傷のない神の子となるために」2章12−18節


 パウロはピリピの教会の人々に対して、従順でいて、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい、と勧めます。そして一五節には、その事を言葉を変えて、それは「あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な時代の中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」というのであります。

 今のわれわれにとって、少し気恥ずかしくなるような事を言うのです。今のわれわれといいましたが、考えてみれば、ピリピの教会の人々にとっても同じかも知れません。すぐ少し前には、何事も党派心や虚栄からするのではなく、人を自分よりも優れた者としなさい、とか、おのおの自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさいとか、まるで小学校の先生が生徒に語るような事を言われているピリピの教会の人々なのであります。

 党派心や虚栄がはびこっている教会、有力な信徒どうしがいがみあっているような教会に対して、「曲がった邪悪な時代の中にあって、傷のない神の子となる」とか「彼らの間で星のようにこの世に輝いている」とかパウロは言っているのであります。それだけパウロはなんとかして、ピリピの教会の人々に純真な信仰をもってもらいたい、そして救われたいとの願いが深かったのかも知れないと思います。

 それでは「傷のない神の子」となるためにはどうしたらよいかと言う事であります。一四節をみますと、意外に平凡な事が言われているのです。それは「すべてのことを、つぶやかず、疑わないで」というのです。そのようにしたら、純真で傷のない神の子になる、といわんばかりなのであります。

 もちろん、それだけで傷のない神の子になれるわけではないと思いますが、その後をみますと、「いのちの言葉を堅く持って」と書いてあったりもしますので、「つぶやかず、疑わなければ」それだけで神の子になれるわけではありませんが、しかし、責められるところのない純真な傷のない神の子になるためには、少なくともその「つぶやかず、疑わないで」という事は、大事な要素であるこということは言えそうであります。

 「つぶやいてはいけない」という事は、旧約聖書では大変重要なことになっているのであります。パウロはコリントの教会の人々に対しても、「つぶやいてはならない」と言っております。その時、パウロは旧約聖書を例に持ち出すのです。つぶやいた者は、死の使いに滅ぼされたというのです。

 それはどういう事かといいますと、イスラエルの民があの奴隷の民としてエジプトで酷い目にあっていた状態から抜け出して、砂漠を通ってカナンの地に帰る途中の出来事です。
 イスラエルの民はモーセという指導者を与えられて、そのモーセに導かれてエジプトを脱出できたのですが、その途中で、モーセとその兄弟アロンという二人の指導者に対して不満が起こったのです。あなたがたが何故われわれの上に立つのか、「あなたがたは分を越えている」と逆らったのです。

 それは神の非常な怒りを受けた。神がイスラエルのために選んだモーセという指導者に
よって、あの苦しいエジプトから脱出できたのに、そのモーセに対して、「分を越えている」と言い出すのは何事かというわけで、そのようにモーセに逆らった人々が神の裁きにあって殺されてしまうのであります。

 モーセに逆らったのは、コラという一族とそのつかさたちです。一般の民衆が逆らったわけではなく、いわば一種の権力闘争のようなものだったのですが、それが神の激しい怒りを引き起こし、神に裁かれて、コラの一族の立っていた地面が裂けて、彼らを生きたままのみつくして、彼らを生きながら陰府に降らせたというのです。

 その他にこのコラと一緒に徒党を組んだ二百五十人の者も火で焼き尽くされたというのです。その後、今度はイスラエルの民衆がこれを見て、非常に恐れ、モーセに「あなたがたは主の民を殺した」と言って、つぶやいたというのです。ここに「つぶやき」がでてくるのです。

 それはまた神の怒りをかい、そのために民の中に疫病が蔓延して、この疫病によって死んだ者が一万四千七百人あったというのです。

 パウロがいう、「つぶやいたために、死の使いに殺されたものは」という、死の使いとは、この疫病のことであります。(第一コリントー○章一〇節・民数記一六章)

 これはもちろん古代の話ですから、地震とか、あるいは疫病が流行して多くの死者が出た事があって、それをもとにこういう話が伝えられていったのだと思いますが、それにしても「つぶやいた」ために、多くの人が裁かれていったというのです。つぶやきはこれだけ神の裁きを受ける重大な罪だというわけであります。

