「キリストが崇められる」1章18−26節

 今パウロは獄の中に捕らわれているのであります。従って、いわば身動きできない状態にいるわけです。そういう中にあって、パウロの代わりになって、ますます熱心にキリストの事を伝えようと奮起する伝道者も出てきた。そしてまた、パウロは捕らえられて身動きできないと言う事で、自分達が活躍する時が来たというわけで、今まで何かとパウロに抑えられていて自分達の力を発揮できずにいた人が、失地回復をするいいチャンスが訪れたというわけで、妬みや闘争心で、そういうはなはだ人間的な醜い心で伝道に張り切る伝道者も出てきたというのです。

 しかしパウロは、そういう彼らも間違った福音を説いているわけではなさそうなので、「見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう」と言うのであります。

 そしてパウロはこういいます。「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが崇められることである。」

 パウロが望んでいたのは、キリストが崇められることなのであります。「わたしの身によってキリストが崇められる」という事はどういうことでしょうか。

 パウロは今獄の中に捕らわれていて、身動きができないわけです。ですから、今はパウロは直接伝道活動はできない。しかしパウロが今こうして獄に捕らわれたという事によって、ある人々はそのパウロに代わって、かえって

奮起して伝道に熱心になっていく、そしてまたある人々は悪意から、パウロの悪口をいいながら、福音を宣べ伝えている、しかしそれでも、伝道活動が発展していっている、それもこれもパウロが獄に捕らわれたという契機がそうさせているのです。

 つまり、いい意味にせよ、悪い意味にせよ、とにもかくにも、パウロが用いられて福音が前進し、キリストが崇められていく、それは喜ばしい事だということだろうと思います。

 ですから、「自分の身によって」などといいますと、パウロ自身が身を挺してとか、パウロ自身が大活躍してとか、想像するかも知れませんが、そう
いうことではないのです。パウロが大活躍してという意味ではなく、パウロが用いられて、キリストが崇められるということであります。

 このことで思い出すのは、吉田秀和という音楽評論家が、バックハウスというピアニストについて書いていた文章であります。こう言っているのです。「バックハウスの演奏は、要するに、曲が良ければ良いほど、演奏もよくなるということだ。だから、彼の演奏を聞いて、好きになった曲があるとすれば、それはまず名曲に間違いがないと考えてよい。ある種の名人は、大して内容のない曲でも素晴らしく弾いてきかせることができるけれど、バックハウスにはそれができない。わたしはバックハウスというピアニストを評価するとして、これ以上の言いかたを知らない。」

 別の箇所ではこうも言っているのです。「バックハウスという人を聴けば聴くほど、わかってくるのだが、彼は取り上げた曲が優れていればいるほど、演奏の質も高くなるという音楽家である。逆にいうと、彼にはつまらない曲でも弾き方によってびっくりするほど面白しろくなる、といった不意討ちや意外な驚きを与えることがほとんどない。」

 バックハウスというピアニストは、曲がよければ良い演奏をする、曲がつまらなければ、つまらない演奏しかできない、そういうピアニストだというのです。そしてこれは演奏家という芸術家をほめる言葉として、これ以上のほめ言葉はないというのです。
 
 演奏家は作曲家と違って、あくまで作曲家の意図を表現するのを使命としているわけです。いわば作曲家が作った作品をどれだけ正確に忠実に再現できるかにその演奏家の使命、善し悪しがかかっているわけです。ある意味では、作曲家を超えてはいけないのです。作曲家の作曲したその作品を自分の演奏で表現する、自分の演奏でいわば作曲家を崇めるところにその演奏家の使命があるわけであります。

 演奏家論としては、これとは違った意見もあると思います。演奏も一つの創作で、作曲家の意図を超えて、あるいは作品の意図を超えて演奏してもいいんだ、演奏も創作活動なんだ、いやそれを目指すべきだという意見もあるかも知れません。

 しかし、福音を宣べ伝えるということで言えば、このバックハウスの目指している演奏家としての姿勢が、福音を宣べ伝える伝道者の姿勢でなければならない筈であります。パウロが「わたしの身によってキリストが崇められることだ」という時、それはこのことを言っているのではないかと思います。崇められなくてはならないのは、あくまでキリストなのであって伝道者パウロではないということです。だからパウロの身が今獄に捕らわれて、パウロ自身が身動きができなくても、それが契機になって、善きにつけ悪しきにつけ、キリストが宣べ伝えられれば、それでいいんだということであります。

