「愛は律法を全うする」 ローマ書一三章八ー一○節


 「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはならない」と勧められています。これは原文をみますと、まず、「誰に対しても借りがってあってはならない」という言葉があって、そして次に「互いに愛し合うほかは」となっております。

 ですから、ここはその前の七節で「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢ぎを納める人には貢ぎを納め、税を納めるべき人には税を納め」ということを受けて、そういう金銭的な借りがある場合には、その借りを返しなさい、という勧めの言葉に続いて、しかし、「互いに愛し合う」ということだけは別だという流れになっているのかもしれません。

 われわれは金銭的な借りがあるのは、いやなものであります。すぐ返したくなるし、また返さなくてはならないと思うものであります。しかし、愛という借金だけは別だというのです。「愛」という借金だけは、別だというのです。

 これは「愛」という借金は、どんなに努力したって、返しきれるものではないという意味でもあるし、また愛に関しては、借りたままでいいのだ、それを完全に返済しようとするなということであるかもしれません。

 愛は返しきれるものではないのです。そのことを知ること、そのことを常に自覚しておくことがむしろ大事なのではないかと思うのです。われわれはそういう意味では、愛という負い目をもって生きているのです。それがわれわれを本当に謙遜にさせるのではないか。

 われわれはあの十字架において示された神の愛に対して、それをすべて返済できないのです。返済する必要もないし、返済できるんだと思うことがむしろ傲慢なことであります。

 賛美歌の三三二番を歌うときに、わたしはなにか嫌だなと思うのです。それはその歌詞がこうなっているからなのです。「主はいのちを あたえませり 主は血潮をながしませり、その死によりてぞ われは生きぬ。 われ何をなして 主に報いし」となっているのです。この「われは何をして主に報いし」というところを歌うときに、なにかとまどいと、嫌なものを感じてしまうのです。

 二節はこうなっています。「主は御父のもとはなれ、わびしき世に住みたまえり、かくもわがために さかえをすつ。われは主のために なにをすてし」となっていて、さらに嫌な感じを与えのです。

 そんなことをいわれたって、われわれは主の十字架の愛に、なにかをして報いるなんてことはできるはずはないし、何かを捨てるなんてこともできるはずはないと、思ってしまうのです。

 しかし、三節になりますと、この賛美歌は「主はゆるしと 慈しみと 救いをもて くだりませり。 ゆかたけきたまもの 身にぞあまる、ただ身とたまとを
 ささげまつらん」となっていて、ここにきて、この賛美歌は、われわれは主の十字架の愛に応えることなどできない、ただわが身とたまとを献げることだけだとなっていて、ほっとするのです。それはこのローマの信徒への手紙の十二章の冒頭の言葉、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧める。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえをとしてささげなさい」という言葉に通じるものがあるからであります。

 ただこの賛美歌の印象は、これはわたしだけの感じかもしれませんが、全体として、主の十字架の愛になにかわれわれは応えなくてはならない、応えなくてはならないという圧迫感を感じてしまうのです。

 われわれは主の十字架の前には、それに対してなにか借金を返さなくてはならない、返さなくてはならないという焦燥感に捕らわれるよりは、主の十字架の愛には、われわれはもう黙って、その恩恵によくするほうがいいのではないか。

 愛というのは、いつも負い目として、それは返すことができない負い目、従って、それは返さなくてもいい負い目、かえさなくてもいい借金として受け止めてもいいのではないか。むしろ、そのほうが正しいありかたではないか。

 そしてここでは、ここではただ「愛は」というのではなく、「互いに愛し合うことのほかは」といっていることにも注目して欲しいと思います。愛ということの本質は、互いに愛し合うというところにあるということであります。こちらがただ一方的に愛する愛は、愛の本質ではないのです。愛の本質は、互いに愛し合うところにあるということです。愛は必ず応答を求めるということです。

その応答としての愛は、借金を返すというような、応答ではないのです。それは感謝という応答であります。むしろ、受けた愛に対して、とてもお返しできない、借りを返すことができないというところから、もうただその愛を感謝という形でしか受け取る以外にない、という応答としての愛であります。

 われわれが何か贈り物をしたときに、ただちになにか品物でおくりかえされたら、興ざめしてしまうのではないか。そんなことよりも、電話でも、ハガキ一本でも、ありがとうという感謝の応答がうれしいのではないか。

クリスチャンは、ともすれば、いつも愛する側だけに立とうとするのではないか。自分が愛を受けることはいさぎよしとしないところがあるのではないか。そこにクリスチャンの傲慢さと偽善があるのではないか。われわれは自分が愛されることをも求め、愛されたときにそれを素直に受け止め、喜ぶという謙虚さが大事だと思います。

