「福音にふさわしく」1章27−30節

 二九節を見ますと、パウロは「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけでなく、彼のために苦しむことをも賜っている」とピリピの教会の人々に言っております。「苦しむことも賜っている」というのです。

 「サラダ記念日」を書いた俵万智さんが、新聞のコラムに、自分が結婚する相手として、「この人となら苦労しないだろう、と思う人を選ぶか、この人となら苦労しようと思う人を選ぶか。自分は、後者を選ぶ」と書いておりました。

 なかなかいい事をいっているな、と思いましたが、しかし考えてみれば、「この人となら苦労しないだろうな」という事と、「この人となら苦労してもいい」という事は、言葉の上では、正反対のことをいっているようですが、しかし内容的には、それほど違いがあるわけではないと思います。

 というのは、「この人となら苦労しないだろう」という事は、この人となら、苦労も苦労でないだろうという事だからです。少なくも、この人となら苦労も苦労でなくなる、この人となら苦労も共にできるという思いにならないと、なかなか結婚するという気持ちにはなれないだろうと思います。

 この人となら、ただ苦労しないですむという事だけだったならば、苦労が来たときにいつでも逃げ出すことになるだろうと思います。

 パウロは、あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、彼のために苦しむことをも賜っているのだ、というのであります。

 パウロはローマ人への手紙(八章一七節)では、キリストによって救われた者は、神の子であるといって、「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために、苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」とも言っております。
 
 親は、子どもがまだ子どもである間は、子どもにあまり苦労はかけさせないものであります。経済上の問題が起こっても、それはできるだけ子どもには隠して、子どもが寝てしまってから、色々と夫婦の間だけで、話し合ったりするのです。

 しかし子どもが段々成長して、大人になったという事がわかると、子どもにも親の苦労を分かって貰おうとして、率直にその苦労を話し、一緒に考えて貰おうとするのです。

 そして親からそうした相談事を受けた時に、子どもの方でも始めて自分が大人になった、一人前になったと自覚できて、案外うれしいのではないかと思います。

 苦労を共にできるようになるという事は、始めて一人前に扱ってもらえたということだからであります。

 今ピリピの教会の人々は、パウロから「あなたがたはキリストのためにただ彼を信じることだけでなく、彼のために苦しむことも賜っている」といわれて、自分達も一人前に扱われたことを知ってうれしいのではないでしょうか。

 その人を信頼し、その人を本当に愛せるようになると言う事は、その人と共に一緒に苦労しようと言う気持ちになると言う事です。その人の苦労、
その人の苦しみならなんでも知りたいと思うようになることであります。

 われわれは確かに始めはイエス・キリストに自分の苦しみを解決していただこうとして、イエス・キリストを信じるようになったのです。しかしイエス・キリストを信じるという事が、イエス・キリストを愛するという事であることがわかりますと、イエス・キリストと共に苦労しようという気持ちになる、いや、ただそういう気持ちになるという事だけでなく、そういう覚悟ができるようになるという事であります。その時にわれわれの信仰も始めて、本物になるのではないでしょうか。一人前になるのではないでしょうか。

 そしてそれは神の方からいっても同じなのではないでしょうか。
 創世記に、アブラハムの甥でありますロトの住んでいた町、ソドムとゴモラの町が大変な悪の満ちた町になってしまったので、その町を滅ぼしてしまおうと神様の方で決めたという記事があります。

 その時、神様はこういってつぶやいたというのです。「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けることになるではないか。わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのだ」と言って、彼の甥が住んでいる町、ゴモラとソドムの町を滅ぼす事を彼にあらかじめ知らせておこうと考えたというのです。

 つまり神の方では、それだけアブラハムの将来を期待し、アブラハムが一人前になっていくことを望んでいたので、神のなさること、それはアブラハムにとっても大変つらい事なのですが、それをあらかじめ彼に知らせておこうとしたというのです。

 アブラハムはその事を神のみ使いを通して知らされると、アブラハムは必死になって、ロトの住んでいる町のためにとりなし、「その町に五十人の正しい人がいても、その正しい者を悪い者と一緒に滅ぼしてしまうのですかと」と、とりなし始めたというのです。

 神様の方でアブラハムのことを信頼するようになると、神様の苦労をアブラハムに打ち明け、共に苦労を担って貰おうとしたというのであります。

 だからここで、パウロは「彼のために苦しむことをも賜っている」と、「賜っている」と言って、まるで、何かいいものを貰うことのように言っているのであります。ここは新共同訳では「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」となっているのです。

 キリスト教で大事な事は、われわれにとって、神を信じるという事が、ただ信じるという事だけにとどまるのではなく、神を愛する事なのだということです。ある人を信じると言う事は、その人を愛する事なのだということです。そうしたら、当然、神様と一緒に苦労をしましょうという気持ちになっていくだろうと思います。

 人との関係で言えば、人から愛されるという事は、その人をこちらの方でも愛するようになるということです。ただこちらが受け身で、一方的に愛されるだけ、ということでなく、こちらもその人を愛したくなる。愛したくなってその人と苦労を共にしたくなる。そうすることによって、その人から愛される事が更に深くわかるようになるということです。

