「主イエスにあって」4章1節 


 「だから、わたしの愛し慕っている兄弟だちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者だちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい」とパウロは勧めています。

 「主にあって堅く立ちなさい」、新共同訳では「主によってしっかりと立ちなさい」となっております。冒頭にある「だから」というのは、三章の終わりで言われた事を受けての「だから」であります。

 それはどういう事が言われて来たかといいますと、「キリストの十字架に敵対して歩いている人が多いが、あなたがたはそうしないで、キリストの十字架を信じ、更に救い主イエス・キリストの来られるのを待ち望みなさい、その時は主がわたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えてくださる」ということを言って、それを受けて「だから」です。そして「このように」です。

 ですから、聖書はこの句は、四章の一節になっておりますが、本当は三章の二一節に
つづけて置かれた方がいいのです。もともと、もとのギリシャ語の原典の聖書には、節というのはなく、後の教会がみんなで読むのに便利だからというだけで、大体内容に即して、区切りはつけられていますが、今日の聖句のように、ある意味ではいい加減につけられているところもあるわけです。

 それはともかくとして、「主にあって堅く立ちなさい」という聖句は、新年にふさわしい言葉であります。
 「だから」「このようにして」主イエス・キリストをますます信じていきなさい、と言うのかと思いましたら、「しっかりと立て」というところが大事ではないかと思います。

 「しっかりと立て」ということは、「しっかりと自分の足で立ちなさい」と言うことです。もうあまり信仰信仰といわないで、それよりは、自分の足を地面におろして、そして自分の足で立って、この大地を歩けというのです。

 そういえば、パウロはコリント人への第一の手紙(一五章)でも、主イエスの復活の信仰を長々と説明し、それを信じなさいと訴えたあと、やはり「だから」という言葉で、最後に勧めたことは「だから、愛する兄弟だちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」という勧めの言葉で終わるのです。

 それまではパウロはイエスの復活信仰を否定する人と激しく対決し、ある意味では大変気持ちの高ぶりをみせて、主イエスの復活の喜びとそれを信じる者の勝利を高揚した気持ちで語ってきているのです。しかしその結びは、意外にも冷静な言葉で、「だから、愛する兄弟だちよ、堅く立って、主のわざに励みなさい」というのであります。

 ここで「主のわざ」というのは、ただ伝道という主のわざのことではなく、もっと広い意味でのわれわれのこの地上での労苦の多い生活のことです。

 信仰信仰と、あまり信仰のことを強調しすぎますと、その信仰というものがなにかわれわれの自意識過剰な作為的な信仰になってしまうのではないでしょうか。まるでわれわれの熱心な熱き信仰で救いを獲得するような意味での信仰になってしまうのではないでしょうか。信仰というのは、自分の熱心な祈りとか自分は信じているんだという過剰な自意識ではないのです。

 信仰はなによりも神に対する信頼なんてすから、一度しっかりと神を信頼するんだという大きな決断をしておけば、後はもう信仰信仰と口にする必要はないのではないでしょうか。

 そういう意味で、「だから」とパウロは言って、われわれに「主にあって堅く立ちなさい」と勧めてくれているのは有り難いことであります。「主にあって」というのですから、もちろん信仰なんていらないというのではないのです。主イエス・キリストを信じて、という事であります。主イエス・キリストを信じて、自分の足で立ちなさい、という事です。

 信仰とは、神を信じ、主イエスの支えととりなしを信じて、自分の足で立ち、自分の足で歩き出すという事であります。

 この事で思い出すのは、竹森満佐一のある説教の中の言葉であります。弱さについての言葉です。「世の中でもっとも扱いにくいものは、弱さてはないかと思う。弱い人というのは、大事にしすぎるとつけあがるし、厳しすぎるとひねくれるし、甘やかすとまとわりついてくるというように、手に負えないものだ」という言葉です。

 わたしは以前、青山学院の高等部で少しの間、聖書を教えたことがありましたが、その時に、礼拝の時に、この竹森満佐一の言葉を説教の中で紹介しましたら、礼拝が終わって職員室に帰って来た時、みんながこの竹森満佐一の言葉にしきりに共鳴していたのです。本当にそうだ、と先生がたが言っていたのを思い出します。
 その時、ああ先生たちは日頃の生徒の指導の中で、この事で本当に苦労しているのだなと改めて実感したのであります。

