「自分の正しさではなく」3章2−9節


 「あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい」とパウロはいいます。
 「あの犬ども」と言っています。イスラエルでは、犬は軽蔑されるべき対象であります。 

 パウロはすぐその前では「最後に兄弟だちよ、主にあって喜びなさい」と勧めているばかりであります。それがここでは一転して、「あの犬どもを警戒しなさい」と言っているのですから、一節と二節の間にはずいぶん言っていることが違うように感じられます。しかし、「主にあって喜びなさい」ということは、本当は、喜びなさい、と言った後、すぐ続けて、「警戒しなさい」という厳しい言葉が続いても矛盾しない、おかしくないことなのかも知れません。

 それは「主にあって」というのですから、主イエスに反抗するような敵とは厳しく対決しなくてはならない喜びなのであって、ただお人好しのように、二コニコしていればいいという喜びではないという事であります。

 この「喜びなさい」と言う事は、前の説教でもいいましたが、この喜びは自分の周囲で起こる色々なうれしい出来事に左右されて、喜んだり、悲しんだりするような、喜びではなく、主にあって喜ぼう、主イエスのことを思い起こして、よし喜ぼうという、一つの決断というか、なにかをふっきって、喜ぼうという決断から起こる喜びです。

 外界の出来事にふりまわされてしまう中で、われわれには喜べる源泉になるものを自分の外に与えられていると言う事は、有り難いことだと思います。そのためには、主イエスの福音を曖昧にしてしまうものと厳しく絶えず闘わなくてはならないのであります。

 ここでパウロが「あの犬どもを警戒しなさい」と、ある意味では口汚い言葉で言っている人は、すぐその後に「悪い働き人たちを警戒しなさい」といっておりますので、教会の中の指導者のことであることがわかります。

 この人たちは教会の外から、教会を迫害する敵ではないのです。そういう外から迫害する人と闘うのは、ある意味では敵が誰かと言う事がはっきりしていて、たやすいのです。本当の敵は、迫害者ではなく、誘惑者であります。信仰を迫害するものではなく、信仰をいかにも信仰らしい別のものへと誘惑するものです。

 彼らはどういって誘惑するかといいますと、われわれが救われたのは、確かに主イエスの一方的な恵みによってであるけれど、救われた後は、やはり律法をきちんとまもらなくてはいけない、異邦人で救われたものは、ユダヤ人と同じように割礼を受けなくてはならないと主張するのです。それが、その後に出てまいります。「肉に割礼の傷をつけている人たち」という事であります。

 割礼というのは、男性の性にしるしをつける儀式ですが、それによって自分達は選ばれた民だという自覚を促す儀式ですが、それはユダヤ人にとっては、大変厳粛な儀式であります。それをパウロは「肉に割礼の傷をつけている者」「傷をつけている」という表現を使っているので、これはユダヤ人にとっては大変侮辱的な言葉ではないかと思います。

 「傷をつける」などと言われたら、大変に侮辱されたと思ったに違いないと思います。もしわれわれにとって、洗礼ということを、水で濡らされたものとか言われたら、大変侮辱されたと怒ると思いますが、いわばそう言った表現だったのではないかと思います。

 パウロはわざと人を怒らせるような言葉を使って、ピリピの教会の人々が信仰のみに立って欲しいと願うのであります。

 問題は、われわれが救われるのは「神の恵みによって救われる」という事だけではなく「ただ神の恵みによってのみ救われる」というところまで徹底しているかと言う事なのです。この「ただ」ということ、この「のみ」という、この「ただ一つ」の地点だけに立っているかということなのです。

 少し難しい言葉でいいますと、「福音と律法」ということではなく「福音か律法か」という事です。「福音」に加えて、福音「と」律法という事なのではなく、福音「か」それとも律法か、という事なのです。

 われわれが救われるのは、ただ神の恵みによってのみ、という地点に立てるかどうかです。それに何も付け加えてはいけないという事です。それになにかを付け加えようとするという事は、救われた人間はやはり、割礼を受けなくてはならない、もっと立派な生活をしなくてはならないと言い出すことになるわけです。

 それはわれわれがただ神の恵みに頼るという事をいつのまにかやめてしまって、自分は割礼を受けているという事、自分はクリスチャンらしい立派な生活をしているという事、そういう肉を頼みにし、自分の人間的なわざを誇りだすということなのであります。

 パウロはそれに対して「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇りとして、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である」というのです。

