「いつも喜ぶ」 4章4−7節


 パウロは「主にあっていつも喜びなさい」と「いつも」ということを強調するのであります。

 この「いつも喜ぶ」ということで、わたしがすぐ思い浮かべる人がおります。それはわたしが四国にいた時に知った牧師のことです。その牧師は徳島の教会の牧師ですが、もう引退していると思いますが、その牧師は本当にいつお会いしても、二コニコしているというふうな牧師だったのです。大変伝道熱心な牧師で、多くの教会の伝道集会などによく呼ばれる先生ですが、そういう旅にでるときには、必ずハガキを大量に買い込んで、自分の教会員に書いて送るというようなことをなさる先生です。

 これは同じ四国にいた吉田瑞穂牧師から聞いた話なのですが、吉田先生なんかは、列車に乗った時なんかは、知人に会うのは苦痛で、本を読んでいたいほうで、できるだけ人と話をしないようにするけれど、人と話するのが億劫だけど、その先生は列車にのると、同じボックスの人と話をして、その列車から降りるまでに、一人や二人を教会に導くと言っていたというのです。

 その話を吉田先生から聞いて、あの牧師だったら、そういう事もありそうだなあ、とこちらが納得してしまうような先生です。


 そういうふうにできたら、さぞかし人生は楽しいだろうな、伝道もよくできるだろうな、とは思いますが、自分には到底そんな真似はできないと思ってしまうのです。

 「いつも喜びなさい」という事はそういうことなのでしょうか。これを勧めるパウロはそのようにいつもいつも、どんな時にも二コニコと笑顔を絶やさないという人だったでしょうか。

 パウロの書いたコリント人への第二の手紙六章には、自分は「死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり」という言葉があります。

 常に喜んでいるという時、その前の言葉は、悲しんでいるようであるが、という言葉があるわけで、人からみたら、いつも二コニコしているように見られているわけではなく、そして事実本当に悲しい状況に何度も何度も遭遇しているのです。その時に、その悲しみをふっきって、「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり」という事だろうと思います。

 あるいは、その手紙の中では、「神のみこころにそうだ悲しみは悔いのない救いを得さ
せる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」 (七章一〇節)とも言っております。

 悲しむという事がどんなに大事かということです。あるいは、パウロはローマ人への手紙では、「わたしは思う、今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちにあらわされようとする栄光に比べると言うに足りない。」と言って、「実に、被造物全体が、今にいたるまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることをわたしたちは知っている。それだけでなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も心のうちでうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれる事を待ち望んでいる。わたしたちはこの望みによって救われている」と言っているのであります。

 「御霊の最初の実を持っているわたしたち」とは、クリスチャンになっているわたしたちという事です。つまり、救われたわたしたちもやはり心のうちでうめき苦しみ、からだのあがなわれることを待ち望んでいる、というのです。クリスチャンはいつも二コニコしていられるわけではないということです。

 クリスチャンにも苦しみや悲しみはある、それは何もこの世界全体の救いを考えて苦しみもだえるというような、そういう壮大な苦しみなんてものではなく、もっともっとみじめな苦しみかも知れない。情けないこと、救われたといいながら、自分のことで苦しみ悲
と言っているのではないかと思います。

 前の「喜びなさい」という説教でも言ったと思いますが、ヨプがすべてのものを奪われたあとも、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と主を賛美したと言うとき、聖書には記されていませんが、「わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ」という言葉の前に「そうだ」という言葉があったのではないか、「そうだ」という自分の心に対する呼びかけの言葉があったのではないか。

 そうだ、といって、自分の悲しみをふっきって、「そうだ、主の御名をほむべきかな」ということに至ったのではないか。ヨブがその賛美の言葉を告白する前に、聖書は「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った」という言葉が記されているのです。この主にたいする賛美の言葉を吐くまでにヨブがどんなに苦しんだかということを聖書はきちんと記しているのであります。

