「神みずからが義となる」 ローマ書三章二一ー三一節


 二三節をみますと、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされたのである。」と記されております。

 「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」というのです。すべての人は罪を犯したために、不幸になったとか、悲惨になったというのなら、よくわかるのです。しかしここでは、すべての人は罪を犯したために、神の栄光をうけられなくなった、この事が問題なのだと聖書はいうのです。

 われわれにとって神の栄光を受けられないということがどれだけ切実な問題になるでしょうか。神の栄光を受けられないから、救われたいと思うようになるでしょうか。われわれは病気から救われたいと思うかも知れない、あるいは、自分の利己的な自己中心的な性格に嫌気がさして、そこから救われたいとは思いますが、神の栄光がうけられないから困るとはあまり思わないのではないかと思います。

 しかし聖書は、そのことが問題なのだというのです。われわれが救われるということは、神の栄光にあずかれるようになるということなのだというのです。
 五章の二節をみますと、こう書かれております。「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」と言われているのであります。ここでは、われわれが救われるということの一番大きなことは、神の栄光にあずかれる希望が与えられることなのだというのです。

 神の栄光にあずかるということは、どういうことなのでしょうか。そしてそれがわれわれにとって救いであるということはどういうことなのでしょうか。

 この次の聖日からはクリスマスを迎える待降節になりますが、ルカによる福音書をみますと、イエス・キリストが誕生した時、天には大きな喜びがあったと記されております。「おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神を賛美して言った、『いと高きところでは、神に栄光にあるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』」。

 神の栄光にあずかれないというのは、天の軍勢が天使たちと一緒になって神を賛美しているとき、その時一緒になってその賛美にあずかれないということなのだと考えたらどうでしょうか。まばゆいばかりの神の栄光が輝いている、それをみんなが賛美している、そういう時に、その賛美の合唱に自分ひとりだけ参加できない、それは大変淋しいことではないでしょうか。
 神の栄光をみることができる、たとえば、それはオーロラのような神秘的な輝きだとしたらどうでしょうか。いや、神の栄光の輝きなのですから、オーロラよりももっともっと神秘的なものだろうと思いますが、それを見ることができ、そしてそれを天使達といっしょになって賛美の歌声をあげることができる、もうその時には、自分のことなどひとつも考えなくて済むのであります。

 自分がどんなに汚れた人間であろうと、つまらない人間であろうと、自分がどんなに不幸な状態にいようと、もうそんなことはすっかり忘れてそのオーロラのよう神秘的な光のなかに包まれるということ、それが神の栄光にあずかれるということなのではないか。そしてわれわれが罪を犯したために、その神の栄光にあずかれないということは、やはりわれわれにとって大変不幸なことではないでしょうか。

 いつも自分のことばかりにとらわれているわれわれであります。そういう自分から逃れたいと思ってわれわれは、時には大自然の空気のなかに自分を置きたいと思うのではないでしょうか。あるいは、幼子の無邪気な様子をみていて、心和むのは、いっときその幼子のしぐさに心奪われて、なにか救われた気持ちになるのではないでしょうか。

 自分から離れたいと思っても、なにかそういう対象物がないと、われわれはなかなか自分の問題から離れられないのであります。そういう時に、神の栄光にあずかれるということは、われわれにとって本当に救いになるのではないでしょか。

 そしてこの栄光という元のギリシャ語は、評判という意味をもった言葉でもあります。つまり、神からの評判を得るということだとある人が説明しております。神からの評判を得るということは、簡単に言えば、神からほめてもらうということであります。神から認めてもらうということであります。

 主イエスは弟子達に「律法学者たちのような偽善者になるな」といわれました。彼らは人に施しをする場合にも、わざと自分は施しをしているぞ、とラッパを吹き鳴らして、施しをするというのです。そしてイエスはその後、こういうのです。「よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左に手に知らせるな。そはれ、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事をみておられるあなたの父は、つまり父なる神は、報いてくださるであろう」というのです。

 ここは不思議に思うことは、人にほめてもらおうとして、施しをするな、そんなものは偽善だといいうのですから、当然、施しをする時には隠れてしなさい、だれかにほめてもらおうなどと思わないで、善を行いなさい、いわばなにも当てにしないで、何の報いも当てにしないで、ただ善のために善をしなさい、それが偽善的でない純粋な生き方なのだと主イエスは勧めるのかとわれわれは思うのですが、主イエスはそうはいわないで、隠れたところで、施しをするのは、隠れた事を見ておられる父なる神様から報いてもらうためなのだ、そうしないと、神様からの報いを受けられなくなってしまうぞ、というのです。

