「神の霊に導かれて」 ローマ書八章一ー一一節

 八章の一節をみますと、「従って、今やキリスト・イエスに結ばれている者は罪に定められれることはない」とパウロは言います。口語訳では、「こういうわけで」と訳されております。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはない」というのです。つまり、この一句をパウロは今まで述べてきたことの結論のようにしていうのであります。

 「罪に定められる」という言葉はもうひとつはっきりしないと思います。ある翻訳では、「有罪の宣告を受けない」と訳されております。あるいは、「断罪されない」という訳もあります。この字はあまり聖書には使われていないのです。
 
 ここで大事なことは、イエス・キリストに結ばれている者はもう罪がなくなったとか、罪を犯さないようになったとか言われているのではないということであります。

 つまり、われわれはクリスチャンになったからといっても、救われたと言っても、罪を犯さなくなったわけではない、従って、われわれにとって、自分の罪が絶えず告発されている現状は変わりないのです。

 だれがわたしの罪を告発するのでしょうか。それは神ではないのです。サタンかもしれない。なによりも、自分自身でしょう。自分の良心でしょう。われわれはいつも自分から告発を受けて苦しんだり、悩んだりしているのであります。

 しかし、どんなに他の人から、自分の良心から罪の告発を受けても神は、神様だけは、もうわたしの罪を告発しない、キリストは告発しない、もうわれわれを有罪にしないというのです。
 それどころか、もしだれかがわたしを有罪にするものがあったら、キリストがとりなしてくれる、キリストみずからわたしの罪を弁明してくれるというのであります。

 それをパウロはこのローマの信徒への手紙の八章の最後に、別の言葉に言い換えて「どんなものも、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」というのであります。
 それが、この八章の一節で記されている「今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められない」ということであります。

それは詩篇の二三篇のなかで、口語訳でいいますが、「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」というあの有名な詩篇ですが、そのなかで、「たといわたしは死の陰の谷を歩むともわざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからだ」と歌い、その後「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油を注がれる」と続くのであります。敵は目の前にいる、周りにいるのです。しかし敵はもはや自分のテントに入ってこないというのです。

 「今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められない」ということはそういうことであります。自分の罪がなくなるわけでもないし、罪を犯さなくなるわけでもなく、また罰を全く免除されるわけでもないかもしれません。

 自分の部下の奥さんを奪い、その部下を卑劣な手段で殺したという大罪を犯したダビデは、自分の罪を告白したあと、罪は赦されましたが、自分の子供が病気で死ぬという罰は免除されないのであります。

 普通われわれは罪が赦されるということは、罰が免除されることだと考えるのです。しかしダビデの場合はそうでなかったのです。ダビデは必死に我が子の死を免れさせてくださいと神に祈りましたが、その子供は死んでしまうのであります。そしてダビデは最後にはその我が子の死を受け入れるのであります。つまり、神の罰を受け入れるのであります。

 ここを読むときにいつもわたしは不思議に思うのです。ここでは罪が赦されるということは、ただちに罰が免除されるということにはならないということなのです。そしてそれはひとつも矛盾しないこととして書かれているのであります。

変ないいかたかもしれませんが、罰を受けても、罪が赦されたという事実には変わりはないということであります。罪が赦されたという恵みは色あせないのだということなのです。それほどに罪が赦されたということは大きなことだということなのです。

 罪に定められないというこは、われわれが罪の支配下にもういないで、神の支配のもとに移されたということであります。だから罰を受けても、裁きをうけても、それは神の支配下のもとで罰を受けることであるし、裁きを受けることなのであります。
 それならば、たとえ、地獄に落とされることがあっても、キリストと一緒に地獄に落とされるのであるならば、安心だ、心配することはないということであります。

われわれはクリスチャンになっても、いろいろな苦しみに遭うと思います。クリスチャンになっても、自分の弱さとか自分の罪に悩まされるかもしれません。そういう苦しみはなくらないと思います。しかしそうしたどんな苦しみがあっても、神の愛から切り離されない、神はわれわれを見捨てない、それが罪の赦しということなのであって、われわれは安心していいということなのです。

罪の問題をずっと語って来て、パウロはここで結論のように、口語訳でいいますと、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」というのであります。これは考えてみれば大変不思議であります。罪の問題の解決をいうのならば、こうして罪を取り除きなさい、罪をこのようにして克服しなさいと指示して、罪の問題を解決しようとするのが本当ではないでしょか。

