「達し得たところに従って」3章2−16節


 パウロは自分が今までこれが価値があると思っていたあの律法主義的な生き方をキリストを知ることによって、それをふん土のようにして捨てて、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからかを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めていると言ってきたのであります。
 そして「だから私達の中で全き人たちはそのように考えるべきだ」というのであります。

 「全き人」というのは、信仰的に成熟した人、信仰的に大人になった人という意味です。ところが、パウロはその締めくくりでこういうのです。

 「しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示してくださるであろう。」

 これはどういう意味なのでしょうか。今までパウロは自分が得た真理、というよりは、自分がキリストによって捕らえられて、与えられた真理こそが絶対的な真理で、それ以外の真理はふん土のようなものだと言ってきたばかりなのです。今パウロが走ろうとしている真理と違った真理があるなどとは考えられないことです。

 たとえば、同じパウロが書いた手紙、ガラテヤ人への手紙では、「もしある人が、あなたがたの受け入れた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである」とまで激しい口調で言っているわけで、自分の信じているものと違った考えを持っている人を容認するなんてことは考えられないのです。

 ですからパウロが「あなたがたが違った考えをもっているなら、神はそのことも示してくださるであろう」という、「神はそのことも示してくださるであろう」というのは、パウロの皮肉ではないかと、説明する人もおります。

 パウロはすぐその後に、一七節をみますと、「兄弟だちよ、どうか、わたしにならう
者となってほしい」と言っているところをみても、パウロが自分と違った考えをしている人を容認したり、その違った考えを認める筈がないというのであります。

 そうかも知れません。しかしまた学者の中には、もちろん、パウロが説いているキリストの福音という事と全く違った真理をパウロは容認しようとしていることは考えられないが、しかしそのキリストの福音という範囲のなかで、やはり違った考えとか、方法というものはあるかも知れないので、それをパウロは認めようとしているのだと、ここを解釈している人もいるのです。

 竹森満佐一もそう解釈しております。「違った考えの人というのは、それは神の福音の考え方が違う考えというのではない。それでは話にならない。そうではなくて、同じようにキリストを信じて生きていながらなお考えが違うということである。そういう事は有り得る。それはどういう人かというと、まず考えられる事は信仰的に大人になっていない人のこと、まだ信仰が十分成熟していない人のことである。」

 「しかし誰が信仰的に成熟しているかなんてことは、自分で決められることではないから、人はそれぞれ、自分の達し得た信仰に従って歩めばいいのである。われわれはすぐ自分は不十分だから、未熟だから駄目だといじけたり、不十分だから心配たといったり、勇気をもって信仰生活に励もうとしないけれど、そういう人に対して、パウロは『あなたがたが違った考えをもっているなら、神はそのことを示して下さるであろう』といっているのであって、不十分のままでもいいのである。

 何故なら神が知らせてくださる、神が示して下さる、神がなおしてくかさる、だから安心していなさいということなのである。」と竹森満佐一はここを説明しているのであります。

 パウロはガラテヤ人への手紙を書いてから、このピリピ人への手紙を書くまでにどれくらい時間的な経過があったかわかりませんが、しかしそのあいだにパウロ自身にも信仰的な成長があったのではないか、自分の信じている福音以外は絶対に認めようとしない、それ以外のものを宣べ伝えるものは呪われよ、と激しい口調で喧嘩を売ったパウロから、このピリピの手紙では、ずいぶん変わって来ているのではないか。

 たとえば、このピリピの手紙では、もう既に学んだところですが、自分が獄に捕らわれていることをいいことにして、党派心や、闘争心をまるだしにして、福音を宣べ伝える者が出てきている事をパウロは悲しみ痛み、憂えてはいますが、しかし、「要するに伝えられているのは、キリストなのだから、わたしは喜んでいるし、また喜ぶであろう」とまでいっているのです。ずいぶん寛容なパウロになっているのであります。

 信仰の問題は、それが命にかかおる問題ですから、真理問題ですから、どうしても自分の信じているものだけが絶対に正しい、それ以外のものは絶対に認められない、呪われよ、となりがちです。だからこそ、ここで「しかしあなたがたが違った考えをもっているなら、神はそのことを示してくかさるであろう」というパウロのこの姿勢は大切だと思います。

 もちろん、キリストの福音と全く違う福音では困るのです、それでは話にならないのです。しかし信仰の成熟にいたる過程においては、色々な段階があるのです。

 たとえば、コリント人への手紙に出てきますが、教会の中には、肉を絶対に食べない、何故ならその肉が偶像に供えられた肉である場合があるから、そのような偶像に供えられた肉を食べると信仰的に汚れるから、肉を絶対に食べないという人々がいた。

