「寛容を示しなさい」 4章4−7節


 パウロは「あなたがたは主にあって、いつも喜びなさい、繰り返していうが喜びなさい」と勧めた後、すぐ続いて「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい」と勧めます。

 聖書ではしばしば、寛容という言葉は、愛とか慈しみとかという言葉と同じ意味に使われています。たとえば、詩篇の八六篇の言葉に「主よ、あなたは恵み深く、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者に慈しみを豊かに施されます。」とあります。

 従って、ここでパウロが「いつも主にあって喜びなさい」と言った後、「すべての人々に愛を示しなさい」と勧めてもいいところです。しかしパウロはここで「あなたがたの寛容をみんなの人に示しなさい」と言っているのであります。

 パウロがあの「愛の賛歌」と言われておりますコリント人への第一の手紙の一三章で、愛について述べた箇所で、その愛について色々定義していくなかで、最初に言ったことは「愛は寛容であり」ということなのです。もっとも、そこで使われている「寛容」という聖書のもとの言葉のギリシャ語は、今われわれが学んでおります所で使われている「寛容」と言う言葉とは、違った原語が使われておりますが、日本語では同じ「寛容」という言葉で訳されておりますので、それは同じ意味をもった言葉であるといっても間違いはないと思います。

 愛は色々な面を持っているわけですが、その中で特に「寛容」という事がここでは強調されているのであります。

 新共同訳聖書ではここはこう訳されております。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。ちなみに、新共同訳では、コリント人への手紙の「愛は寛容であり」というところは、「愛は忍耐強い」となっております。

 愛は色々な形をとるものです。ある時には、妬むぼど愛するというように、大変激しい強いものを示す時もあります。ここでは、愛のなかでも、そういう激しい焼き尽くすという愛の一面ではなく、むしろ静かな、ある人の訳では「あなたがたの温和さがあらゆる人に知られるように」と訳されておりますように、「温和さ」とか「広い心」とかという意味をもつ「寛容」という愛と思われます。

 われわれが寛容になれるのは、喜びがある時です。悲しい時はなかなか寛容にはなれないものです。何故かといいますと、苦しい時とか、悲しい時というのは、われわれの考え
は硬直してしまっているからです。非常に狭くなってしまっている。そういう時はわれわれはやはり自分の問題で心が一杯で、われわれはどうしても自分中心になっているので、どうしても視野が、考えが、狭くなっている場合が多いのです。とうてい広い心など、温和な心などもてないのです。ですから詩編の中では、自分が救われた状態を告白してこういうところがあります。
「わたしが悩みの中から主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれました。」(詩編一一八篇五節)

 あるいは他の詩編では「主はわたしを広い所につれだし、わたしを喜ばれるゆえに、わたしを助けられました。」二八篇一九節)とも歌われております。

 広いところに連れ出される、それがわれわれが救われるということなのです。その時にわれわれは自分中心のあの硬直した狭い狭い世界から抜け出すことができるからであります。

 われわれが人を恨む時、本当に苦しい思いをします。竹森満佐一が言っているのですが、「愛は恨みをいだかない」というところを説明して、「恨みをいだかないという字は、人の悪いことを数えないという意味だ。恨みというのは、いつまでも憎いと思いつづけることだ。憎いと思うのは、その人の悪いことを思い出しては、数を数えるように、繰り返し考えることだ。実際、恨みほどつまらないものはない。恨む時には、同じことを何度も考えるものだ、考えてみても仕方ないのに、ただ赦すことができないばかりに同じことを思うのだ」と言っています。

 この事を聞いて、みんな思いあたるのではないでしょうか。ちょっと人から悪口を言われて、われわれは夜寝る度にその事を思い出し、もうその事は考えまいと振り払っても振り払っても、相手に対する恨みを払いのけられないで、苦しむのです。それは本当に数を数えるように繰り返し同じことを考え続けてしまうのです。そういう時に、われわれがそういう狭い世界から解放されて、広いところに連れ出されたら、本当に救われた思いがするのではないかと思うのです。

 そしてそういう うれしい時、喜べる時、われわれは広い心を、温和な心を、寛容な心をもつことができる、その喜びは、ただお金がもうかったとか、自分の力でなにかをやりとげたというような喜びの時ではなく、大病からいやされたとかというように、なにか自分の力ではなく、自分を超えた誰かのお陰で苦しみから解放された、悲しみから解放されたというような喜びの時、つまりその喜びが感謝と結びつくような喜びの時、われわれは寛容になれるのではないかと思います。

 なぜならその時われわれは自分中心の思いから解放されているからです。自分を超えた誰かのおかけで今ここで生かされていると思えた時、われわれは自分に対する執着から解放され、すべての人に寛容になれるのではないかと思います。

