「キリストの謙遜」2章1−11節


 パウロは分裂の危機をはらんでいるピリピの教会に対して、「何事も党派心や虚栄からするのではなく、へりくだった心をもって互いに人を自分よりも優れた者としなさい。おのおの自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」と、まずへりくだりの心、謙遜であることを勧めているのであります。そしてその謙遜は、イエス・キリストのへりくだりを学ぶことによって自分のものにすることができるというのです。
 「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」というのであります。

 それではイエス・キリストはどのように謙遜になられたのか、今日学びたいところであります。六節からそのキリストの謙遜のことが記されております。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」

 イエス・キリストは神の子でありましたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず人間になった、神の子である栄光を捨てて、人間になるためにこの地上におりてこられたというのであります。

 神の子が人間になった。しかしここは注意深く読みますと、すぐ「人間の姿になられた」と言われているのではなく、「僕のかたちをとり」ということがまず言われているところが大事だと、竹森満佐一が指摘しております。
 「僕のかたちをとられ、そうして人間になったのだ」そのことが大事なのだというのです。

 神の子が人間になったのだから、人間になってもどこか神の気品が残っているだろうとわれわれは思いたくなるのであります。だからイエス・キリストを描くとき、画家たちは、そのキリストに後光がさしているキリストを描きたくなるのです。あるいは、後光がさしていなくても、神の子が人間になられたのだから、その人間は人間の中でも最高に立派な人間になったのだろうとわれわれは想像するのではないでしょうか。

 しかし聖書はそうではないのだと言うのです。イエス・キリストが人間になられたのは、なによりも僕のかたちをとられたのだ、それがイエス・キリストが人間になられた姿なのだというのです。僕とは、奴隷のことです。奴隷ですから、身なりもきれいとはいえないだう。汚いかっこうだったろう、だからイエスは社会の底辺にいる人と同じような生活の仕方をなさったのだと想像するかもしれません。

 しかしそういう意味の「僕」という意味ではないのです、そういう意味での奴隷という事ではないのです。聖書によれば、イエスは大工の子として生活し、金持ちではありませんでしたが、そうかといって極貧の生活環境のなかで過ごされたわけではありません。ですから、僕のかたちをとり、という事で、この世で最低生活を送った人と考える必要はないと思います。


 僕のかたちをとり、ということは、奴隷のかたちをとり、ということで、奴隷というのは、主人がいるということで、主人に仕えるということで、つまり、イエスは「仕える」生活をするために、この世に誕生し、そうすることによって、人間の姿になられたのだという事です。
 だれに仕えるのか、何よりも神に仕えるのです、そうして人間に仕えるのであります。

 つまり「僕のかたち」をとりという事で聖書が言いたい事は「おのれをむなしうして」という事、「おのれを低くして」という事であり、そしてさらに大事なことは、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」と記されておりますように、「従順」という事です。
 ですから、キリストの謙遜という事は、それはキリストの従順であったと言
う事なのであります。

 パウロはここでピリピの教会の人に、始めは「へりくだった心をもって」と、へりくだりの心を勧めているのですが、それがキリストの謙遜について述べた後は、いつのまにか、謙遜という言葉はとこかに忘れてしまったかのように、従順ということを勧めるのであります。

 一二節から、「わたしの愛する者だちよ、そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」と、従順という事を勧めるのです。

 つまり謙遜になるためには、従順にならなければならないのであります。われわれは謙遜になれたらどんなにいいだろうなと思いますが、自分一人で謙遜になろうとしても、なかなかなれないのです。われわれは自分一人で謙遜になろうとしますと、謙遜ということは、少し控えめにすることだと考えてみたり、慎み深くすること、遠慮深く生きることだとしか考えないのです。

 そうしたことは人とつきあっていくという意味では、有効な手段だとは思いますが、しかし、それは結局は生活手段にすぎないのであって、「能ある鷹は爪を隠す」というような人をあざむくようなこと、そうまでいわないとしても、自分が結局は得をする手段としての謙遜にすぎないのです。

 本当に謙遜になるためには、従順という道をとらなければならないのであります。そして謙遜という場合には、ある意味では、何か抽象的観念的に終わってしまいかねませんが、従順となりますと、極めて具体的です。謙遜という場合には、自分の心のなかでそう思っていればいいという面がありますが、従順という場合には、そういうわけにはいかないで、具体的なものになる、具体的に誰かに仕えるという事になるのではないかと思います。そしてそれはわれわれが一番嫌うことではないでしょうか。