 主イエスがいわれたという言葉のなかに、「受けるよりは与えるほうが幸いである」という言葉がありますが、これはなぜか福音書にはなくて、使徒言行録のパウロが記憶している言葉としてのっておりますが、これをあまりに強調しすぎまして、与えることばかりに思いをもっていきますと、われわれはとても傲慢になってしまうのではないかと思うのです。やはり「受ける幸い、受ける喜び」というのもしっかりと知っておかなくてはらないと思います。

 大事なことは、ただ愛する立場に立つだけでなく、愛を受ける立場にも立つという「互いに愛し合う」ということであります。

 ヨハネ福音書の一五章に、イエスの言葉としてこういう言葉があります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。ここだけをみますと、自分の命を捨てるという一方的な自己犠牲的な愛が一番愛の本質だとおもわれがちですけれど、しかしここのはじめのイエスの薦めの言葉は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という言葉がまずあって、それに続いて「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とつづくのであります。そしてこの結びの薦めの言葉は「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と結ばれるのであります。

 ですから、愛の本質、愛の目的は、互いに愛し合うというところにあるのです。しかしその互いに愛し合うという愛を生み出すためには、愛する相手に対して、自分の命を捨てるほどに愛する、自己を犠牲にするほどに愛するという愛をもって愛さないと、互いに愛する愛は生まれてこないということであります。

 よくいわれることですけれど、神の愛はアガペーで、報いをもとめない自己犠牲的な一方的に愛する愛で、それに対して人間的な愛はエロースの愛であって、自分が愛されることを求める愛だというのです。これは間違ったわけかただと思うのです。
 
 復活の主イエスは、自分を三度否定したペテロに対して「お前はわたしを愛するか」と尋ねるのであります。三度にわたって、「わたしを愛するか」というのです。それは主イエスががペテロに対してどんなに愛を求めているかということであります。このように激しく愛の応答を求めないような愛は、愛ではないのです。

 主なる父なる神は、妬む神であります。残念ながら、新共同訳では、「熱情の神になってしまっていますが、もともとは、妬む神という訳が正しいのです。

 それはわたしの愛に応えて、お前もわたしだけを愛して欲しいという、激しく愛を求める神だということであります。

 主イエスは、律法のなかで一番大切な戒めは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということだといわれたのです。先手をうって、一方的にわれわれを愛してくださった神は、われわれに対して、その愛に応えて、お前達もわたしを心をつくし、精神をつくし、思いを尽くして、愛して欲しいと、愛の応答を求めるのであります。

 愛は必ず応答を求めます。応答を求めないで、ただ一方的に愛する側だけに立とうとする愛は、大変傲慢な愛、偽善的な愛であって、そんなものは愛ではなく、自己満足しているだけの自己愛であります。

 ただ「互いに愛し会う」ためには、どうしてもある時には、自分の命を捨ててまでして、自分を犠牲にしてまで、報いをもとめないで、相手を愛さなくてはならないときもある、そういう愛をもって相手を愛さないと、互いに愛し合う、という愛をうみだすことはできないということであります。

 「人を愛する者は律法を全うしている」といいます。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」と続きます。

 これはわれわれにいわゆる「富める青年の記事」を思いださせます。ひとりの富める青年がイエスに、「永遠の命を得るためにどんな善いことをしたらいいでしょうか」と尋ねてきたのであります。それに対して、主イエスは、「掟を守りなさい」といいます。青年は、どの掟ですか、と尋ねますと、主イエスは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」というのです。すると、青年は、「そういうことはみな守ってきました」と答えたというのです。まだ何か欠けているでしょうか」と尋ねますと、イエスは「もし完全になりたのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」といわれたのです。青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去ったというのです。

 この青年は、「殺すな、姦淫するな」から始まる律法をみな守ってきたというのです。「隣人を自分のように愛する」という律法すら守ってきたというのです。それに対して、主イエスは、それでもお前は完全に律法を守ったことにはならないといわれて、「もし完全になりたいのなら、お前のもっているものを売り払い、貧しい人に施しなさい」と言われたのであります。

 ここでは、この青年は、「隣人を自分のように愛する」という戒めまで、それを含めて、戒めはすべて守ってきましたと自負しているのです。それでも、主イエスはお前は完全に律法を守ったことにはならないといわれたのです。なぜなら、お前は自分の持ち物をすべて捨てていないからだ、自分を捨てていないからだ、自分を捨てて隣人を愛そうとしていないからだ、といわれたのであります。