 世の中でもっとも扱いにくいものは弱さだ、大事にしすぎるとつけあがり、厳しすぎるとひねくれる、甘やかすとまとわりついてくる、そういう弱さとは、結局は自立できていないという弱さではないでしょうか。自立できていないという事は、他人との関係で正しい関係に立てないという事ではないかと思います。だから、必要以上にいばってみせたり、相手の気をひくようにしてひねくれてみたり、べたべたと人にまとわりついてしまうという事になるのではないかと思います。
 
 「堅く立つ」ということは、自分の足で立つ、つまり「自立する」ということであります。そして自立するという事は、決して孤立するという事ではなく、むしろ、正しく人に信頼できるようになるという事です。

 他人の助けなぞいらないと、威張って強がってみせるのではなく、自分の弱さを十分に認めて、助けを必要とする時には、素直に、率直に助けを求め、相手を信頼し、尊
大にならず、ひねくれず、まとわりつくことなく、人を信頼して、しかも自分の足で立っていこうとするという事であります。

 ですから、自立するという事は、ある意味では、正しく人を信頼できるようになるという事ではないかと思います。 それが「主にあって」という言葉があらわしていることであります。

 堅く立つということは、ただ自分の足で、なにがなんでも立つんだと強がりをいうのではなく、主の励ましがあるから、主が必ずこの卑しい自分のからだをご自分の栄光のからだと同じからだに変えてくださることを信じるから、今堅く立つことができる、どんなにおぼつかない足であっても、立って歩こうという気がしてくるのであります。

 聖霊を受けたペテロたちが最初にした奇跡は、エルサレム神殿の美しの門で物乞いをしていた足の不自由な人の足をいやしてあげたという事でした。

 彼はペテロたちが宮に入っていこうとしているところをつかまえて、施しをこうたのです。つまり、彼は他人にまとわりついて、人の情けに甘えて、生きていたのです。その時ペテロは「わたしたちを見なさい」とまず言うのです。そうすると、彼は何かもらえるだろうと期待した。すると、ペテロは「金銀はわたしにはない。しかしわたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言って、彼の右手を取って起こしてあげた。すると彼は足とくるぶしとがたちどころに強くなって、躍り上がって立ち、歩きだしたというのです。

 奇跡といえば奇跡です。しかしこんな事は奇跡でもなんでもなく、「自分は歩けない人間なんだ、自分の様な人間はただ人のお情けに頼って生きていく以外にないのだ」と今まで思い込んでいた人間が、主イエス・キリストを信じて、そういう甘えを捨てて、ともかく自分の足で立ってみようとして、立ってみたら、立てた、歩けた、そういう事だったということなのではないか。

 そしてそれは具体的に自分の足で立ち、歩けなくてもいいのです。車椅子や杖を頼り、あるいは依然としてまだベッドに寝たままであるという事であるかも知れない。しかし自分の足で歩いていこうという姿勢の問題であります。

 彼は自分の足で歩けるようになった時、「歩き回ったり、おどったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮に入っていった」というのです。そして周囲の者達は「彼が歩き回り、神をさんびしているのをみて」これがあの物乞いをしていた者だったのかと驚き怪しんだというのです。

 彼がただ自分の足で歩いたという事でびっくりしたのではなく、自分の足で歩きながら、神をさんびしているのを見て、驚いたというのです。

 これも竹森満佐一の説教のなかの一節ですけれど、イザヤ書四二章三節にキリストを預言した言葉があります。
 「傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心をけすことなく」という言葉ですが、やがて現れる救い主は、今にも消えそうになっているローソクの灯心をもうこんなものは役に立たないといって消してしまうような救い主ではない。あるいは、川辺りで、折れてしまっている葦をむざんにも踏みつけて、正義の王道を歩いていくというような、そういう強い救い主ではない。

 そうではなく、消えそうになっている灯心にもう一度火をともし、その折れてしまった葦を決して折ることなく、その折れた葦をもう一度立て直してくださる、そういう救い主が現れるというイザヤの預言です。

