「一つ思いになって」 4章2−3節


 パウロは、「わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい」と言います。この二人の婦人の名前はここだけにしか出てきませんから、どういう人なのかはわかりません。ただ、わかっている事は、ピリピの教会のなかで、有力な信徒で、そして福音のために力強く戦って来た人たちで、そして今この二人が仲たがいしているという事であります。

 竹森満佐一はここでの説教のしめくくりにこういう事を言っているのです。
 「ある人が大変面白いことを言っている。この二人については、何もわかっていないが、ただ一つわかっていることは、この二人が仲たがいしたということだけなのだ。それなら、われわれの一生を一言で言い表すとどういうことになるのだろう、と言うのです。」

 「冷静に、他人を批評するように、自分の一生を一言でいうとしたら、どう言えるだろうか。案外われわれの一生も、あの人は争ったという一言でいわれてしまうかも知れない。あの人は怒ったということだけかも知れない。あの人はいつも不平をいっていたというだけで終わるかもしれない。なかなかあの人は愛していたということにはならないのではないか」言って、最後に「それだけにわれわれは、神の助けを必要とする。救いを与えられた上でも、なお助けを必要とする。また、われわれは全力をあげてお互いが救いを全うできるように助け合わなければならない」、そう言って、ここのところの説教を終わっているのです。まことに、皮肉なというか、鋭いというか、身につまされる説教の終わりかたであります。

 パウロはすぐその前では、「だから、わたしの愛し慕っている兄弟だちよ、わたしの喜びであり、冠である愛する者だちよ、このように、主にあって堅く立ちなさい」と、今日のわれわれから考えると、とても白々しくて、使えないような最大級の誉め言葉をもって、ピリピの教会の人に呼びかけているのです。

 「わたしの喜びであり、冠である愛する者だちよ」と呼びかけている、その「喜びであり、冠である」兄弟姉妹のなかに、この今仲たがいしているユウオデヤもスントケも入っているのです。これが教会というところの現実であります。もちろん、この今仲たがい
しているユウオデヤとスントケがパウロの喜ぴであり、冠であるということではないでありましょう。この二人のことで、パウロは今心を痛めているのです。だからこの二人のことだけをとりあげて、わたしの喜びだなどとはとうてい言えないのです。

 しかし、この仲たがいしている二人の婦人を排除している教会ではなく、この仲たがいしているこの二人を抱え込んでいる仲間、それが教会というところであり、その全体をひっくるめて、パウロは「わたしの喜ぴであり冠である愛する者だちよ」と呼びかけているのです。

そしてこの二人は、クレメンスやその他の同労者たちと協力して、福音のためにパウロと共に闘ってくれた人なのです。もちろん福音を伝道しながら、この二人は仲たがいしていた、仲たがいしながら伝道活動していたという事ではないかも知れません。伝道しているときは、もう一生懸命で、とても仲たがいしている余裕などなかったでしょう。

 そのあとで、ピリピという教会ができて、一段落ついてから、仲たがいするようになったのかも知れません。しかし少なくとも、この二人はこのように、わざわざその名前を名指しして、仲直りして欲しいと言われるくらいのおおげんかをしてしまう可能性をもった人間だったということは言えるわけです。

 この手紙の始めの方には、パウロが獄に捕らわれていることをいいことにして、まるで権力をパウロの手からもぎとるために、見栄のために伝道活動している者がいるとパウロは指摘しているところがありました。しかしパウロはそれでもいい、要するに伝えられるのは、福音なのだから、それでもいいとパウロはいっているところがありました。

 それをも含めて、竹森満佐一はこう言っているのです。「人間の罪や弱さということが、神のために戦うということを必ずしも妨げるわけではないということである」。

 パウロはそれまでは、繰り返すようですが、最大級の誉め言葉をもって、ピリピの教会の人たちによびかけていて、そして、すぐその後にも、四節からみますと、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい」と、この手紙のなかでも、いや聖書全体のなかでも、もっとも美しい勧めの言葉が続くのです。そのように美しい言葉にはさまれるようにして、パウロは、この二人の仲たがいのことを突然思い出しかのようにし、その名前を名指しして、仲良くして欲しいと訴える。