 しかし考えてみれば、われわれクリスチャンが喜びを感じる時は、それこそどんな喜びも感謝と結びつかない喜びはないだろうと思います。それが他人のおかけでなく、一生懸命自分の力で自分が歯をくいしばって努力して努力してやりとげたことでも、われわれは自分の力だけでやりとげたのではなく、これは神様のおかげだという感謝と結びついてしまうのではないかと思います。

 たとえば、たとえが悪いかも知れませんが、競馬でもうかったってこれは神様のおかげ、ということになるだろうと思います。本当は悪魔のお陰かもしれないのに、神様のお陰だと思ってしまうのです。

 クリスチャンでない人からみれば、なんていちいち神様のおかけと言うのかと笑われるかも知れませんが、われわれはもうそういう習性が身についてしまっているのではないかと思います。またそうでなければ、クリスチャンとは言えないのかも知れません。

 そのためにわれわれは外部の人にはみっともないので、ある種のクリスチャンのように、感謝感謝とあまり口に出して言うのが恥ずかしくて、なるべく口にださないようにしているたげなのではないでしょうか。

 しかし口にはだしませんけれど、われわれが喜べる時は、感謝と結びつかないような喜びはないわけで、われわれがうれしいときは、いつでも寛容になれるということかも知れません。

 われわれが寛容になれるためには、まず何よりも自分から解放されていなくてはならないと思います。自分の考えに固執することをやめる、自分という狭い世界から解放されていなくてはならない。そうでなければ、広い心をもつことはできないのであります。

 そして聖書でいう、本当の喜びとは、われわれの罪がゆるされたという喜びです。そしてその時、われわれは寛容になれるのであります。

 主イエスのなさったたとえ話のなかに、罪の赦しを教えるたとえ話に、一万タラントの借金をゆるされた人の話があります。それはペテロが罪は何回までゆるさなくてはなりませんか、「七回ぐらいゆるしたらいいですか」という問いに対して、イエスが「七度」を七十倍するまでゆるしなさい」と言われたたとえであります。(マタイ福音書一八章二一節ー)

 一万タラントの借金をるゆるしてもらった。ところが彼はその帰り道に、自分がたった百デナリ貸していた男と出会った。百デナリ返せと迫った。ところが彼は返せなかった。それで彼を獄史に渡してしまったというのです。そのことが、主人に知れて、その一万タラントの借金をゆるされた男は、それが取り消されてしまって、彼は獄にいられてしまったというたとえ話しです。

 彼は一万タラントというものすごい膨大な借金をゆるされたのです。それなのになぜ彼は人に対して寛容になれなかったのだろうかという事です。彼は一万タラントの借金をまるごと棒引きにされてゆるされた時、彼は「しめた」と思っただけだったのではないか。「もうけた」と思っただけだったろうと思います。自分の罪がゆるされたとは一つも思わなかったのだろうと思います。従って、もうけものをしたとほくそ笑んでも、罪ゆるされたという感謝の気持ちは、そういう喜びはひとつもなかっただろうと思います。

 罪の赦しということを正しく受けとめるという事がどんなに難しいかということであります。

 そして、罪を赦すほうからいいますと、罪を赦すということがどんなに難しいか、どんなに慎重になるかという事です。寛容になるということは、人の罪を、人の過ちを赦すということです。ですから、寛容になるという事はどんなに難しいかということであります。

 それで、竹森満佐一がここのところの説教で「寛容」という言葉の説明で、こういうことを言っているのです。ここの寛容と訳されている元の言葉は、色々な意味を含んでいるというのです。

 ある英国の聖書学者がここのところの訳を最初は「あなたの優しさが評判になるように」と訳した。ところがつい最近出た訳では、「優しさ」と訳さないで、「理にかなった」と訳しているというのです。

 この「寛容」というもとのギリシャ語にはそういう意味を含んでいるのだというのです。辞書を引きますと、確かに「公正な」という意味がのっております。

 竹森満佐一はこういうのです。「理にかなっているからこそ穏当なので、だから、穏やかなのであって、だから柔和になるのだというのが、この言葉の意味なのだ」というのです。寛容と言う言葉の意味は、ただ人情的に少し大目にみてやろうという意味ではないというのです。それではただ人間の弱さを甘えさせるだけだというのです。そしてこういうのです。

