「神にあって飽き足りる」4章10−20節


 この四章のI〇節からの箇所は、新共同訳聖書では、ここのタイトルは、「贈り物への感謝」となっております。しかしここを読んでみますと、これが贈り物への感謝と言えるだろうかと考えてしまうのであります。

 ここはピリピの教会から度々物質的な援助を受けたということ、そればかりでなく、今獄中にいるパウロを励ますためにエパフロデトという人間まで派遣してくれている、それをパウロは感謝しているのですが、パウロは一七節をみますと、「わたしは贈り物を求めているのではない」とわざわざいうのです。あるいは「わたしはすべてのものを受けてありあまるほどである」といったりするのです。

 一一節でも「わたしは乏しいからこういうのではない。わたしはどんな境遇にあっても足ることを学んでいる」と言っているのです。人から物をもらって、なにか素直でないという感じを受けるのです。

 一五節をみますと、「わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをして、わたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全くなかった。」といっておりますように、ここでは「物のやりとり」が問題になっているようであります。

 物のやりとりぐらい神経を使うことはないかもしれません。物をもらってそれを素直に喜んでいいのか、お返しをしなくていいのかということはわれわれが一番神経を使うことであります。人を訪問するときにも、どの程度の品物を用意していったらいいかで心を煩わすのです。それは相手との力関係を考え、相手とのバランスを考えるわけです。

 人から物をもらってお返しを考えなくていい、もらったことを素直に喜んでいればいいという関係、こちらがなにかを贈っても相手は一つも重荷に感じないで、お返しを考えなくていい関係になった時、本当にいい人間関係ができたということかもしれません。心から相手を信頼できる関係になったということであるかもしれません。

 パウロとピリピの教会との関係はどうだったのでしょうか。ピリピの教会は他の教会がしなかったことをパウロに特別にしたようなのです。パウロと艱難を共にしてくれたというくらいに、ピリピの教会の人々はパウロを助けているのです。そのことをパウロは喜び、感謝しているのですが、そういう言葉はこのピリピの手紙のいたるところに出ているのですが、最後にかにきて、その感謝のあらわしかたがなにか素直でないというか、少しもってまわった言い方をしているように感じられてならないのです。

 ここでは、先生と生徒といういわば上下関係がやはりあって、それでパウロは気を遣っているのかも知れません。しかしそれだけでなく、この手紙が信仰の手紙であるために、物のやりとりをただ物のやりとりで終わらせたくない、その物のやりとりを神との関係にまで持って行きたい、信仰的な物のやりとりにしたいという気持がパウロにあったのではないかと思います。

 ここでのパウロの感謝の仕方がわれわれの日常的な物のやりとりの感謝の現し方にそのまま通じるとは思えませんが、物のやりとりをただ人間的な物のやりとりの関係に終わらせたくないためにはどうしたらよいかということであります。

 パウロはピリピの教会の人から物をもらい、またエパフロデトという人まで派遣してもらって、大変お世話になっているのですが、そしてその事をパウロはもちろん感謝しているのですが、この箇所で特に感じられることは、その事は物をもらい、援助を受けたパウロのためになるというよりは、パウロを助けたピリピの教会のためになるのだとしきりに言っている事であります。

 つまり人を助けるという事は、助けを必要としている相手のためになるというよりは、助ける側の本人のためになるのだとパウロはここでしきりに言っているのです。

 人からお金をもらって、これはわたしのためではなくて、あなたのためになるんですよ、といわんばかりの事をここでパウロは言っている。そんな言い方でいいのかと思いたくなるのであります。そんな言い方は相手に失礼になるのではないか。

 一四節に「あなたがたはよくもわかしと患難を共にしてくれた」とありますが、ある人がこの訳しかたではパウロの感謝の気持ちが出すぎている、ここはこういうふうに訳しか方がいいといって「あなたがたがわたしの患難に共にあずかったのはよいことだった」と訳して、ここではパウロはピリピの教会の人に対してもっと距離をおいた評価の仕方をしているのだというのであります。

 なぜそんなふうにここを訳するのかといいますと、その後の一七節をみますと「わたしは贈り物を求めているのではない、わたしの求めているのはあなたがたの勘定をぶやしていく果実なのである」ということから、ここをそのように訳しているわけです。

 新共同訳聖書では、ここのところは、こうなっております。「贈り物をあてにしているわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」となっております。

 「あなたがたの勘定をぶやしていく果実」とか「あなたがたの益となる豊かな実を望む」というのはどういう意味かといいますと、これは多くの聖書注解者の説明では、終わりの日の裁きの時、神の前に立だされた時、神に評価される材料になるという意味だというのです。たとえば、竹森満佐一の説教では「その献げものは終わりの日に、神の前において計算に加えられ、献げた人たちの救いのために役に立つのだ、それが神に対する、つまり彼らの勘定が増やされるということなのだ」と言っております。

