「不信心な者を義とする神」 ローマ書四章一ー

 パウロはわれわれが救われるのは、律法を守ることによって救われるのではなく、神の恵みを信じる信仰によって救われるのだといって来たのであります。

 それは律法をもっているユダヤ人にとっては、大変衝撃的でした。そのユダヤ人からの反論を見越して、パウロは「それでは肉による私達の先祖アブラハムの場合についてはどうなのか」と、いうのです。

 アブラハムはわざによって救われたのではないか、とユダヤ人は言いたいのです。その時にユダヤ人が引き合いに出す聖書の箇所は、創世記二二章のアブラハムが神からわが子イサクをはん祭として捧げよと命ぜられた時、アブラハムはその神の命令を守って、わが子イサクを捧げようとした、だからアブラハムは神によってよしとされたのだというのであります。

 ヤコブの手紙で、ヤコブがわれわれが救われるのは、ただ口先だけの信仰ではなく、その信仰に行いが伴っていなくてはだめだというとき、その説明として引用したのが、この創世記二二章のわが子イサクを捧げたという記事なのであります。

 ヤコブの手紙二章二○節に記されております。「ああ、愚かな人よ、行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。わたしたちの先祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、こうして、『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』という聖書の言葉が成就した」というのです。

 ヤコブの手紙はよく読んでみれば、行いによって義とされるというのではなく、口先だけの信仰ではだめだ、そんなものは真実の信仰ではないといおうとしているのですが、それでもやはりパウロに比べると、行いを重視するのはあきらかであります。

 その時、このわが子イサクを捧げたというアブラハムの行為を重視するわけであります。しかし、その聖書の創世記の二二章の箇所には、「アブラハムは神を信じた。それによって彼は義と認められた」という言葉はないのです。

 それはヤコブが創世記の他の箇所からもって来ているだけです。その言葉がある箇所は創世記の一五章六節であります。そこは、アブラハムとサラとの間には子供が与えられなかった。しかし神はその二人に子供を与えると約束をしているのであります。しかし子供はできなかった。アブラハムはとうとう百才になろうとしていた。

 創世記の記事は神話的な要素もありますから、百才という言葉をそのままとる必要はありませんが、ともかく子供の出産という年齢では人間的可能性はもうゼロになった。それでアブラハムと妻サラはもう神の約束を信じられなくなって、ほかの子供を養子にして跡継ぎにしようとするとか、そういう人間的知恵を働かすわけであります。

 その時神の言葉がアブラハムに来た。「その子を養子にしてはいけない。必ずおまえ達に子供が生まれるから、その子を跡継ぎにしなさい」というのです。
 そして神は彼を外に連れ出して、「天を仰いで星を数えられるか」というのです。空にはもう無数の星がでていた。満天の星だったのであります。とうてい人間の目で数えきれる数ではなかったのです。そしてこういうのです。「おまえの子孫はあのような星の数になる」と言われた。まだ一人も子が与えられていないのに、であります。

 アブラハムは神の約束を信じられないでいるのであります。神の恵みを信じられないでいるのであります。人間的可能性から言ったら、もうだめだと思い、人間的知性から考えて神の恵みを小さく小さく見限ろうとしていたのであります。

 その時に神から叱られて、満天に無数にきらめいている星を数えてみよ、といわれるのです。どうしておまえは神の恵みを小さく見積もろうとしているのか、と叱りつけられるのであります。

 この時アブラハムは夜空一杯に拡がる星の数を見て、神の恵みの大きさに圧倒されてしまったのです。それでこの時「アブラハムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と聖書は記しているのであります。

 これがアブラハムの信仰だったのであります。これが彼が義と認められた経緯であります。

 それをパウロは持ち出しているのであります。アブラハムもまた律法をまもったから、そういうわざを行ったから、義とされたのではない、彼もまた、彼こそ信仰によって義と認められたのだというのであります。

 「もしアブラハムがその行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえではできない。なぜなら、聖書はなんと言っているか。『アブラハムは神を信じた。それによって彼は義と認められた』とある。」というのであります。

 その後、パウロはさらにこういいます。「いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」というのです。

 今日肝に銘じて学んでいただきたい聖書の言葉はこの「不信心な者を義とする神」というところです。つまり、ここでは「信じる者を義とする神」ではなく、驚くべきことに、「不信心な者を義とする神」といっているのであります。

 今まで、パウロは、繰り返しになりますが、われわれが義とされるのは、律法のわざを守ること、つまりわれわれの行いによって、ではなく、信仰によって救われるのだといって来たのであります。われわれはその時、その信仰を敬虔深さとか、信仰が厚いという言葉で言い現される信仰を想像しているだろうと思います。

 そのために、われわれが救われるのは、行いによるのではなく、信仰によるのだといわれて、すぐ安心できないところが出てくるのではないか。確かに自分の行いなど、とても不完全で、行いによって救われるとは到底思えない、それならば、信仰はどうか、信仰もまたとてもだめだ、いや信仰のほうがもっとだめだということにならないでしょうか。

 行いもだめだけと、信仰はもっと自信がないと思うのではないでしょうか。そう言われれば、まだ行いのほうがいいかも知れないと思うのではないか。

しかしここでは、「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められる」とはっきりと明言されているのであります。

 いってみれば、神は信仰者を義とするのではなく、不信仰者を義とするのだいうのです。それがいいすぎならば、信仰をもっている人、立派なゆるぎのない信仰をもっている人を義とするのではなく、なかなか神の恵みを信じられないでいる、そういう信じられない人を義としてくださるかたを「信じる」、ここで始めて「信じる」という言葉が入ってくるのであります。

