「律法と罪」 ローマ書七章七ー


 「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか」と、パウロは言います。それはそれまで律法のことをまるでわれわれをしばりつける暴君のような夫として言ってきたからであります。

 それで律法は罪なのかと自ら、問うのであります。それに対して、パウロは「決してそうではない」と答えます。なぜなら、一二節にありますように、それは神がわれわれが神に従って正しく生きるように、神が与えたものであり、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなの」だからであります。悪いのは罪だというのです。いや、悪いのは、われわれ人間なのであります。

 その後、パウロは罪と律法との関係について述べます。そして大変奇妙なことに、ここからパウロは「わたし」という一人称単数の言葉をこの七節から二五節までのところで、三八回使うのです。そうして、律法と罪との関係、律法と罪とわたしの関係について述べるのであります。

 この手紙は公の手紙ですが、パウロはここで自分の個人的な罪の告白をしようとするのではないと思いますが、罪の問題を語る時には、ただ一般的に抽象的に語るわけにはいかない、それはどうしてもある意味で「わたし」という言葉で告白的に語らずを得ないというところがあるのではないかと思います。

 「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったなら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしのうちに起こしました」といいます。

 ここで、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった」というところはその通りだと思いますが、しかしその後の律法についての言及、「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました」というところは、わかりにくいところではないかと思います。

 律法があることによって、われわれが何が罪で、何が罪でないかが明らかにされるということはよくわかります。しかし律法があるためにわれわれは罪を犯すようになったのだといわんばかりのことがここで言われているのであります。本当にそうだろうか、と思ってしまうのであります。 

 われわれは「むさぼるな」といわれたから、そう言われると、むさぼるようになるのでしょうか。なるほど、そういう種類の人間がいることはわれわれにもわかります。人間には、ひねくれ者もいますし、なんにでも反抗するタイプの人間がいるのもわかります。そういう人は「こうしてはいけない」と言われると、かえって反抗的になって、それをやらかすということはわかります。

 しかしすべての人がそうするだろうか。いや、大部分の人はもっと従順で、こうしてはいけない、と言われれば、そうしないのではないでしょうか。「この芝生に入るべからず」と書いてあれば、おそらく、大部分の人は芝生に入らないだろうと思います。

ここでパウロは律法の一つの例としてとりあげるのが、「むさぼるな」という律法をとりあげているということが大事だと思います。これは十戒の最後にある戒めであります。

 なぜ、パウロはこれを律法の代表的なものとしてとりあげるのでしょうか。たとえば、十戒のなかに「殺してはいけない」「姦淫してはいけない」「盗んではいけない」「偽証してはいけない」という戒めがあります。なぜ、その戒めをとりあげないで、「むさぼるな」という戒めをとりあげるのでしょうか。

 たとえば「殺すな」という戒めを聞いた人は、それを聞くことによって人を殺すようになる、その戒めによって挑発されてしまう、そういうことはあまりないと思います。しかし、「むさぼってはならない」という戒めを聞いた時はどうなのかということであります。

 「むさぼってはならない」ということはどういうことを戒めているのでしょうか。その前には、「盗んではいけない」という戒めがあります。何か同じことをいっているような気がいたします。

 ある人の説明では、盗むということは、具体的に盗んでしまうことだけど、むさぼるというのは、われわれの心の中の動きだと説明しております。

 ここで大事な事は、十戒では、むさぼりについては、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」といわれているという事であります。

 「盗んではいけない」という時には、ただ「盗んではいけない」と言われていますが、「むさぼるな」というときには、「隣人の家をむさぼってはならない」と言われているのであります。つまり、自分には家があるのです。奥さんもいる、牛もいる、それなのに、隣人の妻、牛を欲しがる、それはしてはならない、ということなのであります。

 盗むということは、場合によっては、もう食べるにも困って、せっぱ詰まって盗んでしまうということもあり得るのです。しかし「むさぼる」という罪は、自分は十分満ち足りている、それなのに、隣の家のものを欲しがるという罪であります。これはもっともいやしいわれわれの欲望であります。ここにわれわれの罪というものの本質が潜んでいるのではないかと思います。

 ダビデという王様が自分の部下の妻バテシバを奪い、その夫を卑劣な手段で殺してしまうという罪を犯して知らん顔しているときに、預言者ナタンがダビデ王のところにいって、こういう話をなにげなくするのであります。