 そしてパウロは突然こう言い出します。「もとより、肉の頼みなら、わかしにもなくはない」といって、「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエル民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘプル人、律法の上ではパリサイ人、律法の義については落ち度のない者である」と、自分の肉について、つまり人間的なことを誇りだすのです。

 ここでパウロが言う、ベニヤミン族というのは、イスラエルの部族の中でも優秀な人が出た部族だったのです。ダビデがそうでしたし、イエスもそうだったのです。

 そして、ヘプル人という言い方は、これはイスラエル民族のことを言うのですが、これはこの当時は外国と対比するにときに、言われた呼び名たったそうです。外国の人に自分達の民族を誇る時に言われた呼び名になっていたそうであります。ですから、ここでパウロは自分の民族を誇っているのです。

 そして「律法の上ではパリサイ人」といいます。パリサイ人はイエスを一番攻撃した律法主義者です、そしてまたイエスの方でも一番激しく闘った一派です。パリサイ派の人々は律法を守っているという点では誰にも負けないという誇りがあったのです。そうしては、律法を守ろうとしない人々、守れない人々を厳しく、いやらしく裁いていったのであります。

 そして「熱心の点では教会の迫害者」といいます。パウロはキリストに出会うまでは、熱心に教会を迫害していたのです。

 しかし、考えてみれば、「律法の上ではパリサイ人」とか、「熱心の点では教会の迫害者」といって自分を誇ることは、相手がユダヤ教徒であるならば、誇ることになるでしょうが、相手はまがりなりにもキリスト教の伝道者なのです、クリスチャンなのです、その人々にむかって、熱心の点では教会の迫害者と言っても、何にも誇りにはならないと思います。

 ここには恐らくパウロの皮肉がこめられているのではないでしょうか。一応クリスチャンを名乗ってはいるか、救われた人間は異邦人でもユダヤ教徒と同じように割礼を受けなくてはいけないなどと、また律法をもちだすならば、つまり「福音と律法」と言いだすならば、それはまた再びパリサイ的クリスチャンになり、それはやがて教会を迫害する者になるということだと思います。

 そしてパウロは「律法の義については落ち度のない者であった」と豪語するのであります。だから当時のパウロは、律法にたいして、批判めいた事を言っているイエス・キリストをどうしても許すことができずに、かつては教会を迫害していたのであります。

 パウロはここでは「律法の義については落ち度のない者である」と言っておりますが、ローマ人への手紙の七章では、「自分は善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない。わたしの欲する善はしないで、欲しない悪は、これを行っている」と言っているのです。

 ここでいう善とか悪というのは、律法でいう善であり、悪であります。つまり自分は律法を守れないと言うことです。そして最後にこういうのです。「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの身体の中には、別の自分がいて、自分の心に戦いを挑み、わたしを罪の中にとりこにしてしまっている。ああ、わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれがこの死のからだからわかしを救ってくれるだろうか」と嘆くのです。

 ここでは、自分がどんなに律法を守ろうとしても、律法を守れなかったというのです。そういう事を嘆くパウロと、この「自分の義について落ち度がなかった」というパウロとどろ違っているのでしょうか。

 パウロはキリストを知るまでは、イエス・キリストに救っていただくまでは、自分は律法を完全に守っているという誇りがあったのです、そうしては教会を迫害していたのです。そうしては、律法を守れない人々を軽蔑し裁いていたのです。そして神に対して誇っていたのであります。

 この間の事情を、パウロは救われてから振り返ってこう言っているのです。「わたしは彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義をたてようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ書10章2節)と言っているのであります。

 自分は本当に神に対して熱心だった、従って神に与えられた律法を守るという点では人後に落ちないほどに、守って来た、落ち度がなかった、しかし、今考えてみれば、それは結局は律法を頼みとしているのではなく、律法を守っているという自分を頼みとし、自分の義を神に向かって、わめきちらして主張していたにすぎなかったというのであります。

 律法を守れば守るほど、神の律法が一番禁じていた事、自分を誇り、自分の義を主張するという方向に向かってしまっていた、そして律法が一番要求していること、神に頼り、ただ神のみを拝せよという所から遠ざかっていたということなのであります。

