「神に栄光があるように」4章10−23節 

 今日でピリピ人への手紙を終わらせたいと思っておりますが、パウロはいつでもそうですが、手紙を終わらせるに当たって、神を賛美して終わらせております。二一節から「だれそれによろしく」とか、「主イエス・キリストの恵みがあなたがたの霊と共にあるように」と記しておりますが、内容的には、二〇節の「わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アーメン」という言葉がこの手紙の終わりの言葉だと言ってもいいと思います。

 「神に栄光があるように」ということは、神が神として崇められますようにという事であります。それはわれわれが神に栄光があるようにと神を崇めたら、その時に始めて神が栄光に輝くというのではなく、もともと神が栄光に満ちておられるかただから、その神の栄光をわれわれが崇められますようにという祈りなのです。

 われわれの方が、われわれ人間の方が、神を神として真実に奉ることができますようにという願いなのです。その時にわれわれの救いが本物になるからであります。われわれが神を神として崇め、神に栄光を帰し、われわれがその神の前にひれ伏す、心からひれ伏す事ができる時、われわれは本当に救われるのであります。

 そしてそのように神を神として崇め、神の前にひれ伏す気持ちになれるのは、神がこの宇宙にただひとりの人の神、唯一の神であるという信仰に立っているからであります。つまりわれわれの信仰が多神教ではないからです。

 なぜなら多神教の場合には、多くの神様がいるわけですから、その多くの神様の中から自分にとって都合がいい神様をこちらから選ぶ、こちらから選べるわけです、つまり主体がこちらにある、主導権がこちらに、人間側にある、それならば、どうして神を崇める事ができるでしょうか。どうして神の前にひれ伏すことができるでしょうか。

 神を崇めるとか、神の前にひれ伏すという事は、もうあなたにはかないません、降参します、あなたを全面的に信頼しますという告白ですから、こちらが主導権をもって神を選んでおいて、本当に神を拝んだり、神を崇めたり、神の前にひれ伏すなんてことはできる筈はないのです。形の上では、神を拝んでも、それはただ形だけで、実は神をただ利用したり、利用しようとするだけであります。

 この頃は、一神教というのは、評判が悪いのであります。この間もある本を読んでおりましたら、こういう事が言われておりました。「ヨーロッパの文化はキリスト教という一神教に支えられてきた。近代はあらゆることが結局ヨーロッパーキリスト教を中心に展開してきたが、それを反省すべき時が来ているのではないか。

 非常に単純に言う人は、たとえば、湾岸戦争のとき出てきたのだが、アメリカとイラクは、どちらもキリスト教とイスラム教という一神教だから、どちらも正しいことをしているというので、激しい戦争をする。多神論的に考えれば、あちらもいいしこちらもいいというような事が考えられるので、あのようにはならないのではないか。平和共存ということを考えると、多神論をモデルにしたろうがそれに適しているのではないか。とくに戦争が嫌いな人からは、どうも一神教は困るという批判がでている」と言っております。 

 もっとも日本は多神教の国ですが、その日本もあの戦争をやっているのですから、一 神教たから戦争が好きで、多神教だから戦争をしないなんてことは言えないとも言っております。要するに、人間である限り、自分の立場を守るということから言えば一神教であろうとなかろうと、争いを起こすのであります。

 しかし確かに一神教の信仰に立つものは、神はだか一つという信仰、唯一神という信仰に立ちますから、そこから真理はだか一つという信仰が生まれ、真理は神が造ったものだから、絶対にただ一つであるという信仰が生まれ、そのただ一つの真理を見つけていこうという姿勢が自然科学を発達させていったのだ、そのためにヨーロッパで自然科学が発達してきたという事は言えるかも知れません。そして真理はだか一つであるという事は、やはり他の真理は認めようとしないわけで、そこで激しい争いが起こるということは言えるかも知れません。

 自分の意見が絶対に正しいので、他の人の意見を正しいと認めるわけにはいかない、という事になるわけであります。

 しかしそういう考えはもう世界でもアメリカでも行き詰まっていて、今アメリカでは先端の学問をしている人、非常に深く考える人は、東洋的な多神教的な考えに興味を持ち始めているとその本の中で言っております。

 アメリカの神学者の一人は、「信仰は一神教であっても、生活のすべてのいろいろな事は多神論的でいいんじやないか。神学も多神論的なほうがいい。現在の実際の趨勢は多神論構造の方になってきている。アメリカ人はそこを認識しないで、一神論構造を社
社会のなかに貫徹しようという非常にばかなことをやってきたのではないか」といっているのです。