 このところが聖書の教えのなかで一番大切なところであります。つまり聖書は単なる道徳を教えていない、なにか大変高尚な倫理をわれわれに教えようとしているのではない、善のための善をしなさい、などという高尚な、崇高な倫理を教えようとしているのではないということなのです。それは結局はなにやかやといっても、結局は自分の立派さを求める生き方にすぐ結びついてしまう生き方であります。それは自分の栄光をひたすら求める生き方になっていくのであります。つまり、善のために善をするんだと歯を食いしばって善いことをしようとする、それは結局は自分の立派さにこだわってそうした事をしようとするだけなのではないかと思います。

 主イエスはそんなことは言わないのです。われわれが求めなくてならないことは、神にほめてもらう、神からの評判を得るということなのです。神に認めてもらうということなのです。自分ひとりで自分の正しさとか、自分の立派さに自己満足することではないのです。神に「よし、よくやった」とほめてもらうということが大事なのです。

 あの主イエスのなさったタラントの話でも、あずけたタラントを十タラントにすると、神は「よくやった。」と、神はほめてくださるのです。神にほめてもらうのです、人間ではなく、まして自分で自分をほめるのではなく、神にほめてもらおうとする。その神はわれわれの隠れた卑しい心の動機などはすぐ見抜いてしまうかたなのです。ですから、この神の前ではわれわれはもう幼子のように正直にならざるを得ないのです。いっさいの偽善は役に立たないのです。

 この神様からほめてもらう、それがわれわれの救いなのです。われわれの救いというのは、あくまでこの神との関係のなかにある救いなのです。自分ひとりでなにかを達成するような救いではないのです。聖書の救いというのは、いつでもこの神との関係でどうなのか、という救いなのです。神によって義とされる、というときの義という言葉は、少し難しいことをいうと、これは関係概念だというのです。つまり神との正しい関係に入れていただく、それが義とされるという意味なのであります。

 神にほめてもらうとして生きる時、われわれは、始めていっさいの偽善から解放されて、自分のありのままを神の前に正直にさらけ出すことができるのであります。神からほめてもらおうとして生きる時、われわれは傲慢さから解放されて、本当に謙虚になることができるのであります。

神の栄光にあずかる、というのは、この神の光のなかで生きられるようになるということです。それは光といってもいいし、あるいは、神からの評価といってもいいのです。その神の眼差しのなかで生きるということであります。罪を犯すということは、その神の光から逸脱してしまうということであります。

さらに、パウロはもうひとつ、われわれにとって思いがけないことをいいます。それはわれわれが救われるということは、われわれがただ救われるということではなく、われわれの救いの問題よりも、実は神の義が問題なのだというのです。少し俗な言い方をすれば、それはいわば神の沽券に関わることなのだというのです。

 われわれを救うことによって明らかにされることは、神の義なのだ、神の正しさなのだというのです。二五節をみますと、「それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見逃しておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とするのである」というのです。

 十字架の出来事は、何よりも神の義が示されるということなのだ、神の沽券に関わる問題なのだというのです。われわれが義とされるなんてことは、神の義のいわばおこぼれにあずかるようなことなのだというのです。

 われわれが救われるということは、神の義にかかっているということなのであります。われわれを救って、神の義がなにもかもなくなってしまう、神の権威が地に落ちてしまうようなことであってはなんにもならないのです。そんなものは、われわれにとっても救いにならないのです。

 神の権威がしっかりと保たれ、神の栄光が輝き、そのうえでわれわれも救われるのでなければ、それはわれわれにとっても救いにはならないのであります。いわば神の義がしっかりと示される、それによってわれわれも救われ、われわれも義とされるのでなければ、なんにもならないのであります。なぜならわれわれが救われるということは、自分の義の主張が退けられるということだからであります。

主イエスが神の愛を語る話に、放蕩息子の話があります。ある父親にふたりの息子がいて、弟のほうがある時財産をわけてくれと要求する。父は財産をわけてあげると、彼はすぐその金をもって父の家を出て、放蕩に持ち崩してしまったというのです。食べるものにも困って、とうとう父親のところに帰って、もう息子としてではなく、雇い人の一人としてやとってもらい、食物にありつこうとして帰ります。すると、父親は息子よりも先に彼をみつけて、父親のほうからかけよって、彼に接吻して受け入れてくれたという話であります。

 それは主イエスが神の愛というものはそういうものだということを語ろうとして、語った例え話であります。

 このところで、主イエスは三つの例え話をしているのです。最初のたとえ話はこうです。百匹のうち、一匹の迷い出た羊がいた場合、羊飼いは他の九十九匹の羊をうっちゃっておいて、その一匹を探しだそうとするではないか。そして見つけたら、喜んでそれを肩にのせて、友人や隣人を呼び集めて、一緒に喜んでもらおうとするではないか、という話であります。

