、それに堪え忍ぶ事よりも、つまり殉教者として生きるよりは、あるいはそれに匹敵するほどに、難しい事なのではないでしょうか。

 石川啄木の歌に、こういう歌があるそうです。「ひとがみな自分よりも偉く見える日には、花を買って帰って、妻と楽しむ」という歌があるそうです。わたしはこの歌は竹森満佐一の説教のなかで知ったのですが、竹森満佐一は、ローマ人への手紙の説教のなかで、このことを紹介して、こう言っているのです。

 「ここに歌われている気持ちに同情できる人は多いだろう、だからこの歌は、人々に愛されているのだろう。何かいやなことがあって、自分が全く自信を失ってしまったことがあったのでしょう。そういう日には、いつもはあまり重んじていない妻が、無性になつかしくなるのでありましょう。ここには、誰が軽蔑しても、自分を信じてくれる人間がいる。そういう歌なのだろう」と解説しております。

 竹森満佐一がこの啄木の歌を紹介するのは、ローマの信徒への手紙のなかで、パウロは、われわれが救われるのは、自分の誇りが一切剥奪されて、救われる救いなのだということをいっている、それに対して、この啄木の歌で歌われていることは、どうかというのです。

 「パウロがいうところのわれわれの救いは、誇りのない喜びの生活があるという救いである。しかし、この啄木のこの歌で歌われている生活は、果たして誇りのない喜びの生活ということができるだろうか。ここでは誇りは傷つけられたかも知れない。しかし決して誇りを失っているわけではない。傷つけられただけ、かえって、変に高ぶった思いになっているかも知れない。それに、妻のところに帰って来て、満ち足りた喜びがあるだろうか。傷つけられた誇りは、多少いやされたかも知れない。慰めの言葉が有り難いとも感ぜられただろう。しかし、それだけの事であったなら、ただ、一時、気をまぎらせる事ができた、ということだけに終わってしまうのではないか。キリストの救いがその程度のことしか与えられないとすれば、それは誇りの解決にはならない」と、厳しく批判するのであります。

 竹森満佐一は、啄木のこの歌の心境に共鳴するために引用するのではなく、このような心情を批判するために引用しているのであります。
確かにその通りだと思いますが、しかし啄木のこの気持ち「人がみな自分よりも偉く見える日には、花を買って帰って、妻と楽しむ」という気持ちはわれわれには良く分かるのではないでしょうか。

 そのくらい、われわれにとっては、人が自分よりも偉く見えると言う事は、つらいことだし、自分を傷つけることなのではないかと思います。そういう日にはせめて花でも買って帰って、妻に慰めて貰いたい気持ちになると思います。

 ですから、ここでパウロが「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」という事は、まるで小学生に諭すような事でいて、われわれ大人にはかえって大変難しいことなのではないかと思うのです。「へりくだって相手よりも優れた者と考える」ということは、それは殉教の死を覚悟するくらいに、それに匹敵するくらいに実は難しいことなのではないか。

 これはフィリピの教会にあてた手紙なのです。この教会には今分裂の危機をかかえているのです。パウロはしきりに「一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって」とか、「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心をもち、心を合わせ、一つ思いになって」というように、一つになるようにと、パウロはしきりに訴えているのです。こうしたところを見ますと、フィリピの教会は、分裂の危機をはらんでいたのではないかと思われるのであります。

 この手紙の最後の方に、こういう箇所があります。口語訳で読みますが、「わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。ついては、真実な協力者よ、あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、『いのちの書』に名を書き留められているクレメンスやその他の同労者達と協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。」と記されております。

 ここを見ますと、有力な働きをしているユウオデヤとスントケという婦人がどうも教会の中で仲たがいをしている、それは場合によっては、教会を分裂させかねない、それをパウロは大変心配しているようなのです。

 だから「このふたりを助けてあげなさい」というのです。仲たがいしている婦人達はもう当事者である自分たちの力だけでは、もうどうにもならない、もとにもどることができないのです。誰かが二人の間に入って仲裁にのりださないといけない状態のようなのです。しかもその二人の婦人は今まで福音宣教のために大変な働きをして来た婦人達なのです。

 有力な働きをする人ほど、妬みや誇りや党派心は強いのではないかと思います。新共同訳で「利己心」と訳されている箇所は口語訳では「党派心」と訳されております。党派心というのは、あまり今日では使われていない言葉なので、利己心と訳されたのかもしれませんが、党派心というのは、英語でいうとライバル心という意味です。組織があるところでは、このライバル心、党派心というのは必ずあるのではないかと思います。われわれは自分がいちばん偉く思われたいのです。「互いに人を自分よりもすぐれた者と」しようとすることは大変難しいのであります。

 「へりくだった心をもって互いに人を自分よりも優れたものとしなさい」というのです。「へりくだった心」とは、謙遜ということであります。身を低くするということです。キリストがそうだったのではないかとパウロは訴えるのです。口語訳でいいますと、キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして、僕のかたちをとったではないか。キリストはわれわれを救うために、われわれと同じ人間の姿になってくださったではないか。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死にいたるまで従順だったではないかと訴えるのです。この口語訳の「おのれを低くして」という字が、「へりくだった心」という字と同じなのです。