 ある大金持のところにお客が来た。彼は自分の羊をほふってご馳走するのを惜しんで、隣の家の貧しい人の羊を盗んで、それをほふって客をもてなしたというのです。その貧しい人はそのたった一頭の羊を大切にし、かわいがり、夜寝る時も一緒に寝るほどにかわいがっていた。大金持はその隣の人が大事に大事にしているその羊を盗んで客をもてなした、という話をする。

 それを聞いたダビデ王は烈火のごとく怒って「そんな奴は処刑してしまえ」というのです。すると、預言者は「それはあなたのことです」と言う。「神はあなたに十二分の恵みを与え、あなたを豊かにした。それなのに、あなたは部下の妻を盗み」と、ダビデは糾弾されるのであります。それはまさにむさぼりの罪であります。

 つまり、むさぼりという罪はわれわれ人間の自己中心性をもっともするどくあらわにさせる罪なのであります。われわれのなかに根強く潜んでいる自分だけを幸福にしたいという欲望であります。

 われわれは確かに他人の幸福を望んでいるかもしれません。しかしその場合でも、その他の人が自分よりも幸福であっては困るのではないか。そうなったらたちまち妬むようになるのではないか。

 他人の不幸は蜜の味といわれているように、他人の幸福はあまりいい気はしないのです。もちろんわれわれは人が幸福になってほしいと望みます。しかし他人の幸福は、自分よりは少し不幸であって欲しいのです。他人の幸福を望むのは、自分ひとりだけ幸福では、居心地が悪いから、安心して自分の幸福に浸れないから、他人の幸福を望んでいるにすぎないところがあるのではないか。

 むさぼりという罪は誰の心にもあるのです。だから「むさぼるな」という戒めを聞くときに、われわれの中にあるむさぼりという罪が目をさますのではないか。「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしのうちに起こさせる」のであります。

これが「殺すな」という掟、新共同訳では「掟」と訳しておりますが、口語訳では、「戒め」になっていて、わたしはどうも掟という言葉はなじめないのですが、戒めという訳のほうがいいと思いますが、それはともかく、「殺すな」という戒めをとりあげたなら、「殺すなという戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ」ということにはならないし、そう言われてもわからないかもしれません。

 しかし、「むさぼるな」という戒めを聞いたときには、むさぼるという欲望はわれわれの心の中に根強くありますから、たちまちそのむさぼるという思いは頭をもたげだして、われわれをむさぼるという罪を拡大させるのではないでしょうか。

 「むさぼる」という罪は、自分の幸福をもっと拡大したい、自分だけの幸福をもっと大きくしたいという欲望ですから、それは人の幸福を妬む心と結びつきます。

 そして妬みという感情はわれわれの心の中に潜む大変激しい感情で、それは人を殺すことと結びつくのではないかと思います。イエスは当時のお偉方、権力者たちの妬みの故に捕らえられ、殺そうとされたのであると、総督ビラとは推察したと福音書には書かれているのであります。

 そう考えれば「むさぼり」という欲は、それは人を殺してしまうという事と深くつながっていることはわかるのではないでしょうか。ですから、むさぼりという罪について言えることは、殺すという罪についても言えることなのではないかと思うのです。

 それにしても、ここを読んでいてもう一つわかりにくいことは、これを言っているのがパウロであるということなのであります。

 といいますのは、パウロはクリスチャンになる前は、ファリサイ人として律法を守るという点では「非の打ち所のない者だった」、と言っているのです。律法は完全に守ってきたというのです。彼は彼の自覚からいえば、「むさぼる」という罪にふりまわされた生活をしていないのです。「むさぼるな」という律法をその通り守り通した筈なのです。そのパウロがこう述べているのがわかりにくいところであります。

 そのパウロが、口語訳でいいますと「罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである」と言っているのはどういうことなのかということなのです。

 もちろん、パウロの心のなかに「むさぼる」という罪があったでしょう。しかしだからといって、むさぼるという罪を犯してはいない筈であります。パウロは「むさぼるな」という律法を守るという点においても落ち度がなかった筈であります。

しかし、パウロはキリストに出会い、キリストに救われた時に、自分のあの律法を守ってきたという生活、律法を守ることにおいて非の打ち所がなかったという生活が、本当に律法を守って来たのだろうかと問われたのであります。

 パウロは律法を守ることにおいて、律法を守れば守るほど、「むさぼるな」という律法を守ろうとすればするほど、実は自分のむさぼりという欲望が執拗に牙をむき出していたのであります。

