「わたしにならう者になれ」3章17−21節


 パウロは「兄弟だちよ。どうか、わたしにならう者になって欲しい」というのであります。すぐ、その前では、「あなたがたが違った考えをもっているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきだ」と言ってきたばかりであります。

それなのに、ここで「兄弟だちよ、わたしにならう者になれ」というのは、なにかふに落れません。

 「わたしにならう者になれ」と言える人は、自分によほど絶対に自信のある人か、あるいは、よほど謙遜な人か、そのどちらかだろうと思います。

 何故なら、自分に絶対に自信のある人なら、みんなが自分のようになって欲しいと願うだろうし、本当に謙遜な人なら、自分が偉いからそう言っているのではない事は自分で百も承知しているので、そういう事を堂々と言えるのだし、まちがっても自分が偉いから、自分の真似をしろ、と言っているのではないことは、相手にもすぐ分かってもらえることを知っているからであります。

 もちろんパウロは、自分は月足らずに生まれたクリスチャンだといっておりますし、神は無きに等しいものを選ばれたので、誇るものは主を誇れと言ってきているのですから、自分を誇るつもりで言っているのではない事はあきらかです。

 それにしても「わたしにならう者になれ」という事は、大変危険な勧めの言葉ではないでしょうか。

 昔は、エピゴーネンという言葉がよく使われました、今でしたら、コピー人間と言うかも知れません。人真似をする、亜流という事です。偉い先生の真似をする、そして本当は、その偉い先生の真似なんかできないわけで、その形だけ、真似をするわけで、悪いところだけ真似てしまうわけです。だから、亜流なのです。

 偉い牧師に育てられた弟子は、その説教の口調とか、講壇での仕草まで似てきてしまうものです。人の真似をするという事は、特に偉い先生の真似をするという事は大変危険な事なのではないでしょうか。

 なぜかといいますと、人はみな能力も性格も生活している環境も違うわけですから、その人の真似をするという事、特に偉い先生の真似をするという事は大変無理がある、背伸びしなくてはならないからです。

 そのために、大変な挫折感を味わうことにもなる、あるいは挫折感を味わう代わりに、その先生と違う道を見つけて、その先生から離れる事になるだろうと思います。そしてそれは今まで自分に従順についてきたのに、何故自分を裏切るのかと、その先生から叱責を受けることになる、しばしば、偉い先生と偉い弟子とはケンカ別れをするものです。

 それも人の真似をするという事がもともと無理があるからであります。特に、偉い先生とか、それに従う偉い弟子は、それぞれ強烈な個性をもっておりますから、当然衝突するのです。

 ですから、前に、ある新聞の連載もので、「わたしの先生」というようなシリーズもので、ある人が自分には「わたしの先生」というような恩師はいない、自分は自分で勝手にわが師なるものを造りだしている。たとえば、書物から造りだす。書物の上での師、先生を自分で見出して、その先生に従う。それならば、ケンカ別れするようなこともないし、盆暮れの贈り物をするとか気遣う必要もないから、その方がずっといい、というような事を書いていて、わたしは共感を覚えたものであります。

 それはその先生とある距離をおいてつきあうということです。自分の個性 わたしにとっての師というのは、書物の上での師、先生は何人かおりますが、直接の先生というのは、母教会の牧師、橋本ナホという牧師であります。

 もう亡くなっておりますが、わたしが大学生の時に知った先生で、その先生から信仰のなんたるかを教えられ、生活面のことでも、就職のことでもお世話になったのですが、その先生との出会いがなかったならば、わたしは正しい信仰は得られなかっただろうし、生きられなかっただろうと思いますが、しかしまたある時から、わたしはなんとかその先生から離れようとしたのです。

 その先生は子どもを亡くし、牧師でもあり神学者でもあったご主人を亡くしてから、献身をして神学校にいったのですが、そして開拓伝道して教会を設立した先生で、大変エネルギッシュな、人を育てることの大変優れた先生であります。

 未亡人ということで、とかく婦人牧師にはそういうところがあるようですが、家族かおりませんから、信徒を育てる時、信徒に自分の全勢力を注ぐというところがあって、注がれたほうはそれに耐えられなくなって、その先生から離れていくということがあったわけです。

 わたしは、その先生が説教で語られる言葉、福音の内容、その福音的に生きる生き方というものに大変教えられたわけです。そういうようにじかにその先生から学べなかったならば、わたしなどはとうてい信仰のなんたるかを自分のものにすることはできなかっただろうと思います。つまり、単なる書物からではなく、わたしの生活に干渉するようにしてかかわってくる、その先生の全力投球している生き方に触れていなかったならば、わたしなどはとうてい信仰を得られなかっただろうと思います。

