「望み得ないのに望む信仰」  ローマ書四章八ー二二節


パウロはアブラハムの信仰について説明して、彼の信仰は「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」というのであります。これは彼がもう百才にもなったのに、神の約束、子供が生まれるという約束が、実現していない、その間その神の約束を信じられないで、養子をとろうとしたりするのですが、その度に神に叱られて、神の約束を信じるように導かれていった、百才という年齢になって、人間的可能性からいったら、もう子供が与えられるという望みがまったくない時にも、「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」という信仰を述べているのであります。

 ある人がこのアブラハムの信仰を説明して、こういっているのであります。「望みがない時にこそ、望みが本当に必要なのではないか。望みがないところにこそ、本当は望みというものが一番必要なのではないか。望みがない時にこそ望むことができるということが、望むということの本当の力なのである」という意味のことを言っているのであります。

 確かに、望むことができる時には、本当はわざわざ望む必要もないのかも知れません。可能性がいっぱいあるところでは、わざわざ希望などという言葉を出してくる必要はないからであります。

 しかし、望むことができないときに、なお望むことができる、それが望みというものの本来の姿だといわれましても、自分はそのような望みをこれまで一度でももったことがあるだろうかと考えてしまうのであります。

 われわれが望みをもつ時、望みをもてるようになる時というのは、少しでも可能性が見えてきた時なのではないかと思うのです。たとえば、病気になった時に、医者からこの病気は難しいけれど、治ります、といわれた時、われわれは始めて望みをもつことができるのであって、医者からもうだめです、といわれて、それでも望みを失わないでいられるだろうか。

 われわれの人生において、望み得ないのに、なおも望みつつ信じたという経験をわれわれは一度でもしたことがあるだろうか。われわれが望みをもつ時というのは、どこかに望みうる可能性はないか、どんなに小さなささいな可能性でもいい、それをこじあけるようにして見つけだして、そしてそれにわらをもつかむ思いですがりついて、かろうじて望みをもとうとしているのではないかと思うのであります。

 望みというものは、望むことができる根拠とか可能性がすべてなくなった時にも、なお望めるというものが望みの力だといわれれば確かにその通りだと思います。

あのナチズムの猛威がふるわれた強制収容所の体験を聞きましても、その過酷な強制収容所を生き延びた人は、体の丈夫な人ではなかった、なんらかの意味で希望を失わなかった人だと書かれております。その希望は、たとえばやがて強制収容所から解放されて、家族と再会したい、そういう希望をもっている人がその過酷な生活に耐えて、生き延びることができたというのであります。

 そういう家族をもっていない人は、生きる力を失って死んでいったというのであります。そしてその多くの場合、すでにその家族はもうすでに殺されているのだというのであります。ですから、家族との再会というのは、幻想にすぎないわけです。それでもそういう幻想にわらをもつかむ思いで望みをもてる人が生き延びることができたというのであります。

 また、ある年のクリスマスを過ぎて、その収容所のなかで死者の数が急激に増えた時があるというのです。それはその収容所の中の人々がクリスマスにはなんらかの解放があるのではないか、なにしろ、その日はクリスマスなのだから、という漠然とした、いや大いなる期待をもってクリスマスの日を待ち望んだ、しかしクリスマスが来てもなんの変化もなかった、その期待が裏切られ、希望を失って生きる意欲を失って死んでいった人の数が多かったというのであります。

 その収容所では、まさに望み得ないところなのです、一切の望みがたたれたところなのであります。そしてその一切の望みがたたれているところでこそ、望みというものがどんなに必要か、どんなに望みが人に力を与えるかということであります。その望みは幻想でもいいのです。

 偽りの根拠でもいい、クリスマスにはなにかいいことがあるかも知れないという漠然とした期待でもいい、その偽りの根拠、漠然とした期待でも、それを足がかりにして、ともかく希望がもてるとっかかりというものをわれわれは見つけだして、望み得ない時にもなお望みをもとうとしているのであります。

 そしてその場合、望み得ない時に、なおも望みをもつことのできるとっかかりはどこかにないかと懸命にその根拠を見つけだして、望みを持とうとしているのであります。やはり望み得ないときに、なおも望みをもとうとする時に、われわれにはやはりなにか望む根拠がなければ望みは出てくるはずはないのであります。

 アブラハムはどこに望む根拠を見いだしたか。それは神の約束であります。お前達に子供が生まれる、という神の約束であります。そしてその神は死人を生かし、無から有を呼び出される神なのだという信仰であります。

 アブラハムもまた望む根拠を見いだしていたのであります。なんにもないところに望みというのは、生まれようがないのであります。ただ、アブラハムは人間的可能性に自分の望みの根拠を置こうとしなかった。始めはそうでした。そのために百才という人間の出産能力ということからいったら、もう可能性ゼロという時には、自分たちには子供は与えらるという希望を棄てたのです。そして養子をとって自分たちの跡継ぎを作ろうとしたのです。

 その時に神から叱られて、どうして望みの根拠を人間におこうとするのか、どうして望みの根拠を、死人を生かし、無から有を呼び出される神におこうとしないのか、といって叱られて、彼は神を信じた、神を信頼した、そうしたら、望みが向こう側から与えられたのであります。

 望み得ないのに、なおも望みつつ、という時、望みの根拠が全くないときにも望みをもつということではなく、どこに望みの根拠をおいて「なおも望みつつ」ということができるかということであります。自分の可能性、人間的可能性に根拠をおいて望みをもとうとするか、それとも、死人を生かし、無から有を呼び出される神に根拠をおくかということであります。