 この「そうだ」という言葉、これはわたしが勝手に入れた言葉ですが、この「そうだ」という言葉、悲しんでいる自分の心に対する呼びかけの言葉が大切なのではないか。

 喜びというのは、人から命令されて喜ぶものでもないし、人から「喜びなさい」と命令されたり、勧告されて、「はい、そうですか」といって喜べるものでないことは確かです。しかしわれわれには、そのように命令され、勧告されて喜べるようになるものをもっている、それが「主にあって」ということなのであります。

 喜びというものが、われわれが味わう喜びというものが、ただ自分の中に、あるいは自分の状況のなかで何かうれしいことがあって、その時に自然に喜びが湧き上がるというだけの喜びしかもっていないとしたら、何か周りから条件が整えられて始めて喜べるというのであったならば、われわれの人生は本当に一喜一憂する毎日の生活でしかなく、いつも外界の出来事にふりまわされてしまうことになって、大変つまらない人生に終わってしまうのではないか。

 さいわいな事に、われわれは「主にあって」ということを思い起こして、「そうだ、主にあって喜ぼう」と喜ぶことができる、そういう喜べる源泉のようなものを与えられているのであります。

 「いつも」というのは、四六時中ニコニコ笑顔を絶やさないという意味の「いつも」ではなく、「どんな時にも」ということだろうと思います。どんな状況の中にあってもという事です。

 竹森満佐一の説教にあった言葉ですが、「いつも絶えず祈りなさい」という聖書の説明で、「絶えず、いつも」という事は四六時中祈れということではないだろう、朝から晩まで、いわゆる祈り三昧にひたることではなく、いつも祈る用意をしていることだ、と言っておりますが、ここでも「いつも喜びなさい」という「いつも」というのは、どんな時にも主イエスのことを思い起こして、「そうだ」と、自分の悲しみを吹っ切って、喜ぼうと決断する用意をしていくということではないかと思います。

 この後の方をみますと、パウロは「何事も思い煩ってはならない」といいますが、これも思い煩っている人に向けて言われている言葉です。今悲しんでいる人、今思い煩っている人にパウロは、その悲しみをふっきって、その思い煩いを捨てて、主イエス・キリストを思い起こして、喜びなさいと言うのです。いつも二コニコしている人にそんな事を言う必要はないのであります。

 パウロは、「主にあっていつも喜びなさい」と言った後、「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい」と言います。この「主にある喜び」は、すべての人に寛容を示すことができる喜びだという事であります。寛容の内容については、この次学びたいと思いますが、ともかく、その寛容をすべての人に示すことができるような喜び、それはただ宝くじにあたったとか、お金がもうかったというようなうれしさではできないと思います。

 そういう時は多少は寛容になれるかもしれませんが、気前よくなれるかもしれませんが、しかしすべての人に対して寛容になれるわけにはいかないと思います。宝くじにあたったとか、金がもうかったというような喜びだけだったならば、以前にもにもまして、そのお金を死守しようとして、ケチになるかもしれないのです。

 しかし、そういう事ではなく、たとえば、大病してその病から奇跡的にいやされた時はどうでしょうか。そういう時には、それこそすべての人に寛容になれるのではないでしょうか。それは、このわたしの病を治してくださったかたがいるという感謝の喜びに満たされるからです。具体的には医者や看護婦さんに対する感謝かもしれません。しかしその背後に、もっともっと根元的に、神に対する感謝の気持ちをもつことができる。そういう感謝と結びつくような喜びの時には、われわれはすべての人に、それこそ道を歩いて出会うすべての人に寛容になれるのではないでしょうか。

 ここでいう喜びは、そういう喜びです。パウロはすぐその後に「主は近い」というのです。これは、直接的には、主イエス・キリストはもうすぐ来て下さるというイエスの再臨のことを言っているのです。しかしこれはただ時間的に「主は近い」ということだけでなく、もっと空間的にも主イエス・キリストが自分達の身近にいてくくださるという事だろうと思います。

 主イエス・キリストがわれわれの身近にいてくださるではないか、だから、いつも主にあって喜ぼうではないか、主に感謝をしようではないかということです。われわれはこの主イエス・キリストによって守られ生かされているではないかということであります。