 しかしそのうちに、やはりその先生と自分は個性が違う、生きる歩調が違うということに気がついたわけです。ですから、ある時から距離を置くようになったのです。

 そして神学校を卒業する時に、どこの教会に赴任するかという時に、わたしがまず希望したことは東京から離れたいということ、副牧師はいやだということでした。

 副牧師で苦労したくないと思ったのです。副牧師になると当然その教会の主任牧師に従わなくてはならない、こちらの個性をつぶさなくてはならない、自分の歩調で歩めないということに非常な苦痛があるだろうと思ったのです。自分が強い性格だったならどんな先生とでも自分の個性でやっていけるわけですが、わたしは最初はすぐ人に媚びてしまうという弱さがある、そして結局は最後までは媚びきれないだろうという事はよくわかっておりましたから、副牧師はいやだ、主任牧師がいいと生意気な事を願ったわけです。

 それとできるだけ、橋本牧師の勢力圏から離れたいと願ったわけです。そうしましたら、四国の愛媛県の教会にいくようになったわけですが、まさかそんなに遠い四国までいくとは思いませんでしたが、それはわたしにとっては牧師として大変いい出発点になったわけです。

 牧師になったならば、橋本牧師といわば同業者になるわけで、今まで以上に、干渉してくるだろうと思って物理的に距離を置きたかったのです。

 しかし四国にいって、実際に牧師になってから、橋本牧師のいわれた言葉がわたしにとって本当に力になった。どうしようかと困った時に、橋本先生だったらどうするだろうかと、こちらで想像して、どんなに教えられたかわからないのです。それは、まず橋本牧師が、説教とか日常的なつきあいのなかで語って来た言葉がわかしを励ましたり、裁いてくれたり、慰めてくれたりしたわけです。

 しかしその言葉というのは、その背後に、一人の人間が具体的に生きてきたというパッション(情念)というものがあって、それに裏打ちされた言葉なのです。だから、その言葉は生きた言葉になっているわけです。われわれはなんらかの形で、人の真似をして生きていくし、また成長していくのだと思います。ですから、具体的に真似のできる人を必要とするものであります。

 わたしは将棋が好きで、将棋のテレビ番組はかかさず見ておりますが、将棋指しは将棋の師匠に弟子入りして将棋を学ぶわけです。しかし実際に師匠と将棋を指すのは、入門の時だけだそうです。後は仲間でやったり、先生の将棋を見たりして学んでいくそうです。

 よく言われることですが、芸というものは教わるものではなく、お師匠さんから盗むものだといわれます。将棋も同じらしいのです。教わるのではなく、盗むのだと言う事はどういうことでしょうか。教わるという事は、先生の強烈な個性がこちらにぶつけられるわけです。しかし盗むというのは、密かに、そして自分にとって都合がいいところだけ自分の中に取り入れるということなのではないかと思います。

 つまり自分の歩調に合わせて、つまり自分の個性に合わせて、先生の真似をしていくと
いう事ではないかと思います。この自分の歩調に合わせていくという事が大変大事なのではないいます。つまり自分の歩調に合わせて、つまり自分の個性に合わせて、先生の真似をしていくという事ではないかと思います。この自分の歩調に合わせていくという事が大変大事なのではないかと思います。

 パウロは「わたしにならう者にとなってほしい」とはいっても、「わたしに従ってきなさい」とはいわないのです。「わたしに従ってきなさい」と言えるのは、これはイエス・キリストだけがいえることであって、イエス・キリストだけがいうことがゆるされることであります。

 「従う」ということと、「ならう」ということとどう違うのか。「従う」ということは、イエス・キリストがいわれたように「自分を捨てて」というところがあると思います。しかし、「ならう」というのは、もちろん、自分を捨てるというところもあるとは思いますが、それよりは自分を変えるということではないかと思います。自分を変えるためには、もちろん自分を捨てなくてはならないところもありますが、しかし自分の個性というものを活かしながら、自分を変えていく、先生の真似をしていくということではないかと思います。

 それならば、われわれはパウロのなにをならうのか、ということであります。コリント人への一一章の一節に「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい」という勧めの言葉があります。つまりパウロがキリストに従い、キリストによって生かされて生きている様子をならうということであります。

 たとえば、パウロが「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない、迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまたイエスのいのちが現れるためだ」というような生き方、あるいは「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」という生き方、「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからだ」というような生き方であります。

 パウロは「わたしにならう者となってほしい」と言った後、すぐ続けて「また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい」というのであります。

 これをみましても、パウロが自分だけに従ってこいというような、自分だけが偉いんで、自分以外の人を少しでも評価するとたちまち機嫌を悪くするような人とは違い、自分と同じようにしてキリストにならう人々、キリストに従って福音に生きていこうとしている複数の人々を指しているのをみても、パウロは決して自分だけを誇り、自分だけに従ってこいとか、自分にならうものになれというのではないことがよく分かるのであります。

 生きるということは、小さい子どもが親の生活の仕方を学んで成長するように、福音に生きるということは、そのように、具体的に福音に生きている人の真似をして、その生き方を学んでいくのであります 。