 唯一神を信じる国では確かに自分の信仰、自分かちの正義、自分たちの主張を絶対化する傾向があるということは確かだろうと思います。アメリカにせよ、イスラム教のいわゆる原理主義に立つ人も自分たち以外の立場を絶対に認めようとしないわけで、その価値観は狭く、闘争的であります。しかしそれは一神教が悪いわけではなく、一神教を信じるわれわれ人間の信仰がどこかおかしいからではないか。神は絶対に正しいという事と、その神を信じるわれわれ人間の信仰や思想や判断が絶対に誤りがないという事とは全く別のことであります。

 むしろ神だけが正しいという信仰があるから、自分の考え、自分の判断は相対的なもので、自分の判断は誤りやすいものであることを謙虚に認めることができるのではないかと思います。

 この神だけが唯一の神で、この神だけが本当に正しい神であるという信仰にたっているから、われわれはその神を崇め、その神に栄光あれと、神を賛美できるのであります。

 神は唯一の神であるという信仰は、神を多神教のように多くの神々の中からこちらが自分の都合に合わせて選べないということです。こちらが神を選ぶのではなく、神の方でわたしを選んでいただく以外にないのです。わたしが神を選ぶのではなく、神がわかしを選んでくださるのです。


 だからわれわれはこの私を選んでくださった神にひれ伏し、この神を崇めるという信仰が生まれてくるのであります。
 そして神を神として崇め、その神の前にひれ伏す時、われわれは始めて自分を相対化できる、自分もまた誤り得る人間であることを知って、自分の立場、自分の主張が絶対に正しいのだと主張することから解放されて、自分を相対化できるのではないかと思います。

 神は唯一であるという信仰は、確かに他の神々の存在を認めないということ、他山神々を排除することになります。

 十戒のなかでもそのことが言われております。十戒の第一の戒めは「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という戒めです。神はただひとりしかいない、唯一の神だということです。

 その第二の戒めは「あなたは自分のために刻んだ像を造ってばならない」という事です。つまり偶像を造ってはならないという戒め、他のものを神としてはならないという戒めです。

 しかし、ここで、一番大事なことは「自分のために」という事です。自分のために神を造ってはならないということなのです。それは自分の願望に合わせて神を想像してはならないという事であり、自分の都合に合わせて自分のために神を造ってはならないという事です。自分のために神を造るという事は、自分を神にしてしまうという事です。ですから、
この第二の戒め「自分のために神を造ってはならない」という戒めは、自分を神にしてはならないという事です。人間を神にしてはならないという事です。

 そして第三の戒めは「あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という事です。つまり神をみだりに利用してはならない、神様、神様と、神をまるで自分の奴隷のように利用してはならないという戒めであります。

 つまり「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という第一の戒め、唯一神の信仰は、人間を神にしてはいけないということであり、自分を神としてはならないということなのです。

 自分を人間を絶対化してはいけない、自分の考え、自分の主義主張を絶対化してはいけない、自分の正義感を絶対化してはいけないという事です。それは自分の信仰を絶対化してはいけないとということでもあるのではないかと思います。
 
 神を唯一の神として崇めるとき、その事が本当にできた時、われわれは始めて謙遜にな
ることができる、そしてその時に始めてわれは救われるのであります。

 旧約聖書にヤコブという人がでてまいります。このヤコブという人が後にイスラエルという名前に変えられて、今のイスラエル民族のいわば創始者的存在なのですが、そのヤコブという人物は、大変我の強い、自己主張の激しい人物として始め登場してきます。
 
 弟として生まれてきながら、父と兄をだまして、長男の特権と長男の祝福を卑劣な手段で奪いとってしまうという事をするのです。そのために、兄さんのエサウに憎まれて、殺されそうになって、とうとう自分の故郷を無一文のまま逃げ出すことになるわけです。
 
 その逃亡の旅路で、全く孤独の夜を過ごしていた時に、天から梯子が降りてきて、神の使いが天から上り降りしている夢をみるのです。そしてその夢の中で、「わたしはお前がどこに行ってもお前を守る、お前と共にいる」と告げられるのであります。それでヤコプは夢から覚めた時、「まことにここに神がおられるのに自分は知らなかった」と言って、「もし自分が再びこの故郷に帰ってこれたら、わたしはここに石をたてて、あ
なたを奉ります」と神に誓うのです。そこを神の家という意味で、ベテルと名付けるのです。

 そのあと、ヤコブは大変苦労しますが、紆余曲折のあと、その故郷に帰ることができて、兄エサウとも和解することができます。しかしその時はヤコブはあのベテルで立てた神の誓いはすっかり忘れているのです。ベテルに行こうとしないてのです。

