「感謝をもって祈りと願いを」 4章4−7節


 パウロは、「いつも主にあって喜びなさい」といい、そして「あなたがたの寛容をみんなの人に示しなさい」と言ったあと、何故なら「主は近い」というのであります。
 それは、われわれが「いつも喜び」、したがって「みんなの人に寛容に」なれる根拠なのです。そしてさらに、だから「何事も思い煩ってばならない」というのであります。

 この「思い煩う」という言葉は、もともとは二つに分かれるという意味だそうです。心が二つに分裂するという意味です。われわれが思いわずらう時のことを考えてみれば、色々な事を考え、ああでもないこうでもないと考える、こうしようか、ああしようか、と選択に困る、しかし幾つかの考え、選択の余地がありそうにみえて、結局は最後のところでは、二つにしぼられてしまうものです。そしてこれにしようか、あれにしようかと、二つの選択肢ができて、どちらにしようかと思い悩み、思い煩うのです。

 しかし、いずれはその二つのうちどちらかを選ばなくてはならないわけです。両方を選ぶ時にもどちらかに優先順位はつけなくてはならないわけです、だからどちらかを選ばなくてはならない。そして選ぶわけです。しかし選んだあとも、その選んだ事に自信がもてない、失敗するのではないかと心配してしまう、そこから思い煩いというのが起こるのではないかと思います。

 竹森満佐一がここのところを説明してこう言っています。「何か考えようとすると、いくつかの意見が出てきて、しまいには二つになって、こっちにした方がいいのか、あちらにした方がいいのかと心の中で、二つの意見が戦う。その結果、われわれの陥ってゆくところは大抵の場合には、心配なほうにだけ結論がいくのである。」
 そこから思い煩いが起こるのであるというのです。

 「われわれの考えはいつも悲観的になっているというのです。心配症なのです。なぜそうなってしまうのか。それはわれわれが神に信頼しきれないで、どこかに自分の考えに固執しているからだとことができない。人間に運命というものがあるかどうか知らないが、もし、われわれの生活が宿命的であるとすれば、それは、われわれの考えが宿命的なのである。

 よく犯罪を犯す人というのは手口が決まっていると言われる。警察では、その手口のカードをくってみると、大抵その人だということになるらしい。一度それでしくじったら、やめたらよさそうなのに、やっぱりその手口でしかやれないものらしい。そのように考え方が決まっているのである。従って、その人の生活がいつでも決まった方向にしか向かって行かないということになるのである。」

 われわれの考えというものはいつも悲観的な見方しかできなくなっている、その考えを容易に変えられないのだと言うのです。自分のそういうつまらない悲観的な考えを捨てて、神に信頼して生きればいいのに、それができないで、自分の考えというか自分の感性に固執してしまっている、そこから思い煩いというものが起こるのだと言うのです。

われわれは「思い煩うな」という聖書の言葉を聞く時に、すぐ思い出すのは、主イエスの「なにを食べようかと命のことで思い煩うな。明日のことを思い煩うな」という言葉、(マタイ6章25節−)ではないかと思います。

 そこで主イエスは「なにを食べようか、なにを飲もうかと自分の命のことで思い煩い、なにを着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥をみよ、野の花を見よ、神はちゃんと彼らをやしなっているではないか。あなたがたは彼らよりもはるかに優れた者ではないか。」と言い、そして「あなたがたのうち誰が思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」

 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすればこれらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労はその日一日だけで十分である。」と言うのです。

 「神の国と神の義を求めなさい」というのは、神の国というのは、国というのは支配という意
味をもった言葉で、神の国を求めるとは神の支配を求めるということ、そして神の義とは神の正
しさを信頼しなさいということです。要するに、神の支配を求め、神の支配に自分を委ねなさい
ということであります。神に信頼しなさいということであります。

 この場合の思い煩いというのはどういう思い煩いなのでしょうか。思い煩いというのは、二つ
のことで心が分裂することだと言いましたが、この場合はどういうふうに心が二つに分裂するの
でしょうか。ここでの思い煩いというのは、人間の限界を超えて考えようとする時に起こる思い
患いであります。命のこと、自分の寿命をどうしたら延ばせるかということ、それはつまり、われわれは死ぬのがいやだとか、どのように死ぬのかということを考えだすという事で、そういう事を考えると思い煩いが起こるわけです。

 なぜかというと、自分の寿命をわずかでも延ばすなんてことは人間にはできない、いつ死ぬかとかどのように死ねるのか、立派に死ねるか、そういう事はわれわれが準備できる事ではないからです。明日ということもそうです。明日のことをわれわれはもちろんある程度予測し、計算し、計画を立てるわけです。明日に備えて準備するわけです。しかし明日というのは、明日自身の迫力で向こうからやってくるわけです。なにが起こるかわからない。明日をわれわれの完全な自分の支配下におくことはできないわけです。