 それに対して、少し知的に考える人は、それは愚かな考えだ、この世に偶像など存在しないのだから、そんな存在しない偶像に供えられた肉を食べても汚れることなんかない、信仰は食べ物と関係はないのだ、信仰はもっと自由ではないか、肉を食べないなんていうのは、まだまだ律法主義に捕らわれている証拠で、そんな信仰は駄目だと、肉を食べないという人の信仰を軽蔑して、教会のなかで争いが起こっているのです。

 それをパウロは丁寧に論じて、「自分は信仰的には、肉を食べたからと言って自分の
信仰が汚れるとか駄目になるとは思わない。すべてのことは許されている、しかしすべてのことが益になるわけではない」と、パウロは言って、「自分自身は自由な考えをもっているけれど、弱いまだ成熟していない信仰の人をつまずかせないために、自分は自分のもっている自由を捨てて、自分も肉を食べない。」というのです。

 ある牧師から聞いたことですが、アルコール中毒から悪戦苦闘してようやくそこを抜けでた人が、牧師に「先生、酒はある程度は健康にいいとか、少量飲むのならば、健康にいいなどと、言わないで欲しい、自分にとってはその少量の酒が命とりになるのだ」と言ったと聞いたことがあります。その人にとっては、酒を絶対に飲まない、飲んではいけないということが福音なんだということです。それは決して律法主義ではないのだということであります。

 キリストの福音を信じていこうという点では変わりないのですが、しかしその信仰の表し方においてはそれぞれ違った表現の仕方があるという事がわかるのです。自分とは違った考えをもっているからと言って、批判したり、軽蔑したりしてはいけないということです。

 これはパウロ自身が伝道者として苦労して、ずいぶん信仰的に成熟していっている事を示しているのではないでしょうか。

 信仰の問題はどうしても自分の考えを絶対化しがちであります。その時にパウロがいうように、 「だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである」と言った後、なおそれだけで終わらないで、自分の考えを絶対化しないで、「しかし」といい、「しかし、あなたがたが違った考えをもっているなら、神はそのことも示してくださるであろう」と言えるということは大切であります。

 志村ふくみという染色家かおりますが、このかたは染色のほうで人間国宝にもなっているかたですが、エッセイのほうでも優れた文を書く人であります。その志村ふくみが、「木のはなし」という随筆で、こんな事を書いております。

 宮大工の話として、こういう昔からの言い伝えがあるというのです。「木組みは寸法で組まず、木のくせで組め」という口伝がある。「木は生まれながらに右、左にねじれるくせをもっているが、寸法で組まず、そのくせで組むと左右のねじれがうまく組み合わされて、ねじれがゼロになり、狂いはこない」と宮大工は言う。

 そしてそれは木を組むという事だけでなく、人と人との心の組み合わせも同じだと、その宮大工はいう。「弟子が失敗しても、決して人前では恥をかかせない、たとえ、失敗して行き詰まっても、それが間違いだとは言わない。『そういう方法もあるが、他にもこういう方法がある。それが駄目ならこの方法でやってみてはどうか』という。そうすると、この次からは、向こうからいろいろと聞いてくる。そのようにして心が組める。ひとりひとりのよいところをのばし、尊重する。それも木のくせと同じで、人の心の奥をよみとる洞察力、包容力が大切だ」と書いているのであります。

 人間には個性があるといいますと聞こえがいいですが、その個性というのは、結局は人間のくせである場合が多いのです。それもねじれというくせです。それはわれわれの信仰生活においても現れてくるのです。そしてそれは教会生活においても如実に現れてくるものです。だから、自分と違った考え、自分と違った信仰の表し方をする人のことを軽蔑したり、裁いてはいけないのであります。

 志村ふくみさんはそのの随筆の中で、こんな事も言っているのです。同じ宮大工の言い伝えのなかに、「木を買わず、山を買え」という言い伝えがあるというのです。一つの山で育った木で一つの寺、一つの塔を建てよということだそうです。木曾、吉野、四国と、違った山の木を混ぜて使ってはならない。同じところで育った木は、たとえくせがあっても、力は揃っているというのです。

 これもなかなか教えられる言葉ではないかと思います。 教会の中の生活、同じ福音の中で生活するならば、個性の違い、いやくせのちがい、ねじれの違いと言うのがあって、多少はぎくしやくすることはあるかも知れませんが、同じ神を信じ、同じキリストの赦しを信じている限り、必ず赦し合える時が与えられると信じることができるのではないでしょうか。