 それはパウロが愛について語った言葉で、「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰をもっていても、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人に施してもまた、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」といった言葉を思いださせます。

 つまり、どんなに隣人を自分のように愛したとしても、そこに愛がなければ、無に等しいというのです。ここで言われている愛は、自分を捨てるという愛であります。友のために自分の命を捨てる、これ以上に大きな愛はない、といわれている愛であります。

 そういう愛が互いに愛する愛を生み出し、そういう愛が、律法を全うするのだというのです。

少し脱線しますけれど、ここには主イエスが十戒の後半をとりあげたときに、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をするな、の後に、父母を敬え」ととりあげております。先日の説教では、この「父母を敬え」は、十戒の前半、つまり「神を敬え」という戒めの具体的事例としてあるのだと説教しましたが、ここでは「殺すな」から始まる、われわれの社会生活の戒めの一つに取り上げられているのは、わたしが先週の説教でいったことと、矛盾するのではないかといわれそうであります。
 確かにそうかもしれませんが、イエスの時代には、この「父母を敬う」という戒めが、いつのまにか、われわれの社会生活のなかの戒めの一つとしてとして取り上げられるようになったということかもしれません。

 それにしても、その戒めは、十戒の順序にしたがって、「殺すな」という戒めの前におかれているのではなく、社会倫理の戒めの最後にとりあげられているということは、あるいは、十戒の前半の戒め、「神を敬う」という戒めを指し示す戒めとして取り上げられているとも考えられます。

 というのは、ここで主イエスは、律法のなかで一番大事だといわれた「主なる神を愛すること」をなぜかとりあげていないからであります。主イエスは、みずから、律法は、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に要約されるといっているのです。それなのに、ここでは、なぜ、十戒の前半をとりあげないで、後半だけをとりあげたのかが不思議といえば、不思議だからであります。

しかし、話の流れからすれば、イエスはこの青年に具体的に指示を与えるためには、十戒の後半をとりあげたほうがわかりやすかったということであるかもしれません。

 ここで、パウロは、「人を愛する者は、律法を全うしている」といいます。
 そうしますと、人を愛する者は、この「神のみを愛する」という十戒の前半の律法も全うしているということになってしまうのではないか。それでいいのだろうか。
 そうなりますと、なにも教会に行って、神を礼拝するということをしなくても、われわれが隣人愛に励めば、それはもう神を愛したことになる、ということにならないか。それでは人道主義、ヒューマニズムに陥らないか。

しかし単なるヒューマニズムの精神で、人を本当に愛することができるだろうか。
 ある説教者がこの「人を愛する者は、律法を全うする」という時の「人を愛する」という時の「人」という字は、一般的ないいかたではなく、「他の人を愛するものは」となっているというのです。単なる「人」ではなく、「他の人」という字が使われているのだというのです。つまり、「他の人」というのは、自分以外の人、自分とはちがっている自分以外の人ということが意味されているというのです。

 そして隣人を愛するといときにも、ただ隣人というのではなく、隣人とは、われわれの隣にいても、われわれとは全く違う人間であるということなのだというのです。「夫婦の場合でさえも、お互いに、自分とは全く違う人間であることを知らねば、正しい愛をもつことは難しいでしょう」と、その説教者はいっているのであります。

 自分とは違う他の人を愛するためには、自分を捨てなくてはできないことであります。それはつまり、自分に執着することをやめて、自分を絶対化することをやめて、神の前にひれ伏し、神を拝む、それなしには、真に他の人を愛することはできないということであります。それは単なるヒューマニズムの精神ではできないことではないか。

 ですから、「隣人を、本当の隣人として、その隣人を自分とは違う他の人として愛する」ときに、それは、神を敬うというあの十戒の前半の部分を守ろうとしない限り、それはできないことだし、そのように真に隣人を自分とは違う隣人として真に愛することができるならば、あの律法の前半の部分も満たしていることになるということであります。

 最後にパウロはこういうのです。「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです。」

 ここは口語訳聖書は「愛は隣り人に害を加えることはないとなっております。愛は隣り人を傷つけることはないというのです。
 このことで、竹森満佐一という説教者がこういっているのです。「隣り人に害を加えないとは、いかにも消極的なことのように見える」。そしてこういうのです。「他の人を愛するというのは、なにかをその人にすることでしょうか。どうかすると、われわれも人を愛するといって、その人に好意の押しつけをすることが多いのではないか。その人を自分の思うままにしたいと思うのではないか。もしかしたら、もっとも大切なことは、その人の自由を守り、立場を重んじ、尊敬し、害を加えないようにすることで、それが、真に愛するということであるかもしれない」といっているのです。