 それなのに明日をすべて自分の計画と自分の支配下におこうとするから、思い煩いがおこるのです。自分の限界を越え、人間の限界を越えて考えようとするわけですから、当然悲観的な見方しかでてこないわけです。

 ここでは自分の命について、自分の死について考えてはいけないというのではないのです。思い煩うなというのです。明日に対して、無計画でいい、そんな無責任なことをいうのではないのです。いつも自分の限界をわきまえ、人間の限界を知って、それを超えて考えようとするなということであります。

 人間がなにもかも支配しきれると考えるなということ、神がわれわれの命、われわれの生と死を支配しているのだから、神に信頼しなさいということです。つまり、ここでの二つの分裂は、神の支配に信頼するか、それともあくまで自分の計画と自分の考えに固執して、自分の考えを優先するかということで、心が二つに分裂し、そして自分の計画と自分の考えを優先しておしすすめようとするから、思い煩いが起こるのであります。

 明日のことについて計画し、準備することは当然なのです。命についてもそうです。ですから、保険に入るということは、社会人として責任のあることであります。そんなものはいらないという生き方が信仰的だなんては、到底いえないのです。

 ただ保険をかけておきさえすれば、もうそれだけで安心だといってしまっていいのかと言うことです。

 聖書の言葉というのは時々面白い言葉がでてきますが、この「命のことで思いわずらうな」というイエスの言葉で、ルカによる福音書(一二章二五節−)の方はこういう言葉になっております。

「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか」となっております。

 ここでは、「そんな小さな事さえできないのに」というイエスの言葉は面白いと思います。われわれにとって自分の寿命をわずかでも延ばすことはそんな小さな事ではなく、
どんなにか大きな事なのに、イエスは「そんな小さな事」と言ってしまうのです。それは逆に言うと、神がどんなにか大きなかたかということです。それと比較して、そんな小さなということであります。

 そのあと、イエスは「そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか」というのです。ここはなんど読んでも不思議な思いがします。なぜ「ほかのこと」なのか、命についての思い煩いのことを言っているところなのに、いきなり「どうしてほかのことを思いわずらうのか」というのは、おかしいような気がするのです。

 しかし考えてみれば、自分の命をどうやって延ばそうか、どうやって安楽に命を保ち、そしてどうやってうまく死ねるかという思い煩いから、われわれの「ほかの」思い煩いが起こってくるのではないでしょうか。命のことで思い煩いだすと、自分の今日の生活を切り詰めて、貯金にまわそうと考え始める、そうすると生活がみみっちくみみっちくなって、いつも心配症になっていって、思い煩いの多い生活になってしまうのではないかということです。ですから、命のことで思い煩いだすと、われわれは「どうしてほかのことでも思いわずらうのか」と言われるような思い煩いをすることになってしまうの
ではないかと思います。

 パウロは「何事も思い煩うな」といった後、すぐ続けて「ただ、事ごとに、感謝をもって」と続けるのであります。この「事ごとに」という事が大切なのであります。

 このことで竹森満佐一はこういうのです。「それは何か自分にいいことがあった時だけ感謝するということではない。すべてのことについて感謝するということだ。そうであるとすれば、それはやはり小さな自分の考えの中だけで考えて、喜んでみたり怒ってみたりすることではないはずだ。それではすべてのことに感謝するということにはならない。すべてのことについて感謝するというのは、少し極端かもしれないが、はっきり言えば死についても感謝するということだ。われわれは夜寝る前に、今日一日こうして生きることができたことに感謝の祈りをする。

 もしそうであるならば、一生の終わりに死の床の中で、一生いきてきましたが、今死ぬことができて感謝です、というのが本当ではないか、できるかできないかは別にして、それが本当ではないか。そうでなければすべてのことに感謝していることにはならない。その時にはじめて、生きていることについても本当の意味で感謝していることになる。

 死ぬことについて感謝出来ないで、生きている時だけ感謝しているというならば、それは自分の都合のいいことだけに感謝しているのであって、自分の都合の悪いと思うことには感謝していないことになり、すべてのことについて感謝していることにはならなくなる。ただ、ある事だけについて感謝する、たとえば、今日は健康であったら、健康についてだけ感謝する、病気については感謝しないというのであったとしたら、それはわれわれが世間のおつきあいで、自分の都合のいいことをしてくれた人の所になにか届けておけといったことと全く同じことで、神に感謝したことにはならない。」