 パウロという人は、人間的にはずいぶん誇り高い人だったと思います。しかしそのパウロがひとたびキリストの前に立ち、キリストを述べ伝えようとする時に、いつも心がけた事は自分はこのキリストの前にできるだけ小さくなろう、そしてキリストを崇めようということだった、そういう意味で本当に謙遜であったということであります。

 わかしがたびたび説教の中で竹森満佐一を引き合いにだすのは、竹森満佐一を説教者として尊敬しているからであります。吉田秀和がバックハウスを評価したのと同じ様な意味で、わたしは竹森満佐一を心から信頼しているからです。

 聖書のなかには、公平にみて、重要なところとそうでない所があるし、あ
る意味では面白い所と、そうでないところがあるわけです。竹森満佐一の説教集を読んでおりますと、その点本当に吉田秀和がバックハウスに言ったことが当てはまるような気がいたします。竹森満佐一は自分の雄弁で聖書を面白くさせようというところがない、あくまで聖書の言葉に忠実であろうとする、そして聖書を全面的に信じている、そういう姿勢にうたれるのであります。

 そんなのは当たり前ではないかといわれるかも知れませんが、この頃の聖書学者は文献としての聖書にはかなり批判的な態度をとる学者が多いのです。竹森満佐一も聖書学者ですから、そうした今日の聖書学について決して知らないわけはないのです。知らないどころか、他の学者よりも、学者としても一流であります。しかしひとたび説教者として礼拝の講壇に立った時は、聖書の言葉を全面的に信じる姿勢を貫いている、その姿勢にわたしはうたれますし、自分もそうありたいといつも思わせられるのです。

その説教集を読んでも、一つ一つはあまり面白いとはいえないかも知れない。たとえ話かおるわけでもかないし、なにか人を驚かすようなことをいうわけでもない。あくまで聖書の釈義に徹しようとしている。それは晩年になるほど、そういう風になっているのではないかと思います。人に媚びるところがない、そういう説教を毎週毎週熱心に聴いていた吉祥寺教会の人もすごいなあと思います。

 パウロはあくまでキリストを崇めることに忠実であろうとしたのであります。「大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが崇められることだ」と言い、「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」とまで言うのです。

 パウロは今獄に捕らわれておりますので、いつ死ぬような事態がくるかわからないという気持ちがあったのかも知れません。キリストのためならば、死んでもいいのだと言うのです。そればかりか、後の方をみますと、むしろ早く死にたいのだと言うのです。「わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実はその方がはるかに望ましい」というのです。

 何故早く死にたいかと言えば、死んだらキリストと会えるからだというのです。この世に生きている間は、やはりいろいろ煩わしいことがあって、ついキリストのことをおろそかにしてしまうという事もある、しかしこの世を去ったら、そういうものからも解放されて、キリストと共にいることに専念できるから、その方がはるかに望ましいというのです。パウロはこれ程までに、キリストと共にいることを望み、キリストを愛していたのであります。

 愛するということは、愛することによって何かを得られるとか、徳をするとかということではなく、愛するという事は、一緒にいるということです。
 
 ところが、われわれはそのことを忘れてしまいがちなのです。その事に鈍感になってしまうのです。ですから、愛するということは、その人と一緒にいること、共にいることなんだという事は、その人を失ってみて始めて改めて気がつくことが多いのではないかと思います。

 まだ一緒にならない前の恋愛中には、その人と会うという事、会っているというだけで楽しい筈です。しかし結婚して一緒にいると、ついそのことを忘れてしまい、鈍感になってしまうのであります。

 われわれが神を愛する、キリストを愛するという事も、神を信じたら、何かいいことが起こるのではないか、商売繁盛、健康でいられるのではないかと、そんな事ばかり求めだすのであります。

 神と共にいる、キリストと共にいるという喜び、それを失ってしまうのです。われわれがこの地上で生きているとどうもそうなってしまって、純粋にキリストと共にいる、そのことだけで、うれしいという喜びを忘れてしまっているのであります。

 愛する人を失った人ならば、このパウロの気持ちはよく分かるのではないでしょうか。愛する人と今一緒にいない、その事がどんなに淋しいことか、共にいてくれている、それだけでどんなに楽しい事か、そのことが失ってみてわかるのではないでしょうか。

