主にあって喜ぶ」ピリピ3章1節


 パウロは「最後に、わたしの兄弟だちよ。主にあって喜びなさい」といいます。このピリピ人への手紙は「喜びの手紙」と言われているのであります。それはこの手紙の中で、喜びなさい、喜ぼう、という言葉が何回となく出てくるからです。

 しかし、ここで、パウロは「喜びなさい」というのですが、考えてみれば、喜びというのは、「喜びなさい」と命令されるようなことなのでしょうか。喜びというものは、喜びなさい、と人から命令されて、はい、それではそうしましょうと喜べるものかどうかであります。喜びというのは、自分の心の中から自然にわきあがってくるようにして喜ぶのであって、命令されて、喜ぶものではないと思いますが、どうなのでしょうか。

 つまり、喜びというのは、本来は受け身のもので、あるうれしい事があって、それに対して喜ぶというものだと思うのです。自分の希望している学校に合格したとか、宝くじにあたったとか、自分のひいきのチームが勝ったとか、そういう喜べる状況というものがあって、自分の意志とかかわりなく、そういう事が起こって、喜びがわいてくる、そういうのが喜びというものではないかと思います。

 喜びとか、あるいは、悲しみとかというのは、そういうように、自分の外部の出来事によって、それに左右されて、喜んだり、悲しんだりするのではないかと思います。そういう意味では、喜んだり悲しんだりすることにわれわれはふりまわされてしまうという事があるので、昔の哲学には、そういう喜びとか悲しみなどに、一喜一憂するのをやめてしまわなくてはならない、そういうものに動かされるのは、低い生き方だから、そういうものに動かされない生き方をしようという哲学が生まれて、人々の共感をよんだのであります。

 悟りを開くということは、そういうこの世の問題の喜怒哀楽、この世の出来事にふりまわされて一喜一憂することを超えた人生を歩めるようになることだと説いたのです。そこから禁欲主義が生まれてくるのです。しかしそういう生き方、そういう喜怒哀楽のない人生というのは、確かに外界の出来事にふりまわされないかも知れませんが、そうした人生は無味乾燥な人生で、無感動な人生で、大変つまらない人生になってしまうのではないかと思うのです。

 音楽評論家の吉田秀和が、自分の好きな相撲取りの事を書いています。それまで好きだった力士が引退して、「金輪際、あの苦しみは繰り返すまいと心に誓ったのに、自分はまさか何十年かの後に、それがまたもどってくるなどとは夢にも思っていなかった」と書いている。
 自分のひいきの力士が対戦する時は、テレビの中継を観ることができないで、その時になるとわざと外に出て、二階でみている奥さんの様子からその勝ち負けを知るんだそうです。

 そして、吉田秀和は「なんたる愚か。あんなに苦労してやっと解放されたのに、また相撲に心を乱されることになるとは」と、嘆くのであります。

 「こと情熱に関しては人間は五十才の情熱が二十才のそれより思慮に富んでいるなどということは、絶対にない」と言ったりしているのです。

 われわれにもこういう気持ちはよくわかるのではないかと思います。これがただ相撲とか野球とか、そういうスポーツのことなら、まだいいかも知れませんが、われわれの人生というものがそういう自分の意志とかかわりなく、外部の出来事によってふりまわされてしまうという事が何度も繰り返されますと、あの無感動になることが人間の最高の悟りだと説き、禁欲主義を説いた哲学者の言い分もわかるような気持ちにもなってくるのであります。

 しかしそれならば、自分の外の出来事になんにも心を動かされない人生がいいかと言われれば、そんな人生はやはり無味乾燥な人生になってしまうのではないかと思います。

 吉田秀和はこうも書いているのです。「人々は批評家とは、感激はなく、いたずらに理性の冷たい接しかたをする人間だと考えているかも知れないが、どっこい大間違いだ。批評家というのは、むしろ、熱中しやすい質の人間だ。感激し、夢中になればなるほど、おのずから精密に聴いたり見たりするようになれる人間のことだ」というのであります。

 喜びというのは、もともとは自分の外部の状況によって喜ぶものであります。それなのに、ここではパウロは「喜びなさい」と命令するのです。更に、四章には「あなたがたは主にあって、いつも喜びなさい、繰り返していうが、喜びなさい」と言うのです。
 
 「いつも喜びなさい」というのです。「いつも」というのですから、どんな時にもという事ですから、ここで言われている「喜び」というものが自分の外部の出来事によって喜んだり、悲しんだりすることではなく、どんなに悲しい状況のなかにあっても、いつも、どんな時にも「喜びなさい」という事であります。

 この手紙は、パウロが獄中の中で書かれた手紙であります。そして、パウロは自分は死刑にあうかもしれない、殉教するかも知れないという不安ももっていたのです。既に学ぴましたように、二章では「たとい、あなたがたの信仰の供え物を捧げる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう、あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがも喜びなさい」と言っているのです。