 しかしここでは、そういうことは言わないで、「こういうわけで、今や、罪に定められることはない」というのであります。

 しかし考えて見れば、罪の問題に苦しんでいる人に対して、その罪を克服する一番の道は、あなたはどんなことがあっても、あなたは罪に定められることはない、地獄にいくことはない、いや地獄にいっても少しも心配することはないと宣言されることなのではないでしょうか。このことくらい慰め深いことはないし、われわれに罪と戦う力を与えてくれることはないのではないかと思います。

 それはちょうど、病気で苦しんでいる人に対して、医者がいきなり、「大丈夫だ、あなたはこの病気で死ぬことはない」と断言するようなものであるかもしれません。いや、もっと極端に言えば、イエス・キリストという名医は、「大丈夫だ、あなたは死んでも大丈夫だ、あなたは死んでも生き返るのだ」と宣言するのであります。

 それをパウロは、十一節でいうのです。「もし、イエスを死者に中から復活させたかたの霊が、あなたがたのうちに宿っているなら、キリストを死者の中から復活させたかたは、あなたがたのうちに宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体を生かしてくださる」というのです。

 医者のすることは、ある意味では、すべて対処療法であるかもしれません。個々の病気に対して、こういう療法、この痛みにはこの注射と、対処していくわけです。それに対して聖書は、根元的ないやしをいうのだといってもいいかもしれません。「あなたは罪に定められることはない、地獄に落とされない」と宣言する、あるいは「あなたは死なない、いや死んでも生かされる」とまず宣言するのであります。

 それをまず聞かされる、そうしてわれわれは始めて、罪から解放される、いや罪に対処できるようになるのではないでしょうか。罪がわれわれを脅かす不安から解放されるからであります。もっと正しくいうならば、悪魔が死をもってわれわれを脅かす不安から解放されるからであります。

 われわれは不安とかおびえの中で何かの問題を解決しようとする時は必ず失敗してしまうものであります。不安とかおびえの中にいたら、われわれは物事を正確に把握できない、過剰に反応してしまうからであります。したがってその解決方法も過剰な方法を選んでしまうかもしれません。まして不安とおびえの中で、自分の罪と戦うとすると、われわれは必ず失敗すると思います。ユダが自殺したように自殺してしまうかもしれません。それでは罪の解決にはならないのです。

 ですから、この八章の一節の言葉は大変大事な宣言であります。まず「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはない」という宣言を聞かされるのであります。ここには、どういう人が罪に定められないのかということはいっさい書かれていないのです。

 もう罪を犯さないようになった人、一生懸命精進努力している人、人を愛せるようになった人とか、そういう条件はいっさいつけられていない。ただ一つ、「今や、キリスト・イエスにある者は」という条件がつけられているだけであります。

 そうしてその後「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからである」と続きます。

 この八章からは、霊の導きということが前面にでてまいります。霊とは何かということですが、霊ということ、聖霊というのは、われわれには一番わかりにくいことだと思います。いろん言い方ができるかもしれませんが、神の見えない働きといってもいいと思います。もっと簡潔に、神の導きといってもいいと思います。

 ローマの信徒への手紙を読んでいて、とても不思議に思うことは、五章の前半までは、信仰という言葉が前面にでてきます。われわれは律法のわざ、つまりわれわれの善行によって救われるのではない、信仰によって義とされる、信仰によって救われるのだと言ってきたのです。しかし五章の後半からは、その信仰という言葉は姿を決してしまうのです。そして神の恵みの導きという言葉がでてきます、そしてこの八章にきて、もっとはっきりと、霊の導きによって救われるのだといわれるのです。

 もうすっかり、信仰という言葉は姿を決してしまうのであります。つまり、われわれが救われるのは、信仰なんかではない、神が導いてくださる霊の導きなのだということなのです。われわれは信仰というと、すぐ自分の信仰、わたしの信仰というように、自分の信仰の自覚とかわたしの信仰の意識というこばかりに捕らわれてしまう、そうしては救いというものがあやふやになったり、なにかやたらに信仰復興運動とかといって、自分を駆り立てようとするのではないか。そんなあやふやな信仰なんかによって救われるのではないのです。

 少し誤解を招くかもしれませんが、わたしの信仰あったってなくたって、
そんなことはどうでもいいことなのです。わたしの信仰によって救われるのではないのです。神の与えくださる霊の導きによって救われるのであります。
 
 そのように八章からは、霊が前面に出て来ます。今までは、律法がわれわれを導こうとしていた。しかし律法はわれわれの肉のしわざ、つまり罪のしわざのためにわれわれを無力にしてしまった。いや、無力どころか律法はわれわれをただ断罪し、そんな状態では地獄にいくぞと脅かすだけの働きしかしなくなってしまった。律法が前面に顔をだす限りは、われわれは生きることはできなくなってしまったのであります。