 それはパウロの気持ちからすれば、この二人の有力な婦人たちの仲たがいが解決されない限り、すぐその後に続く、「主にあっていつも喜びなさい」という言葉がすっと出てこないのではなかったかと思えるのです。やはり、教会のなかでの、婦人達の仲たがいというのは、心痛めることだったのかも知れません。

 先日、テレビの番組で、仏教学者の中村元と、小説家の大江健三郎と、シナリオ作家の山田太一の三人の座談会が放映されていて、なかなかおもしろかったのですが、その話のテーマは、今年は国際家族年ということで、「家族」ということでした。その中で、山田太一がこういうことを言うのです。わたしの記憶でいいますので、あるいはその通りの表現ではないかも知れませんが、こういう事を言うのです。

 家族という交わりは、いねば宿命的な人間関係の場だ。親と子という関係も互いに選べるわけではない。それは夫婦の関係でも実はそうであって、どんなに恋愛して夫婦になったとしても、それは確かに自分の意志で選んで、この人と一緒になろうという事であっても、しかし相手をどこまで正確に知って選んでいるというわけではないだろう。だからそこでも、それはもう宿命的に夫婦になってしまっているというところがある。だから、その宿命的な、いわば上から与えられた関係をむしろ受けとめるということが大事なのではないか。その中で、忍耐していく。その運命を引き受けていくということが大事なのではないか、そういう意味の事を言うのです。

 そうしますと、大江健三郎が「そうではないのではないか」言うのです。そしてすごいことをいうのです。「サルトルというフランスの実存主義の作家の言葉だけど、われわれの人間関係は選びにあると言っている。どんなに憎んでいる親子関係でも、相手を殺さないでいる限りは、子どもは親を親として自分で選んでいる。親もどんなに気に食わない子どもであっても、子どもを殺さない限りは、親は子どもとして、その子を選んでいるのだ。夫婦の間でも、どんなに憎しみ合っている夫婦でも、離婚していない限りは、夫婦としてお互いに選んでいるということなんだ。だから、人間の関係はどんな関係でも、人間の主体的な選びと言う事と無関係に成り立っているわけではない。」

 「自分の長男は、知的障害者として生まれたけれど、自分はある時から、この子を
自分の子どもとして受け入れようと決断し、選んでいる。子どものほうはどう思っているかわからないが、自分はこの子を自分の子どもとして選んでいる。」
 そういう事を言っていて、大変面白かったのです。

 わたしはそのやりとりを聞いていて、山田太一が言うのにもそうだな、と思いましたし、大江健三郎が言うことにも、それ以上にそうだなあ、としみじみ納得したのであります。山田太一が、家族という人間関係の宿命的な面をとりあげて、だから、その宿命をむしろマイナスとして受けとめるのではなく、その宿命的な面をも受けとめてしまって、そこで忍耐してうまく交わっていくということが大切だと言うわけですが、それは結局は、その宿命的な関係を自分の主体的な決断で、選び直そうという事ではないかと思います。

 山田太一は、どちらかといいますと、その人間関係を消極的なところから見ようとしているのに対して、大江健三郎はむしろ積極的に受けとめて、その忍耐してというところを、大江健三郎は「選び」という言葉で言おうとしているのではないかと思います。

 そこには二人の生きている環境の違いというものがあるのかも知れません。
 大江健三郎には、知的障害者の子どもがいるという中では、ただ忍耐してという消極的な態度ではやっていけないという状況があるということなのかも知れません。

 そうした人間関係のなかで、山田太一は「アメリカのある作家の言葉に「もう愛とか、愛するという言葉は、重くて使えないが、親切にするという言葉なら使える」という言葉があると言って、他者に対して、親切にする、そういう事ならやっていけるのではないかと、またまた少し消極的な事をいうのです。