 とても喜べるような状況のなかではないのです。その中で、喜ぼうというのであります。

 またこの手紙の相手であるピリピの教会の状態を考えても、必ずしも、手放しで喜べるような状態ではなく、パウロが獄に捕らわれているという事をいいことにして、かえって張り切って、闘争心や党派心をむき出しにして、伝道に励む人も出てきた、それはピリピの教会を混乱させて、それはパウロの心を大変痛ませるのであります、悲しませているのです。

 また、つぎの二節からみますと、パウロは「あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人を警戒しなさい」と言って、更にピリピの教会は、外部からも敵に囲まれているという事が分かります。そういう状況のなかにあって、「喜びなさい」というのです。「いつも喜びなさい」というのです。

 そしてここではパウロは少し理解に苦しむことを言っているのであります。それはこれに続けて「主にあって喜びなさい」といった後、「先に書いたのと同じことをここで繰り返すが、それはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたには安全なことになる」というのです。

 この「先に書いたのと同じことをここで繰り返すが」、ということが何をさすのかという事であります。文法的には、当然この「喜びなさい」ということを指しているわけです。しかしそれではどうしてそれが「煩わしい」ことなのか、それをわざわざ、あなたがたにとって「安全なことなのだ」と、ことわらなくてはならないのか、というのが理解に苦しむところなのです。

 それで聖書の学者のなかでは、この「喜びなさい」という言葉と、そのあとの「さきに書いたのと同じことを繰り返すが」という所を切り離して、その「先に書いたことを繰り返す」と言う事は次に出てくる「あの犬どもを警戒しなさい」ということだと解釈する人が多いのです。

 そういうように解釈したら、「わたしにとって煩わしい事」とか「あなたがたには安全な事である」という表現が納得できるのであります。

 しかし、いやそうではない、やはり、この「さきの事を繰り返すが」というのは、この「主にあって喜びなさい」ということ、その中でも「主にあって」という事を言っているのだと取る学者もおります。

 竹森満佐一のピリピ書講解説教ではそう取っております。「信仰の内容というのは単純な事である、結局はイエス・キリストの十字架と復活を語ることなので、それを繰り返し繰り返し語ることなので、ある意味ではそれを聞く方からいったら煩わしいことになるかもしれないのだ、しかしそれは繰り返し繰り返し、煩わしいほどに聞かされる必要があるのだ、そしてそれはあなたがたにとって安全なことなのだ、それが信仰のことなのだ。ここでもその事が言われているのだ」というのであります。

ここでは、ただ喜びなさい、ということが言われているのではなく、「主にあって」ということがある、この事はわずらわしいほどに繰り返ささなくてはならないことなのであります。

 パウロは「喜びなさい」と命令しております。命令という言葉がそぐわなければ、勧告している、勧めている、といってもいいですが、しかも「いつも」と「いつも喜びなさい」と言っている、それはわれわれが考えているあの「喜び」とは少し違う喜びのことを言っているのではないかと思います。

 われわれが考える喜びは、繰り返すようですが、自分の外部の出来事に一喜一憂
するという、いわば感情的な喜怒哀楽の喜びです。しかし、ここでは、「いつも」というのですから、どんな状況の中にあっても、というのですから、これはただ感情的なことではなく、むしろ、われわれの意志の問題、決断の問題になるのではないかと思います。つまり、どんなに喜べない状況のなかに立だされても、よし、喜ぼう、と自分に言い聞かせる、喜ぼうと決断する、そして喜ぶ、そういう性質の喜びだということであります。

 信仰というのは、受け身だと今まで語って来たと思います。特にわれわれプロテスタント教会の信仰は、神の恵みを信じる、信仰によって救われるのだという信仰です。われわれの立っている信仰は、ただ神の恵みを信じるという、受け身の姿勢を学んできたと思います。信仰というのは、神の恵みを信じるという徹頭徹尾受け身でなければならないと言ってきたのであります。

 しかし、ここではパウロは「喜びなさい、いつも喜びなさい」とわれわれに決断を迫り、ただ外部の出来事に受け身になって動かされて生きる生き方ではなく、意志的な生き方を勧めているのであります。

 信仰は他力本願なのか、それとも自力なのか。われわれの信仰は「ただ神の恵み
を信じる」という信仰から言えば、それは他力、他の力に徹頭徹尾頼るということで、いわば他力本願、受け身でなければならない筈であります。

 それならばここで、自分の意志とか決断で喜びなさいというのはどういう事か。

 この問題の解決の鍵は、「主にあって喜びなさい」という、「主にあって」ということであります。

 「主にあって」と言う事は、主イエスの十字架と復活ににおいて神がわれわれに示してくださった恵みを思い起こしてという事です。われわれが救われるのは、間違いなく、自分の自力とか決断とか意志とか、という事ではなく、徹頭徹尾、他力、他の力、神の恵みの力によってなのです。それはもう間違いはないのです。