その律法の代わりに御霊がわれわれを導き、われわれを支配することになったのであります。信仰ではなく、御霊なのです。律法はわれわれを死へと脅かす死の律法になってしまいましたが、霊はここでは「いのちの霊」の法則といわれるように、「いのち」という言葉がつくのであります。

 ただ罪からの解放とか、死からの解放といわないで、罪と死の法則からの解放、といっていることに注目したいのです。問題はそういう「法則」からの解放なのです。

 つまり、繰り返すようですが、われわれが罪を犯さなくなるとか、そういうことではないのです。罪と死の法則から解放されるのです。罪を犯すと、われわれがもう自動的に自分をいじめ、自分をうなだれさせ、もうおまえは地獄ゆきだと死によってもってわれわれはおびやかされる、そういう罪と死との法則、そこから自由にされるのであります。

 ですから、われわれはクリスチャンになりますと、時には、なにか必要以上に罪に対して神経過敏になり、神経症的に罪に敏感になり、毎日日記に今日一日のことを反省し、今日はあやまちをしてしまった、あの人のことを恨んでしまったとか、そんなことばかり、重箱の隅をつつくようにして罪のことを思ってしまうようになるかもしれません。

 そういう罪の法則から解放されるということなのです。もっとおおらかな神の霊の、いのちの霊の導きに生きるようになったということであります。

 三節をみますと、パウロはこう記します。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださった。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」というのです。これも大変むずかしい表現であります。

 御子イエスが罪の肉の様でこの世に来た、ということは、イエスがわれわれと同じ肉の弱さのなかで生きたということであります。われわれと同じこの世の誘惑に会い、われわれと同じ試練を味わったということであります。

 イエスが荒野で誘惑されたということはそういうことでしょう。四十日の断食のあと、飢えの中で「この石に命じてパンしてはどうか」と誘惑された。飢えのなかでは、われわれはもうただがむしゃらにパンだけを求めるという生活しかできないわけですが、しかしイエスはそのなかでも「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きるのである」と言われて、神に従う生き方を示してくださった。

 われわれは奇跡が欲しいという肉の弱さをもっております。しかしイエスは、神殿の高いところから飛び降りるというような、神を試みるというような奇跡を求めなかった。ただ主のみを信頼して生きた。

 あるいは、この世の権力とか富に従う道を拒み、ただ主のみに仕える道を選んだ。これか御子が肉の様で罪のために遣わされた、ということであります。

 そのようにしてこの世に生きたということであります。その肉のなかで、神に従う道をイエスは歩まれたということであります。それが律法が肉により無力になっているために成しえなかったことをイエスがなしとげてくださったということであります。

 肉の弱さのなかでも、われわれは神に信頼し、神に従うことができるではないかと、イエスは身をもって生きてくださったということであります。

そして肉において罪を罰せられたということはどういうことでしょうか。これはもちろん十字架のことを言っております。イエスの十字架とはなんでしょうか。それは大の大人が一人の赤子をひねりつぶすということだったのではないか。罪のないイエス、ただひたすら神に従って生きたイエスを祭司長、長老、律法学者、ファリサイ派の人たちが、よってたかって時の権力者ローマの総督ビラとを利用してイエスを処刑したということであります。

 罪のない赤子を大の大人がいじめている光景を想像してください。そこで明らかにされることは、大の大人の罪の姿ではないでしょうか。

 イエスはひたすら黙々と神に従って十字架の道を歩んでいき、処刑された。権力者たちは自分たちの自我をむき出しにしてこの罪のないイエスを抹殺した。どちらが裁かれたのか。どちらが罰せられたか。それはもうあきらであります。

 イエスが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて死んでいったとき、ひとりのローマの百卒長はその有様をみて、「まことにこの人は神の子であった」と告白しているのであります。イエスがわれわれ人間の罪を背負って罰を受けてくださったことによって、本当に裁かれたのはわれわれ人間であったのであります。

イエスが肉の姿をとってこの地上に来て、そしてひたすら神に従って歩むことによって、自分の義を主張してやまない肉という人間の姿が罰せられたのであります。

 それはパウロがその後、四節で「これは律法の要求が肉によらず、霊によって歩むわたしたちにおいて、満たされるためである」ということであります。

 律法の要求、本来そもそもの律法の要求とは、ひとことで言えば、イエスのように肉のなかで神のみこころに従って歩んでいくということなのです。それが肉によらず霊によって歩んだイエスにおいて実現したのであります。

 「霊によって歩む」ということは、神秘的になって歩むということではなく、この地上で、人間として神に助けをもとめながら、神に祈りながら、神の御心を信じて歩むということであります。キリスト・イエスにある者は罪に定められることはないと信じて、心を高くして、そして心を豊かにして歩むということであります。