 要するに、ここで言っていることも、ピリピの教会の人たちがパウロに対してした様々な贈り物、援助は、みなパウロのためになるというよりは、あなたがたピリピの教会の人たちのためになるんだということです。それを第三者が言っているのではな
く、物を受けたパウロが言っているのであります。

 それはその後にも続きます。パウロはこういうのです。「わたしはすべての物を受けて有り余るほどだ、エパフロデトを通してあなたがたからの贈り物をいただいて飽き足りている。それは芳しい香りであり、神の喜んで受けてくださる供え物であるとる」というのです。

 「芳しい香り」とは神に捧げる芳しい香りという意味です。つまり、ここでもあなたがたがパウロに対してした贈り物は、パウロのためというよりは、神に対する捧げ物で、それはあなたがたの救いに役立つものなのだというのです。

 普通考えたら、なにか変ないいまわしに思われるのです。それで竹森満佐一もこう言っております。「人から好意を受けながら、なんだか変な理屈をつけて、空威張りをしているわけではない。そうではなくて、受け取りかたがいつも信仰的であって、信仰の上から言って間違わないように、従って相手の人の信仰の完成のためにも役立つかどうか、ということを考えていたのだということなのだ。自分がお礼を言うべきことを神のせいにしてしまって、自分はお礼を言わないという事ではない」と言っているのです。

 わたしなどがここを読むと、パウロは素直でないなと思ったりしますが、この竹森満佐一の説明はなにか必死にパウロの立場を弁護しているように感じられてしまうのですけれど、そこが竹森満佐一の聖書解釈のすばらしいところで、彼は聖書を読む時に、聖書の言うことは絶対に正しい、間違っていない、パウロは絶対に正しいと、その立場から聖書を読もうとし、解釈し、説教をしている、そこがわたしなどには一番
教えられるところだし、感銘を受けるところであります。

 ですから、このパウロの感謝の仕方、ピリピの教会の人に対するお礼の仕方はやはり、これが信仰的な感謝の仕方であり、お礼の仕方だろうなと思うのです。

 竹森満佐一はこういうのです。「普通でしたら、このような好意を受け取ると自分が偉いのではないかと思って甘えがちになる。そしてお互いに甘えあうことが交わりになるのだと、教会ではしばしば誤解される。パウロはまるで違っていた。自分のしていることについて決して誇っていない。自分は神のためにしていることを信じ疑わない。従って自分は人から何をしてもらうような資格がある人間とは思っていなかったのだ。彼は好意を受けても自分中心にしてものを考えることができなかったのだ。」と言っております。

 竹森満佐一がいつも指摘している事は、教会の人間関係の甘えということであります。
もののやりとりとか、あるいは愛のやりとりでもいつもわれわれが陥りがちな事は、この甘えの問題であります。言葉を変えていえば、ものをもらった人に対して何か卑下しか気持ちになったり、媚びたりするという問題であります。

 考えてみれば、わたしが敬意を覚えているわたしの友人の牧師は、人に媚びるところのない人です。わたしは神学校にいく前に、ある学校で英語の教師をしたことがありますが、わたしは自分が先生をやってみて自分は学校の教師には向かないな、とつくづく思ったのです。

 その一つは、英語の教師でありながら、英語の実力がひとつもないということでしたが、それはあるいは勉強すればどうにかなることかも知れませんが、もっと致命的なことは、自分は生徒に媚びてしまうところがある、人をえこひいきしてしまう弱さをもってしまうという事だったのです。

 先生が生徒に媚びるようになってしまう、えこひいきという事も、ある特定の生徒に媚びようとするところから起こることで、根は同じです。人に媚びようとするということは、人から特別に好かれようとするという事です。そうしないと、自分が安心がいかないからです。教師が生徒に媚びるようになったら、教師としての資格はないのです。だから自分は教師には向かないな、ということを教師になって実感したのであります。それで教師をやめたといってもいいと思います。

 わたしの敬意を覚えている友人は、およそ人に媚びようとしない、そういう強さをもっています。それはどこから来ているかといいますと、自分は絶対に神に守られているという信仰の確信から来ていることをつくづく感じるのです。

 パウロのように、「自分はわたしを強くしてくださるかたによって何事でもすることができる」と言い、だから、「自分はどんな境遇にあっても足ることを学んでいる」と言い切れる、そういう確信、そういう信仰があったら、そして「自分は乏しくない、自分は飽き足りている」と、神にあって飽き足りていたら、おおよそ人に媚びる必要はなくなるし、人に媚びようとしてえこひいきする必要もなくなるのではないかと思います。

 パウロがここでピリピの教会の人からたくさんの好意を受けて、物質的にも贈り物や援助を受けておりながら、ピリピの教会の人に媚びようとしないのは、パウロが神にあって飽き足りているからであります。「わかしを強くしてくかさるかたによって何事でもすることができる」という強さと豊かさをもっている、だからパウロはピリピの教会の人に甘えたり、媚びようとしないのであります。