 それに対して、大江健三郎は、「自分は『無垢』という言葉を使いたいと言うのです。無垢というのは、英語でいうと、イノセントという言葉だ。イノセントという言葉の意味は、汚れがないとか、罪がないという意味になっているが、そのもともとの意味は、傷つけない、という意味だ。人を傷つけない、そういう姿勢で生きていくことが大事なのではないか」というのです。

 自分の息子は知的障害者だけど、その息子をみているとイノセント、無垢ということを感じると言うのであります。

 パウロは今教会の中で仲たがいしているユウオデヤとスントケにそれぞれ、「ユウオデヤに勧め、またスントケに勧める」と、いちいちそれぞれの名前をあげて勧めていることは、「主にあって一つ思いになってほしい」ということであります。この「一つ思いになって」というのは、お互いに妥協しあって一致点を見いだして欲しいという意味ではなく、新共同訳では「同じ思いになって」という訳になっておりますが、同じ一つの事を思って欲しいということです。

 つまり「主にあって一つになって」ということは、主イエスの歩まれたこと、主イエスが言われたこと、そして主イエスがあの十字架で死なれた意味を考えて欲しい、その同じ事を考えて欲しいということです。

 われわれはみな生まれた環境も性格もそれぞれ違うのですから、お互いに妥協しあって一致点を見いだすという事は難しいことであります。しかしどんなに性格が違い、生きている環境が違っていても、一つの事を一つの同じ事を共に考えることはできると思います。

 共にイエス・キリストの事を考えることはできるわけです。そうしたら、その仲たがいをやめることができる、パウロはそう思ったのであります。

 イエス・キリストの事を考えると何が生まれるのか。今更その事についてながながという必要はないと思います。主イエス・キリストがその生と死においてなさった事は、罪の赦しという事であり、従って七度を七十倍するほどに赦しなさいという事であります。

 今日は特に、大江健三郎のいう、イノセントということで主イエスの歩まれたことを考えておきたいと思うのです。彼がいうには、イノセントという言葉のもともとの意味は、人を傷つけないという事だと言うのです。そしてそのイノセント、「無垢なもの」というものをご自分の知的障害をもった息子の行動をみていると感じるというのです。

 別の本で、大江健三郎は知的障害者の無垢という事を、「障害児の内面と障害児を囲む現実社会について知らないまま、その『無垢なもの』について言っているのではない」といい、そして「障害児の『無垢なもの』の確かさを、自分はそうしたものを失った人間として確実にみている」と言っているのです。

 確かに知的障害者は無垢かも知れない。われわれはそれを失ってしまっていることも確かだろうと思います。知的であるという事が、あるいは教養を身につけてしまったという事が「無垢なもの」を失わせることになったのでしょう。しかしもうわれわれは今更、その知的なものを捨てることはできないのです。それならばどうすればいいのか。

 イエスーキリストはどうだったでしょうか。彼は知的障害者のもつあの「無垢なもの」で生きたのでしょうか。そうではなかったと思うのです。イエスは律法学者パリサイ人だちとどんなに激しくやりあったかわからないのです。あの世俗的な権力者のヘロデに対して「あの狐に言え」と口汚い言葉で軽蔑もするのです。イエスによって傷つけられた人間も沢山いたと思います。だからこそ、イエスは最後に殺されたのです。

 イエスは知的障害者とか、あるいはわれわれが勝手に想像するようなアシジのフランチェスコのような人ではなく、人を真っ向から批判し、ある時には皮肉もいい、人を怒らせ、人を傷つけたのです。しかしそのイエスーキリストは最後はどうしたか。