 しかしわれわれは何と言っても、自分の過去の生活の名残を背負っている、自分のあの自己中心的に生きた過去の生活の名残をまだ完全に捨てきれていないのです。それを全部清算してから、救われたわけではない。そうした自分の過去の名残をそのまま引きずりながら、これからは神の恵みを信じて生きて行こうとして、救われたのであります。そういう罪をひきずりながら、救われたのであります。

 竹森満佐一が説教の中でこう言っております。救われたと言う事は、ちょうど日本に帰化した外国人に似ているというのです。「その人は皮膚の色を変えることはできない、目はやはり青く、そればかりか、味噌汁はやはり嫌いで、パンばかり食べているかも知れない。日本人の気持ちにもまだ通じていない、しかしその人が日本人として扱われ、日本人のあらゆる権利を与えられていることは、誰も疑わない。

 それと同じようにキリスト・イエスを信じている者にとっては、その全生活がキリストの死と復活によって守られている。その人に、過去からの生活の名残があったとしても、それはもう問題にはされない。それを信ぜよ、ということだ」といっているのです。

 幼子が神を信頼するのならば、もうただ他力本願ですむわけです。しかしもう大人になったわれわれ、自分中心に生きて来たわれわれ、そういう過去の名残を引きずって生きているわれわれが、ただ神の恵みを信じて生きるためには、自分にからみついてくる罪と激しく、辛抱強く闘って、そういう意味で、そこに自力という事が必要なので、よし、ただ神の恵みを信じていこう、という決断と意志の力を働かせないと、われわれは神の恵みを信じていけないのであります。

 われわれは、自分の外部で起こる様々の出来事に一喜一憂して、ふりまわされてしまう、まるで嵐の中でもてあそばれている小舟のように、揺り動かされてしまっている、そういう中でもう疲れはててしまっている。そうした中で、もういっそのこと、外界の出来事に目をつぶって、心を動かされないように、無感動を決め込んでしまおうと思いたくなる時、パウロはそういうわれわれに対して、われわれにはそうした事とは別に、もっと喜べるものがあるではないかと、われわれに呼びかけてくれているのであります。

 「主にあって、喜ぼう、喜びなさい」というのであります。これはただ受け身で、外界の出来事にふりまわされてしまう感情ではなく、もっと意志的で、決断を必要とする喜び方です。

 もちろん喜ぶということは、感情のなせるわざです。しかしその喜ばしい感情を呼び出すには、われわれには一つの決断が必要です。よし、喜ぼう、という決断が必要であります。この決断の裏側には、なにかを捨てるという決断がある。何を捨てるのか、それは、そういう外部の状況にあまりにもふりまわされてしまう自分の感情を捨てるという事であります。

 ヨブが自分の息子娘を失い、自分の全財産を失った時、そういう悲惨な状況のなかにあって、「そうだ、わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主が取られたのだ、主のみ名はほむべきかな」と言ったのであります。

 聖書本文には、「そうだ」という言葉はありませんが、気持ちの上ではそういう気持ちが入っていると思います。これはもちろん喜びとは違うかも知れませんが、しかしここにはヨプが自分の悲しみを捨てて、という決断があって、「そうだ、神がこのわたしに今まで恵みを与えて来てくださった」のだという事を思い起こし、最後には「主のみ名はほむべきかな」という神に対する感謝と神に対する賛美となったのではないか

 ここでパウロが「主にあって喜ぶ」というときの喜びは、この神に対する感謝からくる喜びなのではないかと思います。「主にあって」というのは、「主のおかけで」という事で、自分を救って下さった主イエスーキリストに対する感謝から起こる喜ぴであります。

 感謝するのに、決断とか意志が必要だというのは、不自然だというかも知れませんが、そこが罪人であるわれわれの悲しいところで、やはり、いろんな状況のなかで、どんな時にも、人間的に言えば悲しい状況のなかでも、感謝するためには、そういう状況にふりまわされてしまう自分の感情を捨てるという決断がどうしても必要なのではないかと思います。

 「主にあって、いつも喜びなさい」というのは、何もいつも二コニコしていなさいという事ではないのです。そんなお人好しになれということではないし、そうなれるほど気楽な人生をわれわれは歩んでいるわけではないのです。

 深い悲しみの中にあって、しかしあの主イエス・キリストによって救われた事を思い起こすのです。そうしたら、「主は与え、主は取り去り給う」という事を思い起こし、主のみ名はほむべきかな、と神に対する感謝がわいてくるのです。
 それはむしろ悲しみが深ければ深いほど、そうしてもはや人間的な慰めではもうどうにもならない深い悲しみの中にある時、主のことを思い起こし、深い喜びが与えられるのであります。