 謙遜という事は、慎み深さとか、遠慮深さということで、ある意味でかっこういい事かも知れませんが、従順となると、何か屈辱的ではないでしょうか。従順であるということは、具体的にある人に仕えることです。いわば、その人のいいなりになるという事であるかも知れない。そうすることによって、おのれを徹底的に捨てて、自分を低くして、おのれを空しくすることです。その時にわれわれは始めて具体的に謙遜になれるという事なのであります。

 これはわれわれが一番嫌っている道なのではないでしょうか。特に、われわれ日本人にとっては、かつて国家とか目上の人に対して従順であることが美徳とされて、それが奨励されて、ひどい目にあったという苦い経験がありますから、終戦後はもう従順ということは美徳ではなくなったのです。それだけ、われわれは謙遜でなくなり、慎み深くなくなったのです。

 しかし、われわれは自分ひとりで謙遜になることはできないことも確かだろうと思います。謙遜という事は、誰かに従順になるということであって、それを避けて、謙遜になることは出来ないと思います。

 問題は誰に対して、従順であるかという事であります。イエスは父なる神に従順であったのです。だから八節からみますと「しかも十字架の死にいたるまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わっち」と記されていて、イエスは神に従順であった事がわかります。

 そして七節をみますと「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、」とありますから、父なる神に従順になる事によって、われわれ人間に仕えたという事であります。

 ここで大事な事は、イエスが従順であられたのは、神に対してであって、人間に対して従順であったとは書かれていないという事です。

 われわれ人間に対しては、従順ではなく、「仕える」という姿勢をとられたという事です。神に対して従順であったが故に、われわれに人間に対しておのれを低くして、仕えたという事であります。

 従順ということと、仕えるということは似ているかも知れませんが、違うのではないでしょうか。従順ということは、その人を心から尊敬し、その人を愛して従っていくので、その人を全く信頼して従っていくことで、そうであるがゆえに、言葉は悪いですが、いわばその人のいいなりになるということ、その人のいいなりになってもいいと思って従って行くという事であります。

 しかし、仕えるということは必ずしも、その人のいいなりになるという事ではないと思います。その人を愛することなので、その人のためにならないと思ったら、その人に逆らう事もあるかも知れない、その人が一番幸福になることを望んで仕えるからであります。

 イエスは神に従順でありましたが、神には信頼して、神様のいわばいいなりになりましたが、われわれ人間のいいなりになったわけではないのです。神に従順に従って、その神の指示を受けて、人間のために徹底的に仕えようとなさったのであります。

 そしてイエス・キリストが神に対してどんなに従順であられたか、そしてそうであるが故に、われわれ人間に対してどんなにおのれを空しくして、僕のかたちをとり、おのれを低くされたかは、「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順であられた」ということでわかるというのであります。

 「十字架の死に至るまで、従順であられた」という事で考えておきたい事は、これが「おのれをむなしうして僕のかたち」をとることであり、「おのれを低くする」ということであったという事であります。

 われわれは十字架のことを今思う時、イエスがその十字架から三日後によみがえったこと、そしてそれがわれわれ人間にとって救いの根拠になったことから、十字架というと、なにか大変輝かしいこと、美しいこと、崇高な事だと考えてしまっていないか。そのために十字架は、女性の首飾りになったり、教会の会堂を飾る最も美しい形になってしまったのであります。

もちろんそうなつてはいけないということではないのです。十字架がわれわれの救いの根拠になったのですから、われわれはそれを誇りに思い、美しく飾りたくなるのは当然であります。しかしそうすることによって、イエスの十字架の一番大事なことが見失われてしまっていないかということなのです。

 今日では、もう十字架は屈辱の象徴ではなく、崇高な殉教者の象徴になってしまっているので、イエスの十字架の意味がわからなくなってしまっているのではないか。

 イエスの十字架の事を考えるときに、キリシタンの迫害の時に用いられた「踏み絵」のことを考えてみたらどうだろうかと思うのです。

 その人がクリスチャンであるかどうかを判断するために、キリストの像が描かれた絵を信者に踏ませて、それをどうしても踏めない者は信者だということで、処刑していったのであります。しかしそのようにして、処刑すればするほど、かえってそれは信者の信仰を鼓舞することになって、殉教者がふえていった。それで役人たちは、知恵を働かせて、その処刑の仕方をできるだけ屈辱的なものにし、残酷なものにして、そこになんの崇高さも発揮できないような処刑の仕方を次から次へと考案していったということであります。