 「罪の赦しというのは、それが本当に悪いという事をはっきりさせて、その上ではじめて赦しというものが与えられるのだ。われわれが人の罪を赦す時もそうではないか。一応その人がしたことについて自分か悪かったと言わせ、非常に大事な場合にはその人のしかことをいちいち全部言わせて、本当に悪かったということを分からせて、その上ではじめて赦しましょうということが出てくるのではないか。そうでなければ、本当の正しさが生きない。従って、正しさが生きないところには、罪の赦しというものは絶対にない」というのであります。

 もしそのように、自分のした過ちがきちんと明らかにされて、そうした上で、あくまでその事が曖昧にされたり、ごまかされたりしないで、過ちは過ちとしてきちんと明らかにされた上で、赦されていないと、赦された方もいつまでたっても、あの人に悪いことをしたから償わなければならないのではないかと思い、赦されたといわれても、償わなければならないという思いがいつまでも残ってしまうだろう、と言うのです。

 それは確かにそうだろうと思います。そのように曖昧な形で赦された場合には、われわれは赦された後、なるべくその人から離れようとするのではないかと思います。いつ償いを要求されるかわからないという思いが残るからであります。

 だから、本当の意味で寛容であることのできるのは、神だけだ、イエス・キリストだけだと竹森満佐一は言うのです。

 パウロがローマ人への手紙で、十字架の罪の赦しをいった後、それによってなによりも神の義が啓示されたのだ、それによって神みずから義となられたのだ、神の正しさが十字架によって貫徹されたのだというのです。だからわれわれは安心してこの罪の赦しを受けることができるのであります。(ローマ人への手紙三章二五節−)

 寛容というのは、ただ人情的に理解してはならないのです。あの姦淫を犯した女をめぐる話で、イエスは最後にその女に対して「わたしもあなたを罰しない。今後は罪を犯さないように」と言って、イエスがその女を赦したときの事を考えるとよく分かるのです。人々が、イエスに向かって「こういう女は石で撃ち殺すべきだと律法には書いてあるが、どう思われますか」と言った時、最初イエスは黙っていたのです。

 そしてしきりに人々がそう言うので、イエスは「あなたがたのなかで罪のないものが石を投げつけるがよい」と言われた。すると一人去り二人去り、そうしてみんな去っていったと言うのです。最後にイエスと女だけが残されて、イエスはその女に「わたしもあなたを罰しない」と言われたのであります。

 われわれは確かにその女に石を投げる資格なんかないことは明らかです。しかしイエスにはその資格は有るはずです。しかしイエスはその女を罰しなかった。

 これは単なる人情なのでしょうか。もし、人情ならば、イエスは人々が最初に「こうした女は」と、よってたかってわめいていた時、直ちに女をかばってもよかった筈です。しかしイエスは最初黙っていたのです。

 恥ずかしさのあまりうずくまっている女と一緒に、イエスも身を屈めていたというのです。何も言わなかったのであります。この時イエスはこの女に自分の犯した罪をしっかりと分からせようとしていたのではないか。そしてイエス自身もこの女と一緒に人間の弱さ、その女の罪を、自分のものとして深く受け止めておられたのではないか。そうしてこの女か正しく生きるにはどうしたらよいかをじっと考えておられたのではないか。

 それが、みんなが去った後、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今度はもう罪を犯さないように」という言葉となったのではないでしょうか。

 罪を赦すということは、本当に大変なことだということがわかるのです。犯した罪をしっかりと分からせて、そうした上で、その弱い人間がどうしたら、生きていけるか、どうしたら正しく生きていけるかを考えてあげる、これはいい加減なただ人情という事だけではとうていできないことです。

 人情的な寛容さは、こちらの弱さも認めてもらおうとするずるい考えがどこかにある
のかも知れないと思います。

 そういう意味では、本当に寛容になれるのは、イエス・キリストだけだということになるかもしれない。われわれはだかそのイエス・キリストから罪の赦しを受けて、自分自身が罪赦されたものとして、人の罪に対して寛容になれるだけだと思います。

 そしてその場合でも、あの一万タラントの借金を赦されたもののように、その罪の赦しをただもうけものをしたという程度にしか受け止めないときには、寛容にはなれないのであります。

 ここで「あなたがたの寛容をみんなの人に示しなさい」となっておりますが、少し原文に即して訳しますと、新共同訳のように「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい」という表現になるのではないかと思います。

 つまり、こちらが全ての人のところに出ていって、自分の寛容さを宣伝して見せびらかすということではなく、いつのまにか自分の寛容さが人々に知られていく、そう
いう生き方をしていきなさいということです。つまりわれわれが毎日の生活においていつも罪赦された喜びを持って生活していく、それがいつのまにか人々に知られるところになる、そういう生活をしなさいというのであります。そういうこならばわれわれにもできるのではないでょうか。