 それはわれわれの結婚生活の事にもいえることかも知れないと思います。好きな人とならば、信仰の問題は二の次でいいと言われるかも知れない。理屈ではそうかも知れない。信仰の問題よりも、その人との相性とか、その人を好きになれるかどうかの方が重要かもしれない。しかし現実問題として、長い結婚生活をするとき、この信仰という事は根本的な問題で、やはり、というよりも、当然、重要な問題になってくる事は明らかではないでしょうか。だから、未信者の人と結婚してはいけないとか、未信者の人との結婚生活は成り立たないというのではなく、その未信者の人と結婚したならば、結婚することを踏み切るならば、この人を信仰に導こうという覚悟とか、決意、祈りをもたなくてはならないということであります。

 それはまた、信者どうしの結婚生活においても同じです。うまくいかなくなる時、その時に同じ山で育っているならば、同じキリストの赦しを信じ合えるならば、その関係を修復できる望みをもつことができるのではないか。どんなに自分とは違った考えをもっていても、お互いの信仰という共通の山、地盤があるならば、話し合えること、赦し合えることはできるのではないでしょうか。

 「木を買わず、山を買え」という言葉も味わいのある言葉であります。

 もうひとつその随筆の中で、宮大工の話に感銘を受けた言葉を紹介しますと、薬師寺金堂の復興に際して、その宮大工が、木を買わず、山を買うために、台湾にまでいって原生林に入った。高いところから、点在する桧を双眼鏡でみると、青々した若葉をつけているものと、枯れ死寸前というようなものがあった。その宮大工はその枯れ死寸前の木を選んだというのです。

 現地のひとがそんな木で大丈夫かと危ぷんだが、検査してみると、青々した若葉をつけている木は中が空洞で使いものにならず、枯れ死寸前の木は心材がきっちりとつまっていたという。心材が腐って中が空洞化すると木の中身を養う必要がなくなり、それだけ枝葉に養分がゆきわたり、若々しい葉をつけるんだということなのです。

 そして志村ふくみさんは、「このことは人間にもあてはまりはしないかとその宮大工さんはいっているが、なんともうがったおそろしいたとえである」とその文を結ぶのであります。

 パウロは「わたしたちは達し得たところに従って進むべきだ」というのであります。これも色々な訳が可能なところで、もう一つパウロがなにを言いたいのかはっきりしないところであります。

 ある人の訳では、「いずれにしても、わたしたちはわたしたちの到達したところ、そこに固くとどまるべきである」と訳しております。つまり自分の今まで信じた福音理解の道、それを信じて真っ直ぐにすすめばいいという意味であります。あまり右往左往するなという意味にとっているわけであります。

 しかし、現行訳のように、訳することもできるわけで、新共同訳でも「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」となっていて、自分の信仰の成熟度に従って歩めばいいので、他人と自分を比較して、背伸びする必要はないという意味に
とれるところであります。

 ここでは全き人というように、完成を目指して歩もうという事が言われているところなので、信仰の成熟ということが言われているところなので、それぞれが信仰の成熟度に従って、一歩一歩歩んで行けばいいという事が言われているととってもいいと思います。

 背伸びばかりして、中身が空っぽになって、ただ見た目に青々とした枝葉をしげらせても意味がないということであります。

 パウロは「目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」というのであります。神の賞与を得ようとして走る、つまり、神様からのご褒美を目指して、神様からほめて貰おうとして信仰生活をしているのだというのです。

 それはいかにも子供っぽくないかと言われるかも知れません。しかし信仰というのは、神を信じていくことで、自分の哲学的な悟りとかというものではないのです。神様にほめて貰おうとする生活なのです。その時にわれわれは本当に謙遜になれるので、神様からも人からもほめて貰う必要なんかない、自分は自分の信じた道を歩んでいくだけだ、なんていう生き方はいかにも格好いいかもしれませんが、しかしそれはまた大変人を傲慢にしてしまうのではないでしょうか。

 もちろん人にほめてもらおうとして、媚びたりしたら、それは大変つまらない生き方になりますが、自分が誠実の限りを尽くして、そしてそれを他人が正しく評価してくれる、こんなにうれしい事はないわけで、そんなものはいらないなったら、われわれはずいぶんひとりよがりな傲慢な道を歩んでいることになるのではないかと思います。

 神様に誉めて貰おうとするわけです。なにもかも見通される神様に誉めて貰おうとするのですから、ただ表側だけ美しくしても意味がないし、神様に媚びを売ったって、それは全く効き目はないわけですから、われわれは本当に謙遜に自分の達し得たところに従って、一歩一歩誠実に歩むしかないのではないかと思いますし、すべてのことをご存じである神様がこのわたしの人生を評価してくださるが故に、安心して望みを持って歩んでいけるのではないでしょうか。

 神様に誉めて貰おうとして歩むという、子供のような素朴な信仰を失ってはならないと思います。