 だから、律法を守ろうとすればするほど、そして事実律法を守っていればいるほど、その実、内容的には神に与えられた律法をを喜んで守れなかったという事であります。

 それがパウロの「自分の欲する善はこれをなさず、自分の欲しない悪が自分をかりたてる、ああ自分はなんという惨めな人間なのだろう」という嘆きなのです。これは自分の意志が弱くて、律法を守れなかった人の嘆きではなく、むしろ自分の意志が強くて、律法を守れた人間、その傲慢さに気づいた人間の嘆きであります。

 そしてパウロはキリストに出会って、「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストの故に損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主イエス・キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストの故に、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それはわたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神の義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすためである」というのであります。

 パウロは「律法による自分の義ではなく」というのです。律法を守るということで追求する自分の義ではなくというのです。、正しさは、結局は、「自分の義」、自分の正しさを主張することでしかなかったというのであります。

 アメリカに移住した日本人の様子を書いている小説を読んでおりましたら、こういうところがありました。ちょうど、アメリカがベトナム戦争をしている時期にあたっているのですが、彼が知っている牧師がベトナム戦争に反対するデモとかに参加する。

 その牧師がそのベトナム戦争についてこう言っているのです。一人の若者が「どうしてアメリカはベトナム戦争をやめられないのですか」と聞くと、牧師は「それは観念で戦争しているからだ」と答えてこういうのです。
 「アメリカは、あのベトナムの領土がほしいとか、あそこの資源がほしいとか、そういった理由で戦争しているわけではない。ふつう戦争をする時は必ず領土的野心があるものだけど、アメリカにはそれが全くない。これだけはまちがいないことだ。ただひたすら、『正義』のためにアメリカは戦っている。正義のためだ、しかし、観念で戦争が出来る国なんてほかにはない。でも、その過剰な正義感が、この国をだめにしてゆくのです。」と言っているのであります。

 ベトナム戦争をこれだけで割り切れるわけにはいかないかも知れません。資本主義という構造が、つまり軍需産業を発展させるためには、どうしても武器を消費しなくてはならないということがあって戦争を引き起こしたという面もあると思いますが、あのベトナム戦争に限ってみれば、その牧師の言う事は一つの正しい見方ではないかと思います。
 共産主義に対抗するために自分たちは戦うのだという正義の戦い、その過剰な正義感がいまアメリカを駄目にしていっているんだというのであります。

 人間の主張する正義、その過剰な正義感、それは人間を本当にだめにしてしまうのであります。

 それは結局は自分を誇る道に突っ走ってしまうからです。過剰な正義感ほど人間をだめにしてしまうものはないかも知れません。過剰な正義感をふりまわす人ほど、やっかいな人はいないかも知れないのであります。

 それに対してパウロはおもしろい言い方をして、そこから自分が抜け出した事を語るのであります。 「しかしわたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」というのです。

 つまり、律法的な生き方か、あるいはキリストを信じる生き方かを、損得の問題としてとらえているのです。これはパリサイ派だった時のパウロには考えられない表現ではないでしょうか。これは損得という、そんなご利益的、世俗的な問題ではないと思うのです。

 それこそ、正しいか正しくないかという観念の問題、思想上の問題、魂の問題で、もっと高尚な問題だと思うのです。しかし今パウロはそれを損得の問題としてとらえているのです。これはある意味では驚くべきことではないでしょうか。

 それは今パウロが人間的な誇りというものをどんなに捨てているかという事ではないでしょうか。それだけパウロが謙虚になっているという事ではないか。

 よく言われる事ですが、大阪人と東京人の違いであります。大阪の人の挨拶は「もうかりまっか」ということだそうです。ところが東京の人は口がさけてもそんな事はいわないし、言えないのではないでしょうか。しかし、人間が生きるという事は、それを避けて生きる事はできないことで、大阪の人はそれを正直に口に出しているということで、それだけ人間として正直で、謙虚だという事ではないか。人間としてどちらが謙虚かということを考えてみればいいと思います。

 救いの問題を損得の問題として考えるということは、いかにもご利益宗教で、「いやだ」と言う人がいるかも知れません。しかしわれわれ人間にとって、救われるかどうかという事は、明日生活できるかどうかというせっぱ詰まった問題で、それは本当は損得の問題なのです。自分か本当に生きていけるのかいけないのかというせっぱ詰まった問題なのです。そこまで信仰の問題を日常生活の切実な問題としてとらえないと、信仰の問題は正しくとらえられないのではないでしょうか。

 つまりわれわれは自分の正しさなんかでは、食っていけないのです、言葉は乱暴ですけれど、われわれは神に義とされて、神に赦されて始めて食って行けるのではないでしょうか。