 パウロは自分は忠実に律法を守っているということを誇りにしていた。、その自負が、その誇りが、律法を守れない人々を軽蔑し、裁いてきたのであります。律法を無視しようとしているかに見えたクリスチャンたちを息を弾ませて捕らえ、殺害しようとしたのであります。それはまさにパウロのむさぼりという罪のあらわな姿ではないでしょうか。

 つまりパウロは律法を守ることによって、「むさぼるな」という律法を守ることによって、自分の義を誇り、自分の正しさを主張し、まさに神の前に自分のむさぼりを主張していたのであります。

 パウロは、自分の心の中にある「むさぼりたい」という思いを、彼は律法を守ることによって実現させているのであります。十一節に「罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである」とありますが、ここで、「わたしを欺き」とありますが、それはこういうことであります。

 パウロは「むさぼるな」という戒めを忠実に守り、それによって神に誠実に従っているつもりだったのであります。ところがよくよく考えて見れば、それによって自分の中にある自分の立派さを実現させたいというむさぼりの思いを神に主張しようとしていた。それはまさにパウロを欺いていたということであります。
われわれの心のなかにある「むさぼり」の最大のものは、自分を立派にしたい、自分は立派な人間なんだと人に思われたいということなのではないか。

 パウロは律法を守らないことによって、あるいは、律法を守れないことによって、罪を犯したのではなく、律法を完全に守っているということにおいて、罪を犯していたのであります。

 なぜなら、律法を守ることによって神に従うのではなく、神のみを拝するという十戒の第一の戒め、あるいは十戒の第二のいましめ、「神以外のものを神にしてはならない」という偶像禁止の戒めを破っていた、なぜならパウロは自分の正しさを主張することによって、自分を神にしていたからであります。それが「わたしを欺き」という意味であります。

 律法がなかったならば、子どもが素朴に自分のことを誇るように、たとえば、運動会でぼくは一等をとったのだよ、と誇るように、自分を誇っても、それはひとつも罪にはならなかったのであります。

 しかし律法が来るに及んで、われわれは律法を通して自分を誇りだしたのであります。九節に「わたしはかつては、律法とはかかわりなく生きていました。しかし掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました」とありますが、「律法とかかわりなく生きていた」時というのは、まだ子供の時期のことであります。ユダヤの社会では、子どもの間は律法の適用はなかったのです。だから、その子どもの時代のことをいっているのだということであります。その時は素朴だったのです。

律法が来るに及んで、われわれは律法を通して神の前に自分を誇り、神を無視しし始めたのであります。

われわれはクリスチャンになることによって、どんなに身近な人、家族の人を裁き、傷つけていないか。あるいは、クリスチャンになったことによって真面目ではあるけれど、いつも自分を責めてぱかりいて、暗い人生を歩んできていないか。

 「命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました」というのです。いつパウロはそのことが「わかった」のでしょうか。

 それは七章の二四節にありますように、「わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と、自分以外のかたに救いを求め始めた時であります。

 もう自分で自分を救うことはできないとわかったのです。自分の座っている椅子を自分でもちあげることはできないとわかったのです。
そして「主よ、憐れみたまえ」と、祈り始めた。 

 パウロは「わたしはなんという惨めな人間なのだろう。だれがわたしを救ってくれるだろうか」と嘆いたあと、いきなり、唐突に「「わたしたちの主イエス・キリストによって、神に感謝しています」というのであります。救いの光は突然唐突に上から注がれるのだということであります。

 ここではパウロは救いについての議論はいっさいしようとはしないのです。ただ自分はイエス・キリストによって救われたのだ、救われているのだという事実だけを語るのであります。

 ある人がここのところを説明して、「大事なことを語る時には、いつも多言は必要ない。一言あれば、それでいい」といっております。

 そしてパウロは、そのあと、「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えているが、肉では罪の法則に仕えている」と、淡々というか、平然と語るのであります。これでは前の生活と全く変わらないではないかといわれるかもしれません。

 われわれもクリスチャンになる前となった後は、あまり違わない生活をしているかもしれません。しかし、決定的に違っているところがあると思います。それはどんなに自分のなかに罪の姿があっても、もう自分は絶望しないということです。絶えず、神からの助けを信じ、神の憐れみを信じ続けて生きることができるということであります。
「主よ、憐れみたまえ」と祈り続けているということであります。