 人に媚びようとしない人間というのは、ある意味では冷たく感じられるかも知れない、一匹狼みたいに、孤高を保つような、ある意味では傲慢にも感じられる人もいるかも知れません。

 しかし、パウロは、ただ一匹狼とか孤高を保つという強さをもって自分を誇っているのではないのです。パウロは自分の弱さは他の誰よりもよく知っているのです。しかしこの弱い自分を支えてくれるかたがいる、わかしを強くしてくかさるかたがいる、だから自分は強いのだ、豊かなのだというのです。だからパウロは決して傲慢でもないし、冷たくもない、謙遜で温かい豊かなものをもっていたのではないかと思います。

神にあって飽き足りる時、われわれは正しい人間関係を、正しく人と交われるようになるのではないかと思います。

 最後に考えておきたいことは、一七節の「わたしは贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやすことである」というパウロの言葉であります。これは今日の主題と直接関係のないところですが、しかしパウロの言葉としては気になる言葉です。
  
 先ほどにも言いましたように、これは終わりの日に神の裁きの前に連れ出された時に、神から評価される勘定になるという意味だということなのです。そうしますと、パウロが今まで述べてきたこと、われわれが救われるのは、人間の功績、善行の積み重ねとか、人間のわざによって救われるのではないということ、これがパウロが主張してきた事であり、信仰の一番大切な事なのですが、そうであるならばパウロはここにきて自分が主張して来た事と矛盾することを言っているのかという問題なのです。

 しかしパウロの書いた手紙をみますと、パウロはしばしば、終わりの日にわれわれはみな神の前に連れ出され、自分の生きて来た事のいい開きをしなくてならないのだ、(ローマ人への手紙一四章コー節、第二コリント五章一〇節)と言うのです。信仰によって義とされる、救われる、というパウロは、終末の裁きについて厳しく語るのです。

 わたしを救ってくださった神に対してわれわれがどのように従ってきたか、どのように応えてきたかという事が最後に問題にされるというのです。

 問題はその中身、なにが問われているかということであります。

 パウロの書いたガラテヤ人への手紙(五章一六ー)に肉の働きと御霊の実という二つのわざについて語られ、肉の働きをしている者は、神の国を継げないことが言われているところがあります。

 この「肉の働き」の「働き」は新共同訳聖書では「肉の業」となっておりますように、
わざのことです。そしてある人が指摘しておりますが、この「肉のわざ」のわざの方は、複数形が使われ、御霊の実の方は単数形が使われているというのです。

 つまり肉のわざという時は一つ一つのわざの積み重ねの意味で使われ、終わりの日に神によって評価される御霊の実の方は、一つ一つのわざの積み重ねという意味ではなく、われわれの生き方そのものが問われるというのです。

 パウロはそこで肉のわざということで取り上げているのは、不品行、汚れ、といった、いわゆる悪い個々のわざをとりあげているのに対して、御霊の実ということでとりあげているのは、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、忠実、柔和、自制であるといい、これが神の国を受け継ぐものになるのであって、肉のわざは神の国を受け継げないというのであります。

 つまり終末の時にわれわれが神に問われるのは、われわれの個々のわざの積み重ねではなく、われわれが神の愛にどう応えたかというわれわれの生きてきた姿勢が問われるのだという事であります。それはたとえば、マラソンで走って来て、一等になったかどうかという結果が問われるのではなく、たとえビリでも、どういうふうに真剣に走ってきたかというその走りかたが問われるという事であります。

 われわれの救いということが、死んでから天国にいくか地獄にいくかという事ならば、ちょうど今駅の改札を通過するときに、機械が自動的に判定するように、自動改札機がわれわれを判定することになるかも知れませんが、われわれの救いは天国にいくか地獄にいくかという事ではなく、われわれを愛してくださった神にどう応えられるかという、その神との関係が救いの問題なのです。

 そうであるならば、終わりの日に神がわれわれにお前はどう生きてきたかと間うてくださらないならば、それはもはや神ではなく単なる自動改札機のような機械にすぎないということになってしまうだろうと思います。

 終わりの日にわれわれが神の前に連れ出され一人一人神の前に自分の生きて来たことが問われ、申し開きをさせられるということは、われわれの信じている神が本当に生きている神だということのなによりもの証拠ではないでしょうか。

 終わりの日に裁かれるということは、そういう意味では、そこでわれわれの救いが本当に完成されるということなので、大変ありかたいことなのではないでしょうか。それをなにもこわがることはないのです。神が生きた神であり、愛のかたであるが故に、終末の裁きがわれわれに用意されているからであります。この神の愛に応え、われわれもまたパウロと共に、人に媚びたり甘えたりすることなく、強くなり、豊になりたいと思うのであります。