 神の愛、神から愛される事が深くわかるようになると、神を愛したくなる、そうする事によって、もっと深く神からの愛がわかるようになるということではないかと思います。

 キリストのために苦しむという事は、具体的にはどういう苦しみなんでしょうか。それはまず明らかな事は、宣教の苦労、伝道の苦労ということであります。三〇節をみますと、「あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を続けている」と言っているところからも分かるところです。
 
 パウロはコロサイ人への手紙(一章二四節)では「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」とまで言っているのです。

 しかし、伝道の苦しみと言われてしまいますと、それは牧師とか伝道者とか、あるいは教会の役員の担うべき苦しみであって、あまり自分達と関係がないと思うようになってしまうかもしれません。

 ここでパウロがいう「苦しむことをも賜っている」という時、その前の文章との関係からいいますと、ただ伝道の苦労ということだけに限定してしまわない方がいいような気がいたします。それはもちろん伝道の苦労ということも含みますが、それ以上にもっと広く、信仰生活をしていく上での苦労、苦しみのことをいっているようであります。

 それはこの箇所の冒頭の言葉が「あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい」という勧めの言葉になっている事から考えてみますと、これはただ伝道ということではなく、われわれが「福音にふさわしく」生活することによって、それがキリスト・イエスを証することになり、伝道にもなっていくということであります。

 ここでいう「ふさわしく」という字は、福音という値段にふさわしく、という字が使われているのだ、従って、これは福音という代価を払って買い取られた者にふさわしく、ということなのだ、と竹森満佐一が説明しております。

 それはパウロがほかの箇所で、「あなたがたは代価を払って買い取られたのだ、それだから、自分のからだをもって神の栄光をあらわしなさい」(第一コリント六章二〇節)という事を言っておりますが、それと同じ意味だというのであります。

 「代価を払って買い取られた」というのは、われわれはそれまでは、いわば奴隷だった、罪の奴隷だった、そういう奴隷状態のわれわれをキリストがご自分の命という代価を払って、奴隷からあがないだされたということであります。

 ですから、「福音にふさわしく生活する」という事は、キリストの命という代価を支払って救われた者らしく生きるということです。つまりもはや奴隷のような生き方をしない、自由人として生きるということです。

 律法というもの、律法主義というようなものに縛られるような生活、それがキリスト教でいう罪ということなのですが、そういう罪、つまりいつも自分の義とか正しさにこだわるような生き方をしないということです。

 解放された者らしく、伸び伸びとしたものを身体から発散させて生きるという事です。われわれクリスチャンがいつも何かに縛られていないかどうか、もう一度自分の生活を考えてみなくてはならないと思います。

 しかし、またわれわれはキリストという代価を払って解放されたのですから、つまり自分の力で自分の奴隷状態から自分を解放したわけではありませんから、いつも自分には主人がいるという生活をするということであります。

 マルチン・ルターが「キリスト者の自由」という本の中で、その冒頭に掲げた二つの命題は大切であります。一つは、「キリスト者はあらゆるものの中で最も自由な主であって、なにものにも隷属しない」という事です。もう一つの命題は「キリスト者はあらゆるものの中の最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している」という事です。

 これは何もマルチンールターが始めて言った言葉ではなく、聖書の中でパウロがいっている言葉です。パウロは「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ」(第一コリント七章二二―二三節)というのであります。

  「福音にふさわしく生活する」というのは、その人の生活のなかに、どこか自由なものが感じられるような生活でなければならない、そしてまたその生活のなかで、わがままな生活ではなく、どこか仕えるという姿勢が感じられる生活でなければならないということであります。具体的にどうしたらいいかは、人さまざまで、人の真似をする必要はないと思います。なにものにも捕らわれないで、しかもわがままでない生き方であります。

 「福音にふさわしく」なんていわれますと、いかにも、福音という型にはまった生活を連想するかも知れませんが、そうではないのです。

 パウロが言っておりますように、御霊の賜ものは種々あって、みな人によって違うのだということです。身体の肢体に、目や耳や、足や、手があるように、みな違うのだということです。しかも同じキリストという身体に属しているのだというのです。(第一コリント一二章一二−)

 それが「あなたがたは一つの霊によって堅く立ち、一つの心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い」という事であります。一つの霊一つの心になって、と言う事は同じ型にはまってということではなく、一つの神、ひとりのキリストにつながって、みなそれぞれがそれぞれの個性を発揮して、つまりそれぞれ違う働きをして、違ったタレントを発揮して、個性的に力を合わせて、戦うということであります。

 そうして、そのようにわれわれが福音にふさわしく自由に、しかもわがままでなく、なにものにも捕らわれないで、しかも神によってゆるされたものの謙虚さをもって生活することによって、そういうわれわれの生活ぶりをみて、敵対するものどもを狼狽させるようになるのだというのです。

 こちらが何か力を発揮して、相手を打ち倒すというような事ではないのです。こちらは、ただ福音にふさわしく生活しているだけなのです。そういうわれわれの生活の仕方をみて、相手が狼狽するだけなのです。

 時にはこちらが敗北するように見える時もあるかもしれない。しかしその負ける時にも、毅然として負ける、そうすることによって、かえって相手を狼狽させるのです。

 コリント人への第二の手紙六章三−一〇節のような生きかかです。「この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、難難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」

 キリストと共に苦労するということは、こういう苦労をするということであります。