もう一つ旧約聖書のなかで「つぶやき」についてとりあけているところがあります。それはやはりイスラエルの民がモーセに導かれて、砂漠を通っている時です。その砂漠の中で民は食べるものに不自由するようになった。そうすると民はつぶやきだしたというのです。

 民はモーセたちにこう言ってつぶやいた。「われわれはエジプトの地で、肉なべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導きだして、全会衆を餓死させようとしている」と言ってつぶやくのです。それを聞いてモーセは怒る。「いったいわれわれは何者か。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってです。(出エジプトー六章)

 彼らは直接主なる神に訴えたわけではないのです。祈ったわけではないのです。つぶやいたのです。

 つぶやきと訴えと、あるいは、つぶやきと祈りとどう違うのか。訴えるとか祈りというのは、いわば自分の全存在を賭けているところがあります。つまり自分の責任を賭けているのです。
 それに対して、つぶやきはそういうところがない。ぶつぶつ不平を言っている。しかも独り言のようでいて、その独り言を相手に聞いてもらうようにして言うわけで、ある意味では、大変無責任な卑怯な訴えであります。

 しかしこの時、神はこの民のつぶやきを聞いてくださいました。夕方にはうずらという鳥が飛んできて、それが彼らの食糧になり、朝には、マナという不思議なパンが荒野に降りて来たいうのであります。

 そして面白いのは、そのマナの集め方に対して神が言われた事です。「あなたがたはおのおのその食べるところに従ってそれを集め、あなたがたの人数に従ってそれを集めな
さい」と言われるのです。「それで人々が集めると、多く集めたものもあり、少なく集めた者もあったが、それを食べる時には、多く集めた者にも余らず、少なく集めた者にも不足しなかった。おのおのその食べるところに従って集めていた」というのです。

 つまりそれはその人の必要に応じて集められた。肥った人にはそれだけ多く、痩せている人にはそれだけ少なく集められ、食欲が満たされたというのです。そしてそれは翌日分まで取って置く事はゆるされなかった。欲張って翌日分までとっておこうとすると、それは太陽があたると溶けてしまって保存ができなかったというのです。それはその日その日の分しかとることがゆるされなかったというのであります。

 そして後に、このマナの事を取り上げて、申命記ではこういうのであります。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがたがその命令を守るかどうかを知るためであった。

 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。

 人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」と説明するのです。

 神は人々を飢えたまま放っておいて、「人はパンだけで生きず」と言われたのではなく、ちゃんとパンを与えて「人はパンだけで生きるのでない、神の恵みによって生きるのだ」と示されたのです。パンを通して、神の恵みを受け取れと言われたのです。だからわれわれは食前の祈りをして、パンを神に感謝するようになったのであります。

 ここでは神は人々のつぶやきに対して、そのつぶやきに応えてくださいました。あのコラとその処置につぶやいた民に対しては、神はいきなり厳しく断罪しましたが、ここでは、その「おなかがすいた、おなかがすいた」というつぶやきに対しては、それをしりぞけないで、そのつぶやきを聞きとどけてくれたのであります。

 ここではつぶやきに対して、裁きではなく、恵みを与えたのです。しかしそれは、ただの恵みではなかった。その恵みを信じ切れないで、人間的な欲の突っ張りで、二日分にして蓄えておこうとすると神からひどくしかられた、裁かれた、そういう恵みであったと言うことであります。

 つぶやきはどこから起こるかということであります。それは神を信じ切ろうとしない事から起こるのだということです。そういうわれわれのつぶやきに対して神はある時は厳しく裁いて、そのつぶやきを黙らせて、神を信じさせようとし、またある時にはそのつぶやきに恵みをもって応じてくださり、神を信じなさい、とわれわれを導くのであります。

 パウロがピリピの教会の人々に対して、「神の子になるために」と言われたもう一つの事は、「疑わないで」という事であります。この「疑い」という聖書の言葉の元のギリシャ語は、「対話する」という言葉だとある人が指摘しています。つまり、英語のダイアログという言葉の元になっている言葉です。

 疑うというのは、対話するという事なのです。誰と対話するのか。神と対話するのならば、いいのですが、疑う場合は自分と対話するのわけです。もう一人の自分と対話する。お前は信じようとするけれど、本当に大丈夫なのかともう一人の自分が語りかけてくる、そこに疑いと言う事が始まるということなのです。