 イエス・キリストがあの十字架とその十字架に至る歩みの中で示してくださった愛は、このへりくだりの愛だったのであります。

 愛というのは、必ずしも、へりくだるということを示さなくても、愛をあらわす事ができると思います。強い愛とか、豊かな愛とか、あるいは殉教者が示す愛は気高い崇高な愛であるかも知れません。親の愛はいつもへりくだっているとは限りません。親はいつも毅然として強い態度で愛を示していた方が、子どものためにはいいかも知れません。教師が生徒に対する愛もそうかも知れません。愛はいつもへりくだらなくてはならないわけではないと思います。

 しかしイエス・キリストが示してくださった愛は、この「へりくだった愛」だった、それがなんといってもそれが一番の特徴的だったと思います。イエスが話されると、それは権威ある者のように聞こえたと福音書は書いてありますから、もちろんイエスは権威があったのです。しかしイエス・キリストが愛をしめられる時は、その愛の一番の特徴は「へりくだった愛」であったと思います。それはキリストの十字架の愛がそうだったからであります。「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死にいたるまで」ということで示された愛であったからであります。

いわゆる殉教者の示す愛は、しばしば崇高な愛であると思います。人々はそれをみてできることなら、そういう死に方をしてみたいと憧れるものであります。

 しかしイエス・キリストが十字架でわれわれにあらわにされた愛は、決して崇高な愛であったかもしれませんが、しかし誰にでもすぐわかるような崇高な愛ではなかったと思います。崇高な愛というよりは、まずなによりもその愛はへりくだった愛だったのではないかと思います。

 イエスは、最後には「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫して息を引き取られたのです。それはわれわれが憧れるような死に方では決してないのです。

 なぜイエス・キリストの愛は「おのれを低くする」「へりくだる」という愛でなければならなかったのでしょうか。それはその愛が、ただ弱い人を助け、ただ困ったいる人を救ってあげたらいいというように、ただ親切にしてあげればいいということではなく、イエス・キリストの愛はわれわれ罪人に対する愛であったからであります。

 「人を自分よりも優れた者」として見ることのできないわれわれ、いつも自分が一番偉い所にいたいと思っているわれわれ、そういう傲慢なわれわれを愛するためには、イエス・キリストはなによりもこの「へりくだりの愛」をもってわれわれを愛さなくてならなかってのです。

 その罪を明らかにして、その罪に気づかせて、悔い改めさせる、そういう愛は、ただ強い愛であったり、豊かな愛であったり、気高い愛であったりではだめなのではないでしょうか。そういう傲慢になっているわれわれ、「人が自分よりもみな偉く見えるために」ひどく傷ついて、くしょんとなっているわれわれを救うためには、この「へりくだった愛」でなければ、だめなのではないでしょうか。

 それはわれわれもまた経験していることなのではないか。 ただ弱い人を助けるとか困窮している人を助けるとかではなく、傲慢になったり、逆に自分を卑下して、ひねくれたりしている人を愛するということはどんなに大変か。そのためには、こちらがどんなにへりくだった心をもって、その人に接しなくてはならないかという事は、われわれも時々経験するのではないでしょうか。

 「へりくだる心」をもつためにはどうしたらいいのでしょうか。
 ある人の説教にあったのですが、ある時、自分の醜いところを指摘されて、帰りの電車に乗った。満員電車で誰かが自分の靴を思い切り踏んでいる。普段の自分だったら、そうした満員電車の中でも声を大きくしてその人を非難しただろう。しかしその時はそうしなかった。踏まれ続けていた。自分はこのようにして、人から靴で踏まれても仕方のないほどどうしようもない人間だと思いつづけながら、足を踏まれていたというのです。

 自分の惨めさを知った時、自分の罪に気づいた時は、そういう心境になるだろうと思います。 その時にわれわれは「へりくだった心」をもてるのではないかと思います。

 ただ自分の心を鍛えて、精神修養して、謙遜な人間になろうとしても、われわれは到底なれないと思います。自分の罪に気づかなくてはならない。
しかしただ自分の罪に気づいただけでは、ただ悲惨な惨めな気持なるだけで、そこから本当に謙遜になり、立ち直ることはできないと思います。

 大事なことは、この罪人であるわたしを、姦淫を犯した女に対して上から「お前は罪人だ、こうした女は石で打ち殺してしまえ」と糾弾するファリサイ派の人々や律法学者ではなく、あの姦淫の女と共にうずくまり、「わたしはお前の罪を赦す」といってくださるかた、わたしと同じ立場に立って、わたしの罪を赦してくださるへりくだりの愛、あのイエス・キリストの十字架において示された愛がどうしても必要ななのではないか。
 
 われわれは自分の罪をただ知っただけでは、絶望し、悲惨に陥るだけです。そこからぬけだすことはできないと思います。この罪人を愛してくださるかた、そのかたがいなければわれわれは立ち直ることはできないのです。われわれにはこのへりくだりのキリストの愛が必要だった。

 そしてまた、傲慢になり、いつも争いつづけがちな人を正しく導くためには、われわれ自身がへりくだりの愛をもって愛さなくてはならないです。

 わたしはいつも自分に言い聞かせている事があります。それは「自分一人が謙遜になれたら、なにもかもうまくいくのではないか。自分一人が謙遜になれたらどんな事でもできるのではないか」と言う事です。他人に謙遜であれと要求するのではなく、自分がまず謙遜にならなくてはならないのです。自分一人が謙遜になれなかったばっかりに、われわれはどんなに失敗をしてきているかということであります。