 つまりその時には、踏み絵を踏まないで、殉教の死をとげるという事は信者にとっては、そしてそれは信者にとってだけでなく、それを見る一般の人々にとっても、崇高なことになっていたという事であります。

 そういう時にイエスだったらどうしただろうか。そういう時にイエスだったならば、信者として、そして人間としてもっとも屈辱的な道、踏み絵を踏んでいくという道をお取りになったのでから、キリシタン信者の疑いのある人は捕まえられて踏み絵を踏まされたわけです。ですから、その踏み絵を踏ますという事は、それによって信者かどうかを判別するということ以上に踏ますことによって、キリストを裏切らせるのです。その人を背教者にさせるという事だったのです。
 ですからそれを踏むという事は本当に屈辱的でつらい事だったと思います。

 誤解を招くいいかたになりますが、イエスがそれを踏んでいく、イエスが十字架につくということは、その踏み絵をふんでいくということだったのではないか。それを踏んでいく、イエスがあの十字架の死を迎えるということはそういうことだったのではないか。それは決して殉教者のもつ崇高さなどというものがみじんも感じられないことであった。

 辱められ、つばきされ、あれが神の子なのかとののしられて十字架の道を歩んでいくのですから、踏み絵を踏まないで、栄光の十字架で処刑される、そういう栄光に満ちた道を取らないで、踏み絵を踏んでいくことによって、むしろ背教者として、ののしられる道をお取りになったのではないか。

 しかもそれを神に従順に従いながら、踏み絵を踏んでいくという道をお取りになったのであります。

 それがゲッセマネの園でのイエスの苦渋の神への祈りだったのではないか。「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」という祈りだったのです。また、それがあの十字架の叫び「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びなのではないかということなのです。

 イエス・キリストが「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた、その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であられたという事はそういう事だったのではないか。

 なぜならイエスは、信仰を守り通して殉教の死を立派にとげた人の側に立とうとしたのではなく、それができないで、自分の弱さのためにキリストの絵が描かれている踏み絵を踏んでしまう、そういう人の側に立とうとして十字架についてくださったからであります。

 パウロは「わたしたちが弱かったころ、キリストは時にいたって、不信心な者たちのために死んでくださったのである。まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」と言っているのであります。

 もし十字架がただ殉教者の崇高さをあらわすものであったならば、それはもはや「わたしたちが弱かったとき、不信心なもののために、罪人であったとき」という言葉は意味を失ってしまうのであります。

 もちろん、踏み絵を踏まないで殉教の死をとげた人よりも踏み絵を踏んでしまった人の方が、信仰的に立派だったというような事を言いたいのではないのです。

 あの時のイエス・キリストの十字架の死にいたるまでの従順を考えてみたら、踏み絵を踏んでしまう道の方が十字架の意味をよりよくあらわすのではないかと言いたいだけなのです。それほどそれはイエスにとって辛い事であった、自分が十字架につくことはサタンに勝利を与えることになるのではないかと思い悩んだことだった、だからイエスはあのゲッセマネの園であんなに悩んだのではないか。

 それはいわば背教者の道を歩むことになるのではないかと思い悩んだのであれをむなしくして、低くして、人間に仕え、僕になろうとしたという事なのであります。

 われわれの傲慢さが打ち砕かれ、われわれの罪が救われるためには、このキリストのへりくだりの愛がなければならなかったのであります。われわれが本当に謙遜になろうと思ったら、このキリストの謙遜な愛によって救われなければならないのです。われわれがただキリストの謙遜を真似しようとしたって、それはできることではないのです。

 なによりもわれわれは、キリストに救われなければならない。このようにして神に徹底的に従順に従い、そうであるがゆえに、おのれを空しくしておのれを低くして、われわれに仕えて、われわれ罪人の立場に立ってくださったキリストに救われなければならないのであります。そして、そのキリストに対して、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆる者とともに、ひざをかがめて「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に捧げなくてはならないのです。その時にわれわれは謙遜になることができるのではないでしょうか。