 神と対話するのではなく、ただ自分と対話するだけで終わってしまう、それが疑いということなのです。自分という狭い穴の中をうろうろと動きまわっているだけで終わってしまうのであります。

 パウロは、「すべてのことをつぶやかず、疑わないで」しなさい、そうすれば神の子になるのだというのであります。われわれが神の子になるのは、どこか山の中の修道院にでも入って、瞑想的な生活をして、神を体験する、そうして神の子になるのかというと、そんな事ではないのです。

 曲がった邪悪な時代のかだ中にあって、というのですから、その曲がった邪悪な中から逃避してはいけないというのです。その中にあって、つぶやかずに、疑わないで、つまりその中で、神を信じていきなさい、そうしたら神の子になるのだというのであります。

 神の子になるなんてことは、とても気恥ずかしいし、大変難しいことのように感じて、とてもこんな言葉は使う気になれないことですが、しかし別に難しいことでないかも知れません。
 われわれの中で、始終ふつふつとわいてくるつぶやきと疑いを、その都度その都度、それが起こってきたら、それを投げ捨てて、神を信じる方に身を翻していけばいいだけなのです。

 われわれはつぶやきとか、疑いが自分の心の中に生じること、その事自体を根絶するなんてことはできないと思います。しかし出てきたものを投げ捨てる事、投げ捨てる決断はできると思います。そうしたら神の子になるというのであります。

 どういう神の子になるのか。「責められるところのない、純真で、傷のない神の子」になるというのです。責められるところのない、というのは、人に責められるところのないということではないのです。神の子になるということですから、神に責められるところのないということであります。

 パウロがコリント人への第二の手紙六章で言っているように、「ほめられてもそしられても、悪評を受けても、好評をはくしても、神の僕として自分をいいあらわしている」と言うように、人からは誤解を受けるかもしれない、非難されるかもしれない、しかし神には責められないということであります。なぜならとにもかくにも神を信頼して生きているからであります。

 「純真な者」というのは、ふた心をもたないという事、一つのことだけを求めるという意味で、純真であるという事であります。イエスが「心の清い者は神を見る」(マタイ福音書五章八節)と言われた、あの清い者ということです。それはもともとの意味は、単純ということ、一つの心という意味であります。

 傷のない神の子、という表現も本当は少しおかしな表現だと思います。神の子というのが、もし、これを天使のような存在と考えたら、傷のある天使などというのは考えられないわけで、おかしいと思います。

 ここでは天使のような意味での神の子ではないと思います。傷のない、とわざわざここでいっているのは、あの神様にはん祭として捧げる小羊のことをここでは考えられているのであります。
 
 ここでいう神の子というのは、天使のような意味での神の子ではなく、神に捧げる小羊のことです。神にはん祭として捧げる小羊は傷があってはならないのであります。

 そう考えたら、神がお喜びになるはん祭の小羊はどういう小羊かということを考えなくてはならないと思います。
 
 「神が喜ばれるはんさいの動物、いけにえは砕けた魂です」という詩編の言葉(五一篇一七節)にあるように、そのはん祭の小羊とは砕けた魂のことであることがわかります。

 傷のない神の子とは、完全無欠という意味の欠点がないという意味ではなく、自分は不完全であることを良く知っている、だからいつも砕けた悔いた魂をもって、自分を神に捧げようとしている、そういう神の子になるということなのではないかと思います。

 それならばわれわれにもできることではないでしょうか。われわれもこの礼拝において、悔いた砕けた心を神に捧げていれば、そしてつぶやきと疑いを捨てて、神の恵みを信じていけば、傷のない神の子になれるので そしてそのようにして、神の恵みを信じて、いのちの言葉を堅く持っていけば、星のようにこの世にあって輝くことができるというのであります。

 星のように、などといわれますと、これも気恥ずかしいことでありますが、しかし考えて見れば、星は、星自体が輝きを発揮しているわけではなく、ただ太陽の光を反映させているだけだとすれば、これもパウロがいうように、神の宝をわれわれの脆い土の器にもればいいということで、そうする事によって測り知れない力は神のものであることを証していけばいいということが分かるのであります。(コリント人への第二の手紙四章七節)