 われわれは少しでもなにか可能性が見いだせた時に、望みをもつことができるものであります。しかしその場合でも、その可能性は百パーセントの可能性ではないはずです。たとえば、受験という場合だって、偏差値の結果、いろいろな模擬試験で、偏差値からいって、その大学に合格することができるという可能性がでてくる、その時われわれは確かに希望をもてるようになるわけです。しかしだからといって、その可能性は百パーセントかといえばそうではない、それはやはり八十パーセントの可能性でしかないわけです。

 当日なにが起こるかわからない。だから望みをもつということなのであって、もし百パーセントの確率だったならば、もう望みなど必要がなくなくるわけです。ですから、われわれが望みをもつというときは、やはりどこかに「望み得ない」という現実は残っているはずであります。自分の可能性だけではどうしても不安な部分が残っている、その時にその不安をふっきるように、われわれは希望をもとうとするわけであります。

 つまり、われわれはどんな人でも、信仰をもたない人でも自分の人生はすべて自分で取り仕切れるものとは思っていないのではないかと思います。神という言葉は使わないかもしれない、運命という言葉かもしれない、そういう自分を超え、人間を超えたものの存在と支配を感じているから、われわれは望みをもとうとしているのだし、また望みをもって生きざるをえないのではないかと思います。

 そういう意味では、望みというのは、人間だけにあるものかも知れない。動物は望みをもって生きるなんてことはしない。

 われわれクリスチャンは自分を超えた存在とその支配をイエス・キリストによってはっきりと知らされたのであります。その存在者がどんなに深い愛のかたであるか、その支配がどんなに配慮に満ちた導きかということを明確に知らされたのであります。

 ですから、「望み得ないのに」というとき、全く望み得る根拠をゼロにして、ただやみくもに信じて、無理して望みをもとうとしたというのではないのです。望み得る根拠を自分とか人間的可能性とかというところにではなく、神にその根拠をおいたということであります。

 ちっぽけな自分にではなく、頭をあげて神に望みの根拠をおいた。その神は死人を生かし、無から有を呼び出される神なのです。だからますます大いなる望みをもつことができたのであります。そしてここで、パウロがアブラハムの信仰にかこつけて、「死人を生かし、無から有を呼び出される神」という時、パウロはアブラハムの信仰のことを離れて、イエス・キリストをあの十字架の死からよみがえらせた神のことを言うのです。

 そうしますと、ここで言われている「望み」というものの内容が、ただいい学校に合格するとか、宝くじに当たるとか、そういう望みではなく、われわれの生き死にの問題、われわれの中にしぶとく存在している罪から救われるという望みのことだということがわかると思います。

 われわれにとって生き死にの問題になったとき、つまり、病気になった時、望みをおけるのは神に望みをおく以外にないのではないかと思います。もちろん医者に望みはおきます。しかし最後はというか、その根本には、神に望みをおいているのです。そうした上で医者に望みをおくのではないかと思います。このように、われわれには望みをおくことができる神を知らされているということはなんと力強いことかと思います。

「望み得ないのに、なおも望みつつ」ということについていろいろと理屈めいたことをいいましたが、本当はわれわれにとっては、もうなんの解説も必要なく、そのまま素直に「望みえないのに、なおも望みつつ」信じることができるのであります。

 この望みは、われわれの生き死にに関すること、罪に関することだといいいましたが、それではわれわれの日常的な問題について、神に望みをおいてはいけないのかと思うかも知れません。

 たとえば、大学の受験に関して、神に望みをおいてはいけないのか、そんなことについて神にお祈りをしてはいけないのか、ということになります。そうではないのです。大学の受験について神に祈り、神に望みをおくということは、その神様がわたしにとって必ず最善の道を用意しているに違いないという、神に対する信頼をもって祈り、望みをもつということであります。

 自分の願いというのは、必ずどこかに自分の利己的な自己中心的な願いというものが根強くあります。もっとはっきりいって、われわれのすべての願いは罪の問題と無縁ではあり得ないということであります。

 ですから、たとえ自分の祈りが聞かれなくても、そこには、神がわれわれのちっぽけな願いを打ち砕いて、神のもっと深い配慮が働いているに違いないと思って、自分の願いがかなえられなくても、そこに望みをおけるということであります。そこで望みを失うことにはならないということであります。

 神を信頼することであります。信頼するということは、ある人が言っておりますが、「あの人ならこういうことは絶対にはしないということを信用すること」なのです。つまり最終的には自分を裏切るようなことはしないということを信じるということであって、いつもいつも自分の期待通りの願いをかなえてくれる、ということは違うのであります。

ここで、大事なことは、死人を生かし、無から有を呼び出される「神」を信じた、という表現であります。つまり、神様は死人を生かし、無から有を呼び出される、ということ、そういう限定した事柄を信じるのではなく、変な言い方かも知れませんが、まず神様の全体を信頼する、神を全面的に信頼するということなのです。

 事柄を信じるのではなく、生きて働いておられる神そのかたを信頼するということであります。その時に自分ちっぽけな願いに固執しないで、望み得ないのに、なおも望みつつ、という途絶えることのない望みが与えられるのではないか。つまり自分の期待するような望みがかなえられなくても、その自分の期待する望みが途絶えた時にも、そこからまた新しい望みが与えられるということであります。

望みの根拠を自分の可能性におくか、それとも死人を生かし、無から有を呼び出される神におくかであります。自分の救われる根拠を自分のわざにおくか、律法をまもっている自分の行為におくか、あるいは、選民としての徴である割礼を受けているという割礼におくか、それとも、ただ神の恵みを信じるという信仰におくかであります。

 一六節にパウロは「すべては信仰による」といった後、ただちに言葉を続けて「それは恵みによる」と言い換えているのであります。この事は肝に銘じておかなくてならないところであります。

 つまり、「自分の信仰」を信じるのではなく、「神の恵み」を信じるのです。