 そして次に、ある女が銀貨十枚のうち、一枚をなくした時、あかりをつけて家中を探し回るではないか、そしてそれを見つけると、女友達や、近所の女たちを呼んで、一緒に喜ぶではないか、という話であります。そうして、最後にこの放蕩息子の話をするのであります。

この三つの話は、みな神の愛の深さ、罪を犯して迷い出た人間を赦し、救い出すための神の愛の深さを語ろうとするイエスの例え話であります。考えて見れば、この最後の放蕩息子の話で、主イエスはこの父親の姿に父なる神の姿を語ろうとするわけですが、それならば、なぜこの父親は自分のところを去っていった息子を探し求めて、異国の地までいこうとしなかったのか。

 食べるものにも困って、豚のえさを食料にしようとしている息子を探しだそうとしなかったのたか。あの迷い出た羊を探すために、他の九十九匹をうっちゃってまでして野に出て、谷に出て、探しまわる羊飼いの姿を語ったイエスであります。

 それならば、どうしてこの放蕩息子の話では、そういう父親像を語ろうとしなかったのか。イエスの十字架で示そうとされる神の愛は、なによりもそういう父親像ではなかったか。イエス・キリストは神の子であったにもかかわらず、神と等しくあることを固守すべきことと思わず、おのれをむなしうして、僕のかたちをとり、そうしておのれを低くして、十字架の死をとげたのであります。

 おのれを低くして、というのなら、自分のことろを去っていって異教の地で屈辱の生活をしているに違いない息子を探し求めてうろうろする父親の姿こそ、おのれを低くしてということだし、ひとり子を十字架で死なそうとする神の愛にふさわしい例え話になると思うのに、イエスはそうはしないのであります。

 ある人がこの父親の姿を説明してこういうのであります。「この父親はこの子が悔い改めて帰ってくるのを、今かいまかと待っているのだ。自分の気持ちに負けて、子供を取り扱う父親ではない。これはわたしたちのようにだらしのない人間にとっては、まことにありがたい父である」というのです。

 ある人の言葉に「人間は父親であるときにもっとも俗悪になる」という言葉があるそうですが、この放蕩息子の父親は、この時に俗悪にならなかったのであります。
 「自分の気持ちに負けて、子供を取り扱うようなことはしなかった」、しかし、仕事を終えると、畑の端に立って遠いところを見つめ、息子が帰ってくるのを今か今かと待っていたというのであります。そういう父親像をここでイエスは語っているのであります。

 この父親はあの羊飼いとは違って、人間の父親だからであります。相手が羊ならばこちらが探し求めて、野に山に谷にでていかなくてならないかもしれない。

 しかし相手が人間の場合、つまりわれわれ人間の場合には、われわれが自分の罪に気づき、悔い改めの気持ちをもち、そうして父親のもとに帰ろうとする、その動機がどんな不純ものでもいいのです、おなかがすいて食物にありつこう、病気をなおしてもらいたい、ただもっと幸福になりたい、あるいは、もっと強い性格をもちたい、そういきわめて世俗的な、あるいは利己的な動機からでもいい、ともかく、それを神に求めようとする、そのことが大事なのです。

 それを神は忍耐強く待っておられる、今か今かと待っておられる、父親の威厳をたもちながら、ただ子供に甘いだらしのない父親としてではなく、あくまで毅然とた父親として待っておられる、それがひとり子を十字架で死なそうとしている父なる神の愛なのだということであります。そういう愛でなければ、われわれは救われないのであります。

 バビロンで長い間囚われの身であったイスラエルの民が解放されることを預言したイザヤ書には、まず第一に預言されていることは、神がお通りになるバビロンからエルサレムの道をまっすぐに整えなさいということであります。イスラエルの民が帰る道ではないのです。神がお通りになる道であります。「こうして主の栄光があらわれ、人はみな共にこれを見る」というのです。

 そして「よきおとずれをシオンに告げる者よ、高い山に登れ、よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな、ユダのもろもろの町に言え『あなたがたの神を見よ』と。」

 ここでも一番大事なことは、まず神を仰ぎ見る、神の栄光を見るということなのであります。神がまず義となることが救いの第一歩なのだということであります。囚われのイスラエルの民がバビロンから帰れるということではないのであります。

 「草は枯れ、花はしぼむ、確かに人はみな草だ」というのです。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」というのであります。これがわれわれの本当の救いなのだというのであります。

 われわれが神の栄光にあずかれるようになる、神の栄光を見られるようになるということ、そうしてなによりも神自らが義となってくださること、これがわれわれの救いなのであります。