 そして竹森満佐一は、神に感謝するというのは、神に礼拝を捧げるということだ、というのです。今日は少し竹森満佐一の説教からの引用が多くなりますが、こう言っています。

 「話が飛躍するように思われるかも知れないが、神に感謝するということは、神に礼拝することだ」というのです。そして神に礼拝を捧げるというのは、神を拝むという以外には何もないはずだと言うのです。

 「人間どうしの場合でも、人のお世話になった時には、そのお世話になった程度に応じてなにかをもっていく。どの程度にしたらよいかでわれわれは苦労する。あまりおおけさすぎてもおかしいし、あまり少なすぎてもおかしい、というので、どの程度のお礼にしたらいいかで苦労する。それならば神にお礼するのにどの程度のお礼をしたらいいというのだろうか。人間どうしの場合でも、相手が立派なかただったら、おかしなものはもっていけない、それならば下手なものをもっていくよりは何ももって行かないという場合もあるだろう。

 それならば、相手が神なのだから、なにかをもっていくよりは、ただ神に心から敬意を表する、もっと適切な言葉でいえば、神を拝むということ以外は、何もないはずである」というのです。

 「事ごとに神に感謝する」ということは、神を拝むという礼拝を捧げることだというのであります。

 そのように事ごとに神に感謝できたら、われわれは思い煩いから解放されるのであります。自分の悲観的な考えから解放されて、神に信頼できるようになるからです。しかし現実には、事はそんなに簡単ではないことはわれわれがよく知っていることです。パウロもそのことはよく知っていて、その後に「事ごとに感謝をもって祈りと願いとを捧げ、あなたがたの求めることを神に申しあげるがよい」というのであります。

 神を拝むという事だけ言ったら、われわれの信仰生活は、やはりきれいごと過ぎると思います。神を拝むということは、われわれの求めるところを卒直に神にお願いするということで、それを排除するということではないのです。

 ここでは、「祈りと願い」とわざわざ言っているところが大事だと、竹森満佐一は言う。「われわれはよくばりだから、祈りといえば、願いとしか考えないのではないか。しかしここでは祈りと願いと二つの言葉が使われている。祈りと願いの区別がつけられているように、祈りというのは、願いがなくても神と一緒にいたいためにすることなのだ。

 われわれは仲のいい友人や、愛し合っている人とは用もないのに話したがるではないか。それと同じように、祈りというのは神とお話しすることだ。

 詩篇は一五〇篇あるが、あるところには、願いが書いてあるが、しかしあるところには神に対する話が書いてある、わたしはこうしました、こうでした、こう辛かったという話だ、そしてあるところには、叫びが書いてある、あまり、きれいな言葉にはならないうめきもある」、それが祈りというものだという。

 そしてドイツの讃美歌、「舌動く限りは主の恵みを歌わん、脈打てる限りは感謝を主に捧げん、口動かずとも、ため息もてほめん」という讃美歌を紹介して、「口が動かなくなったら、ため息だけもいい、それで神をほめたたえようではないか、神に対して本気でため息をついたのなら、それは立派な祈りだ」と言うのであります。

 そしてこうも言います。「神の前に上品な祈りも下品な祈りもない。もし、われわれの祈りが下品だとしたら、われわれ自身がこれは上品だと思っている祈りだって、神からごらんになったら下品でありましょう」、まことに皮肉な言葉であります。

 だからわれわれはパウロがいうように、「あなたがたの求めるところを神にもうしあげればよい」というように、こちらでこんなことを祈ったら、こんなことをお願いしたら下品ではないか、あつかましいのではないかと、あらかじめこちらで選択する必要はないのです。

 神にたいする祈りとか、願いで、大事なのは、神に対して、率直になるということです。ですからそうした祈りは人前ではできないかも知れません。神と自分という二人きりの対話の中で行われることです。道を歩きながら、あるいは寝床の中ででもいいのです。絶えず事ごとに神と会話する、率直に会話していく、そういう祈りをしていれば、人前で祈る時もその率直さは、にじみでてくるものであります。

 そしてその場合、大切なことは、「事ごとに感謝をもって」ということなのです。た
だ願いがかなえられた時だけ、感謝するというのではなく、もう全てのことについて、感謝してしまって、それを大前提にしてしまって、祈り、願うということなのです。それはいちいち感謝しますという言葉を出すという事ではなく、すべてのことに感謝してしまうということですから、それは言葉を変えていえば、神に根本的に信頼してということであります。根本的には信頼しきるという大前提の上にたって、ある時には神に対していろいろ不平を言ったり、文句を言ったり、お願いしたり、つぶやいたり、助けてくださいと叫んだりしてみたりすのであります。