 ヤコブがそのベテルのことを思いだして、ベテルに言って、神を奉ったのは、ずっとあと、ある事件が起こってからでした。

 その事件というのは、ヤコブのひとり娘が土地の男に犯されてしまった、いわばレイプされてしまった。しかしその時、その男はその後、その娘を好きになって、正式に結婚したくなったというのです。それで男はその事を父に話し、正式に結婚を申し込んでくれ、と頼みます。父もそれを受け入れて、ヤコブの一族のところに行って、自分の息子が犯した事を丁重に謝り、なんでも要求を聞くから、正式に嫁にくれ、と頼みます。

 ところがヤコプの息子たちが承知しなかった。自分の妹がかねて軽蔑しきっていた土地の男に犯され、その上に嫁にくれとは何事かと怒った。なんとか復讐を考えた。そして「自分たちは割礼を受けているものだ。割礼を受けていない民に自分たちの妹を嫁がすわけにはいかない。もし妹を嫁に貰いたいなら、あなたがたの一族の男性はみな割礼を受けてほしい。そうしたら嫁にやってもいい」という条件をつけます。

 割礼というのは、イスラエル民族が自分たちは神によって選ばれた特別の民だという印に男性の性器に傷をつける宗教的な習慣で、選民意識の誇り高いイスラエルにとっては大変誇り高い重要な儀式です。
 
 その申し出をその土地の民は受け入れたのであります。そしてその一族の男性はみな割礼を受けた。割礼ということは、だいたいは赤ちゃんの時に受けるものなのですが、成人してから割礼を受けるということは大変痛いのだそうです。一週間はその傷のために身動きできない状態になるわけです。そこがヤコブの息子たちのつけめだった。相手が割礼を受けて、その傷のために身動きできないでいたとき、ヤコブの息子たちは襲いかかり、その一族の男性を皆殺しにしてしまって、妹をとりもどしたというのです。

 そういうすさまじい事件が起こった。もうこの時には、ヤコブは年をとっていて、衰えていて、実権は息子たちに移っていたようなのであります。父親のヤコブは息子たちの引き起こした事をあれよあれよとみているだけだった。そして、そんな事件を起こしてしまったらこの後、もうこの土地に居残るわけにはいかない、ここでは生活ができないという事で、父親のヤコブは茫然自失の状態にいたわけです。

 その時、神から言われるのです。「あなたは立ってベテルに行け。そしてそこに住み、あなたが先に兄エサウの顔を逃れて一人寂しく寝ていた時あなたに現れた神に、祭壇を築きなさい。」

 それまでヤコブはすっかりそのベテルの事を忘れていたのです。神の方から「お前はベテルに行け」と言われるのです。そして「祭壇を立てて、神を崇め、神の前にひれ伏せ」といわれるのです。ここではただベテルに行け、と言われただけでなく「お前はベテルに行ってそこに住め」と、「住め」と言われたのです。そのくらい徹底して神を神として奉る事に専念しなさいといわれたのであります。

 ヤコブの息子たちは自分の妹が、割礼を受けていない異邦人に犯された、その屈辱で頭が一杯だったのです。自分たちの民族的誇り、自分たちは神に選ばれた民だという誇りが傷つけられたということで、もうそのことで、頭が一杯だったのです。自分たちは正しい、そのためにこの自分たちの正義のためにはどんな報復も許されると思ったのです。

 それで彼らが一番大事にしている割礼という宗教的手段を使って、相手を皆殺しにしてしまったのであります。宗教的な誇りくらいやっかいなものはないのです。宗教戦争くらい泥沼化する戦争はないのです。それは自分たちのに信仰を絶対化し、自分たちの正義を絶対化するからであります。

 その時に神は「お前たちはベテルに行け」というのです。ベテルにいって、そこに住め、そしてそこで神のために祭壇を築け、というのです。お前たちが割礼という宗教的な手段を利用して、相手に復讐しようとする、それが正しいことだと信じ込み、相手の一族を皆殺しにしたのは、お前たちが本当に神を神として崇めていないからだ、ただ自分たちの信仰を絶対化しているからだ、今こそ、神を神として崇めなさい、今こそ神にのみ栄光があるようにと、神に栄光を帰しなさい、といわれたのであります。

 自分の信仰や自分の主義主張を絶対に正しいと主張するために、神を利用し、そのために神を拝むのではなく、真実に神を神として崇める時、神にのみ栄光を帰す時に、われわれは始めて謙遜になり、人を尊敬し、人を愛することができるようになるのではないでしょか。

 パウロがピリピの手紙を終えるに当たって、そしてピリピの手紙だけでなく、おおよそ信仰の手紙を終えようとする時、いつも最後には神を崇め、神に栄光があるように、といって、終わるのは意義深いことであります。