 パウロは、死んだら天国にいくんだとか、天国はさぞかし素晴らしいところだろうなどという想像力を一つも働かそうとはしていないのであります。ただキリストと共にいる、それが天国というところだとパウロはいうのであります。

 早く死んで、キリストと共にいて、自分の救いを確かなものにしたいという。パウロという伝道者は、伝道しながら、絶えず自分自身の救いというものをどこまでも切実に求めていった人なのです。パウロはもう自分の救いは達成してしまって、もう自分は救いの問題は卒業してしまった、そうして今度は他人の救いのことで面倒を見ましょうというような姿勢で福音の宣教にあたっていたのではないのです。

 たとえば、コリント人への第一の手紙では、「わたしはすべての人に対
して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、みずから進んですべての人の奴隷になった。」と言い、「自分はなんとかして幾人にでもいいから、福音を宣べ伝えて救いたい」のだと言って、その最後に、「福音のためにわたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」というのです。

 あるいはその後でも「自分は自分のからだをうち叩いて服従させる、そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れないからだ」というのであります。

 パウロは、自分自身がキリストによって完全に救われたいと望みながら、人にもその救いを宣べ伝えようとしていたということであります。

 それはもちろん、他人に伝道することによって、それが自分の功績になって自分の救いが全うされるなどという、そんなつまらないみみっちい事を考えているのではないのです。それだったならば、パウロがあれほど非難攻撃した「わざによる救い」を目指すことになるわけです。そうではなくて、パウロ自身が真剣な求道者だったということです。伝道者自身が真剣な求道者だからこそ、人にもまた福音を宣べ伝えることができるということです。

 パウロ自身がいつも真剣に「共に福音にあずかろう」としていた、救いを求めていた、説教者自身がいつも聖書から、福音を聞こうとしている、そうでなければ、聖書を人に語ることはできないのであります。

 パウロは自分自身の救いという事を考えたら、早く死にたい、死んでキリストが待っている所に行きたいと願っているのであります。「しかし、肉体において生きていることが、わたしにとって実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んでよいか、わたしにはわからない。わたしはこれら二つのものの間に板挟みになっている。」というのです。

 パウロはここで、どちらを選んでいいかわからない、と言っておりますけれど、ここを読んでいると少しわからないところがあります。パウロはまるで自分で死を選べるような事を言っていることです。パウロはまさかここで自殺したいといっているわけではないだろうと思います。

 ですからパウロが「死ぬことは益だ」といって見たところで、直ちに死ねるわけではないのです。それなのに死ぬ方がいいのか、生きることを望むべきか迷っているという言い方はどういう事なのでしょうか。

 これはパウロが、実際問題として死ぬか生きるかということで迷っているのではなく、死ぬことを願っていいか、生きることを願うべきかで、「願う」ということで、迷っているということだろうと思います。もちろん、パウロが死を願ったからといって、すぐ死が来るわけではありません。

 しかし、少なくとも死を願う方向で生きていったら、そういう姿勢で生活していったら、やはり生き方も変わってくるということは言えるのではないでしょうか。そのことでパウロは今迷い、板挟みになっているのてあります。

 そういう事なら、われわれもまたこのパウロの迷いを考えてみなくてはならないと思います。
 われわれもまた自分の人生を、死を自覚して、ある意味では、死を願いながら、生きるか、それともただ生に執着しながら生きるか、その選択はしておかなくてはならないのではないか。いつ死んでもいい、キリストが待って下さっている死ならば、いつでも死ねる、死を待ち望める、そういう事を願って生活するのとしないのとでは、やはり生活の仕方は違ってくるのではないでしょうか。

 パウロはしかし、結局は自分が伝道者として召されたことを自覚して、「肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには更に必要なので、わたしは生きながらえる」方を願う生きかたを選ぼうというのであります。

 パウロはやはり伝道者として神の救いのご計画を信じて生きようとしているわけで、ただ自分の願いを優先させるわけにはいかないという事に気がつくのであります。「どちらを選んでいいかわからない」などというと、パウロはいかにも優柔不断の人のように見えますが、そうではなくて、パウロは自分の願いというものを強烈に、はっきりと持っているからこそ、その自分の強固な願いとぶつかるものが出てきて、しばしばその選択に迷うのではないでしょうか。

 迷わない人は、自分の中になにもない人で、ただ時流にながされていくだけの人で、そういう人生でしかないので、それはつまらない人生なのではないでしょうか。どちらを選んだらいいか、大いに迷う人生の方が素晴らしいと思うのであります。