 ですから、最後は「信じる」というわれわれの決断、意志、が問題とされるわけですが、出発点はわれわれの不信仰から始まるのであります。

 アブラハムがまさにそうだったのです。彼は決してゆるぎない信仰などもっていたわけではないのです。神の約束をなかなか信じられないで、疑って疑って、それどころか、奥さんのサラなどはその神の約束をあざ笑って一笑に付したのであります。そういう不信仰者だったのです。

 そのアブラハムは、満天の星を見せられて神の恵みの大きさに圧倒されて、主を信じたのであります。神はそのアブラハムの信仰を義と認めたのであります。

 それはイエスが「もしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」という父親の信仰を叱って、「もしできればというのか、信じる者には、どんな事でもできる」と言われた、それに対して父親は間髪を入れずに、すぐ叫んで「信じます。不信仰なわたしをお助けください」といったという、信仰、その不信仰を捨てた信仰であります。

 ですから、われわれが「信仰によって義とされるんだ」ということを考える時、いつもこの信仰は「不信心な者を義とするかたを信じる」信仰なのだと考えなくてはならないと思います。それが神の恵みを信じる信仰なのであります。これ以外の信仰はみな「立派な信仰」とか、「厚い信仰」というような、その信仰になにか人間的な形容詞がついてしまうような厚化粧の信仰になってしまうのではないかと思います。

パウロがわれわれが救われるのは、行いによってではなく、信仰によってなのだというとき、このアブラハムの信仰をもちだしているのは、大変大切であります。われわれの信仰はいつでもこの不信仰を捨てて信じることへと踏み切る信仰であります。

 ですから、われわれのなかにはいつでも不信仰がくすぶっているのです。それはもう仕方のないことなのです。そういう自分のなかに絶えずくすぶっている不信仰を見いだしても、絶望しないことです。いや、絶望したら、すぐその不信仰を捨てればいい、捨てて「信じます、不信仰なわたしをお助けください」と、信じることに自分を賭けてしまえばいいのです。

 パウロはその後、追い打ちをかけるように、この信仰の内容について、ダビデが書いたと言われている詩篇の言葉を持ち出します。「ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである。』」

 これはイスラエルの王ダビデが自分の部下であるウリヤを卑劣な手段で殺してしまい、その奥さんを奪ってしまったのです。ダビデがそういう罪を犯した時、神からその罪を糾弾されて、彼が自分の罪を告白した時、その時に神からその罪が赦された、その事を歌った詩篇なのであります。

 パウロは「行いによって救われるのではなく、信仰によって救われるのである」という例証として、この詩篇を取り上げるのであります。考えて見れば、これも驚くべきことであります。

 といいますのは、このダビデの罪が赦されるということと、アブラハムが義とされる、ということとは、一見全く事柄が違うことのように思えるからであります。

 アブラハムはただ「おまえたちに子供が与えられる」という神の約束を信じられなくて、それを疑っただけであります。
 それに対して、ダビデは人の奥さんを奪い、あげくにその夫を殺して、知らん顔していたという大変な罪を犯しているのであります。

 それをパウロは平気で同じこととして、「ダビデもまた」という言葉で、つなぎ、「行いがなくても神に義と認められる人の幸福について次のように述べている」というのです。

 あのアブラハムのいわば小さな不信仰と、このダビデの大きな罪とが同じように、「また」という言葉で平然と同列に並べられているのであります。

 この事は「信仰によって義とされる」というときの「信仰」の内容が、われわれの清らかな敬虔深い信仰なんかではないのです。

 それは間違ってもわれわれのわざとか行いとか、われわれの心のありかたなどと、誤解されるようなものではなく、それは「われわれ不信仰な者を義とする神」を信じるという信仰であり、「われわれの罪を覆ってくださる神、われわれの不義をゆるしてくださる神、われわれの罪を認めないといって赦してくださる神」を信じる信仰なのだということなのであります。

 そして、ここで言われている、罪の赦しについての表現も考えさせられます。ここでは罪の赦しついての表現がある意味では、ずいぶん消極的な表現で言われているのではないか。

 つまり、罪を取り除くとか、罪を清める、ということで、罪の赦しが語られているのではなく、「罪がおおわれる」とか、「罪を認めない」ということで表現されているのであります。

 「おおわれる」ということは、一枚はがせば、その下には厳然として罪がそこに存在しているということであります。「認めない」という言い方もずいぶん消極的な言い方であります。

 もちろん、聖書では、罪の赦しについて、もっと積極的な表現もされているところはあります。罪を取り除くとか、罪を清めるとか表現されているところもあります。

 しかし、われわれの罪の現実からいうと、どうでしょうか。救われたわれわれは、もう完全に罪が取り除かれたのだ、そしてもう清らかになったのだと言われるよりも、わたしの罪はただ覆われているだけなのだ、一枚はがせば罪はたちまち露呈されてしまうのだという表現の方が、われわれの現実にあっているのではないか。

 そういう現実のなかで、あの父親のように「信じます、不信仰なわたしをお助けください」と、叫ぶように、「あなたがわたしの罪を認めないことを信じます、罪人のわたしをおゆるしください」と、訴えるほうが、われわれの現実にあっているのではないか。

 ここでは、信仰という言葉に、すぐ美しいとか、立派なとかていう形容詞をつけたくなるわれわれの思いを粉砕するような、パウロの説明をわれわれは肝に銘じなくてならないと思います。