 最後に、考えたいことは、この「いつも喜びなさい」という「いつも」ということであります。

 われわれの大部分は生活は仕事にとらわれています。職業としての仕事、あるいは主婦の仕事。「いつも」という時は、そういうわれわれの大部分の時間が取られている仕事、職場の時間のことを考えておかなくてはならないと思います。

 たとえば、その職業が一見、直接人の役に立つ仕事、一見、人に直接奉仕するような職業、たとえば、医者とか社会福祉関係の仕事とか、教師とか牧師とか、そういう職業ではなく、競争社会にもろにとりくまれてしまう商社とか銀行とかといったような職業についている人は、この「主にあっていつも喜びなさい」という聖書の勧めの言葉は現実的な意味をもってくるのでしょうか。

 そういう会社にいる時間は、もう仕方なくただ家族を養うために苦しみながら勤め、ていて、その後の時間で、ボランティア活動をする時に「喜び」を見いだすというような事でいいのだろうか。

 利潤追求という事を第一の目的にかかげている会社のなかで、どうやって聖書でいう「喜び」というのを味わうことができるだろうかということであります。

 この問題は、牧師としていつも深刻に考えざるを得ない問題であります。地方にいきますと、教会に来ている人が学校の先生とか、医者とか、あるいは公務員とかという場合が多くて、何か一見きれいな仕事についている人にしか、福音は力を及ぼさないのかと思ってしまう時があります。

 さきほど、「一見」という言葉を使いましたが、一見、人の役に立つ仕事、一見、人に奉仕する仕事と言ってきましたが、そういう仕事についている人の仕事だって、お金というものがなければ動きようがないのであって、決してきれいごとなど言っておれない事はあきらかです。

 牧師の生活だって、かすみを食べて生きているわけでなく、お金がなければ生活ができないわけで、教会員の献金というもので成り立っている限り、商社の人が競いあって、あるいは苦しい思いをしながら、嫌な思いをしながら稼いだお金の献金で成り立っているわけで、奉仕だ奉仕だと言って、一見奉仕的な仕事についている人だけが立派な仕事で、きれいな仕事で、なんてことは到底いえないのです。

 われわれの社会は、われわれの人生というのは、先週の話ではありませんが、それこそ宿命的
なものによって置かれている、自分の選択でなりたつようなもので生きているところは真に少な
いのです。そうした宿命的な状況のなかで、どう生きるかという事です。

 そしてそれは、宿命的とはいっても、自分がその会社をやめない限りは、やはり自分がその会社を選んでいるのであるという事も事実であって、責任を逃れるなんてことはできないわけです。そ
うした宿命的な状況のなかで、その会社ならその会社で、どれだけ良心的にやっていくかという決断と選択はしていかなくてはならないわけであります。

 そうした中で、「いつも喜びなさい」という聖書の言葉を実際問題として、どう自分の生活の
なかで活かしたらいいかという事です。この問題はその苦しい職業生活を強いられた人が自分で
見いだしていく以外にないことかもしれませんが、しかし大ざっぱにいえば、個々のことは別に
して、そうした中で自分が生かされている、自分を生かして下さっているかたがおられるという
事に思いをよせるということ、こんな自分でも働くことが許されている、この会社で仕事をさせ
てもらえているという事はやはり感謝すべきことなのではないか、どんな状況のなかにいても自
分を生かしてくかさるかたがおられるという事です。

 自分の人生は、その大部分の時間をついやされる職業をひっくるめて、自分の意志と好みと決断だけで選べるものではないということに気づくことが大切なのではないでしょうか。そう思ったら、われわれはもう少し謙虚になれるかも知れないと思うのであります。

 パウロも「主にあって喜びなさい」と言った後、「何事も思い煩ってばならない、ただ、事ごとに感謝をもって」というのであります。

 神に生かされていることを心から感謝したいと思うのです。その時にわれわれはいつも「主にあって喜べる」ようになるのではないでしょうか。