 イエス・キリストは自分を主張しきらないで、最後は自分が死ぬことを通して、自分の真意を人に伝えたのです。あるいは、イエスは始めから、自分は最後には人々の罪を担って、十字架で死ぬんだという決意をもっていたからこそ、人々と激しく戦ったのではないか。最後には人の罪を赦す、そのために十字架で死ぬという覚悟があったからこそ、人を厳しく裁くことができたのではないか。

 そしてそれはわれわれにもできることではないか。「主にあって一つ思いになる」ということは、その事を思うということではないか。最後には人の過ちを赦す、そこまで
いけなくても、自分の意見を主張しきらないで、引っ込めるとか、そういう事は出来るかも知れない。

 われわれは確かに幸か不幸か知的なものをもってしまったためにそれだけ「無垢なもの」を失ってしまったことは確かだと思います。しかし、イエス・キリストの事を思うことによって、それをとりもどすことができるというのは、やはり知的な操作によって、それをしているのではないかと思います。そういう意味では、われわれは十分知的でなければならないと思います。

 パウロは、三節でこう言っております。「ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。この二人の女を助けてあげて欲しい」。この協力者が誰だかわからないのです。仲たがいしている女の名前は名指ししておりながら、この真実な協力者の名前をあげないのは、何かふに落ちない気もします。

 それで聖書学者のなかには、この「協力者」と言うのはそういう固有名詞の名前だったのではないか、と言う人もおります。たとえば、パウロの書いた手紙にピレモンヘの手紙
というのがありますが、そこに出てくるオネシモという名前は「役に立つもの」という意味があったそうです。だから、この人は「協力者」と言う意味の名前だったのではないかというのです。

 それに賛成する人はあまりいないようですが、協力する人はやはり、名前など出さない方が本当の協力ができるということなのかも知れません。人を助ける人は、いつも縁の下の力もちでないと、人を助けることはできないのです。そしてこの「協力者」という字は、「同じくびきにある人」という意味だそうです。このユウオデヤとスントケと同じくびきを担うことの出来る人だというのです。それはこの二人と同じ弱さをもち、つまり同じ罪をもち、その人間の弱さと人間の罪のもつ情けなさを十分知っている人ということです。

 そういう人が仲たがいしている人をとりなし、助けることができるのです。とりなすということは本当に難しいことです。よほど謙遜な人でないと、これはできないと思います。

 仲たがいしている時、われわれはどんなにとりなし手を必要とするかということです。人を赦すようになるためには、自分の知的なものとか、自分の教養を総動員して引き出して、相手を赦そうとしても、なかなかそれはできないのです。本当にとりなしてくれる人を必要とするのです。助け手を必要とするのであります。

 主にあって一つ思いになって欲しい、主にあって同じ思いを抱いて欲しい、とパウロが言うとき、主イエスがわれわれ共通のとりなし手で、その共通のとりなし手のことを思い起こそう、という意味もあるのかも知れません。

 この真実な協力者も同じようにキリストのとりなしによって救われている人で、だからこそ今仲たがいしているこの二人をとりなすことができるのであります。

 そしてパウロはこういうのであります。「彼らは『いのちの書』に名が書き留められているクレメンスや、その他の同労者だちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。」

 「いのちの書」というのは、旧約聖書にも出てまいりますが、救われた人間の名前が天
国にある巻物に名前が記されているという想像であります。それは人間の勝手な想像でしょうが、しかし美しい想像です。それによってわれわれの救いの確かさを表そうとした美しい想像であります。

 その「いのちの書」に、この今仲違いしている女達も書き留められているじゃないかというのです。つまり、その「いのちの書」から名前は消されていないというのです。どんなに仲た
がいしても消されていないというのです。その事を思い起こしなさいというのです。

 ここでは、ただ一人クレメンスという名前だけが出ておりますが、恐らくこの人は当時大変著名な人だったのでしょう、そして大変よい伝道者だったのでしょう。あのクレメンスの名前が書き留められている、その同じ「いのちの書」にお前たちの名前も書き留められているではないかとパウロは言って、この二人の女に仲直りさせようとするのであります。