 そこのところで、竹森満佐一はこういうのです。「人は誤解していないであろうか。折れた葦なら、なにかロマンチックな響きがあるが、これが葦のことでなく、人間のことだとすればどうだろうか。傷ついた人間というのは、美しいだろうか。素直だろうか。傷ついている人間というのは、傷ついているが故に、ひねくれていて、それだけ傲慢になっていないか。」

 弱い人間とか傷を受けた人間は、決して素直でなんかないというのです。その傷ついた人間を立ち直らすことがどんなに困難かというのであります。

 この今まで足が不自由で人に物乞いしていた人は、人に頼って、生きようとしてはいましたが、しかし決して人を信じて、人に正しく信頼してはいなかったと思います。人に頼ってはいましたが、それはただ人を利用しているだけで、本当の意味で人に信頼していたわけではないだろうと思います。

 人からお金をもらいながら、そのお金をくれる人を軽蔑し、世間を恨みながら生きていたのではないかと思います。その彼が今は、神を賛美しながら、宮に入っていった、礼拝するために宮に入っていったというのであります。

 神を賛美できるようになるという事は、ただ神を利用している人間にはできないことだと思います。

 人をほめることの出来る人というのは、人をほめることができるようになるということは、こちらも一本立ちができている時だと思います。こちらも自分なりに自分の足で立っている、そういう時に、正しく人を評価できるのです。人をほめることが出来るのです。

 ですから、人をほめられるようになるという事は大変難しいことだと思います。劣等感のかたまりのような人は決して人をほめることなんかできないのです。

 それは神との関係でいえば、神をほめるという事は神を心から賛美できるようになるということであります。神を賛美する、神を礼拝するというのは、もうただ神になにかをお願いするという事ではないのです。神を心から尊敬し、神を神として奉るということであります。

 自分の足で立つ、自立するということは、決して他人の世話なんか受けないということではないし、神なんかいらないということではないのです。むしろ、本当に自立できている人はは、自分の弱さをきちんと認め、神を正しく信頼し、そうであるが故に、神が自分に与えてくださった人にも正しく信頼していけるようになるということです。

 今パウロは、ピリピの教会の人にこういう言葉で呼びかけているのであります。「わたしの愛し、慕っている兄弟だちよ、わたしの喜ぴであり、冠である愛する者だちよ。」

 今われわれがこんな言葉を使ったら、かえって白々しくなってしまうかも知れません。それだけ今日われわれは、人との関係に素直でないということかも知れませんが、少なくとも、この時代にはまだ人との関係は素直だった、もっと素朴だったろうと思います。

 パウロはだか外交辞令でこんなことをいっているのではないだろうと思います。心底、ピリピの教会の人を愛して、このように呼びかけているのだと思います。つまり、一言ででいえば、どんなにあなたがたをこのパウロが愛しているか、という事であります。

 だから、「主にあって、堅く立ちなさい」ということです。ここには、パウロという強力な指導者がいる、だから、パウロを信じて、パウロが伝えたあの十字架の福音から離れることなく、主イエスを信じて、しっかりと自分の足で立ちなさい、そして歩きなさいと
ということであります。

新年にあたって、神がヨシュアを励ました言葉を思い出したい。これから大変な困難が待ちかまえている約束の地カナンにイスラエルの民を導いていかなくてならない
役目を与えられたヨシュアシュアであります。

 あの強力な指導者モーセからその困難な役を引き継いだヨシュアに対し、神はこういって励ますのです。

 「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。わたしはあなたを見放す事も見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。」(ヨシュア記一章一ー)

 神が共にいてくださるから、恐れおののくことなく、自分の足で立てというのです。そしてそれでもまだ不安な思いの中にいたヨシュアに対して、神はもう一度主の軍勢の将を派遣したのです。

 その主の使いはぬき身のつるぎをもってヨシュアの前に立った。ヨシュアは驚いて、あなたはわたしの味方ですか、敵ですかと聞いた時、その主の使いはこう言うのです。

 「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っているところは聖なる所である。」 (ヨシュア記五章一三−)。

 するとヨシュアはそのようにしたというのです。神の使いは、まず神を礼拝せ
よ、といったのであります。それから歩き出せというのです。

 われわれも新年にあたって、幸いにして、こうして礼拝に出席できて、この一年を礼拝して始めることを感謝したいと思います。