「イエスをよみがえらせた神」 ローマ人への手紙四章一六ー二五節
 

今年も今日が最後の日曜日になりました。年末にはその一年を振り返って、反省する習慣が日本にはありますが、われわれも今それにならって、この一年を反省するとどうなるのでしょうか。どう反省したらいいのでしょか。信仰生活の反省とはどういうことでしょうか。

 パウロはコリント教会に対してこう言っております。コリント人への第二の手紙の一三章の五節の言葉です。「あなたがたははたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。」

 ここに反省しなさいという言葉がでてきます。ここは、「信仰があるかどうか自分を反省しなさい」と訳されておりますが、原文をみますと、自分が信仰をもっているかどうか、というよりは、自分が信仰の中にあるかどうかを反省しなさい、という訳の方がいいように思われます。

 ある聖書の訳では、「あなたがたが信仰のうちにあるかどうか、あなたがたは自分自身を検証しなさい」となっております。口語訳の「反省しなさい」という言葉も、このように「検証する」とか「試みる、テストする」という意味を含んだ言葉のようであります。

 つまり、自分が本当に信仰のなかで生きてきたかどうかをためしてみなさい、というのであります。

 そしてパウロは「あなたがたははたして信仰があるかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」と言った後、言葉を続けて「それとも、イエス・キリストがあなたがのうちにおられることを悟らないのか」というのです。

 信仰を反省するというのは、われわれがなにか信仰をもっているかどうかというように、自分の信仰の強さ弱さを反省したり、自己吟味することではなく、イエス・キリストが自分の中におられることを悟るかどうかだというのです。

 ここでは、「イエス・キリストがあなたがたのうちにおられるかどうかを考えてみなさい」というのではなく、もうすでにイエス・キリストはどっかりとあなたがたの中におられるのに、それについてあなたは悟ろうとしないのではないか、という言い方なのであります。

 われわれの信仰の意識とか、信仰の自覚が問題なのではなく、つまり「われわれ」が主語ではなく、イエス・キリストのほうが主語なのであります。

 われわれのほうではイエス・キリストのことをすっかり忘れていることもあったのです。しかしそういう時にも、イエス・キリストのほうではわたしの中にいらしたではないか、そして今でもいらしておられるではないか、そのことを今悟ることが信仰生活を反省することなのであります。

 詩篇の一三九篇は、「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知り尽くされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます」という言葉で始まる詩篇であります。その人はある時もう絶望して神から逃れたいと思い、陰府に、つまり死後の世界にのがれようとした、しかしそこには神がおられた、翼をかって海の果てに住んでしまおうとした、しかしそこにもあなたの御手はわたしを導き、あなたの右の御手はわたしを支えていた」というのです。

 どんなに神から逃れようとしても、逃げていったそのところで、神が待っておられたというのです。そうしてその人はこう告白するのであります。「わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしきかただからです。あなたのみわざはくすしく、あなたはもっともよくわたしを知っておられます」というのです。

 信仰というものが、自分の自覚や意識にかかっているだけだとしたら、こんなに頼りないものはないのです。信仰をもつ、ということが信仰生活だとしたら、それはずいぶん頼りない生活になると思います。しかしそうではなくて、信仰というのは、自分が信仰をもつというよりは、信仰の中に自分があるということなのです。そしてもっとはっきり言えば、イエス・キリストがわたしのなかにいつでもどんなどんなところにもいらしておられる、ということを確信して生きるということなであります。

 わたしが神を知るのではなく、わたしは神に知られているのだ、そのことをわたしも自覚して生きるということ、それが信仰生活なのであります。

さきほど、ここで訳されている「反省する」という言葉は、「検証する」とか、「テストする」「試してみる」という意味の言葉だといいました。信仰をためしてみなさいというのです。信仰をためすなどといいますと、それは、神を試みることになるので、あまりいいことではない筈です。

 しかしモーセが神に「お前はイスラエルの民をエジプトから導きだす指導者になれ」といわれた時、彼は「自分のような口べたで弱い人間はとてもこの任に堪えません」といいますと、神はモーセに杖を地面に投げさせて、蛇にしてみせたり、その他いろいろの奇跡をみせて、だからわたしがお前と共にいることを信じなさいと、信じさせるのであります。

 モーセはいわばここで、神をためしているのです。本当にあなたがわたしを支えてくれるのでしたら、どんな奇跡を示してくださいますかと試しているのです。神はそれを許すのであります。

 場合によっては、信仰を試すことは許されることなのであります。神は試してもいいから、信じるものになれというのです。神はなんとかして、われわれに信仰を強めようとするのであります。

 ある人が、われわれの信仰は瀬踏みする信仰ではないか、それでいいのだろうかと、ある講演のなかで言っておりました。

 瀬踏みする信仰というのは、瀬踏みというのは、川を渡る時に、石を伝わって渡るのですが、その石はしっかりしている石かどうか、試しながら渡るわけです。その時最初はおそるおそる足をその石につけるわけです、そうしてその石が大丈夫だとわかったときに、今度は自分の身体全体の体重をその石に賭ける、そうやっておそるおそる、試しながら、川を渡る、それが瀬踏みするということですが、われわれの信仰もどこかそのようなところがあるのではないか、というのです。

 神をためしながら、瀬踏みしながら、信じているところがないかというのです。そしてその人はそれでは神を試すことになって、正しい信仰とは言えない、といわれたのです。

 しかし確かにそういう信仰は正しくないかも知れませんが、実際問題としては、われわれの信仰はやはりそういうところがあるのではないか。本当に神は生きておられるのか、神は本当にわたしを助けてくださるのか、と試しながら信仰生活を送っているのではないか。そしてそれは必ずしも悪い信仰生活とは言えないのではないか。いや、わたしは神様を試すようなことはいたしませんといいながら、神さまを神棚にたてまつってしまう信仰生活よりも、よほど健全な信仰生活であるかもしれないと思います。

 われわれは真剣になればなるほど、そしてせっぱつまればつまるほど、神様を試してみたくなるのであります。そしてわれわれが信仰の中に生きていたのかどうか、一年の最後に試してみるのも大切なのではないかと思います。ただその場合、大切なことは、信仰というものを自分の意識の強さとか、自覚とか、そういう自分の態度のほうに信仰の強弱をおこうとしないことであります。そうではなくて、どんなことがあっても、イエス・キリストはわたしの中におられるではないか、わたしのほうでイエスのことを忘れていようが、イエス・キリストの方では、わたしのことを知っておられる、そのわたしのために祈ってくださる、そのことに気がつくことであります。

 さて、今日は一年の最後というわけで、今学んでおりますローマ人への手紙から離れてしまいましたが、もう一度ローマ人への手紙に帰りますと、四章の二三節の言葉を読んでおきたいと思います。

 「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められたのである。主はわたしたちの罪過のために死にわたされ、わたしたちが義とされるために、よみがえられたのである」という言葉であります。

 この言葉はちょうど一年の最後を学ぶのにふさわしい言葉でもあります。三章の二一節から「しかし今や神の義が律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、現された」という箇所からの結びのような言葉になっているのであります。旧約聖書のアブラハムを引用したのは、このことを言いたかったのだとパウロはいうのであります。

 ここでも大事なことは、まずイエス・キリストの十字架と復活という神の側の客観的な出来事であります。もうその出来事は完了してしまったのであります。あとは、それをわれわれが受け入れ、信じるかどうかなのであります。

 ときどき引用したと思いますが、竹森満佐一の説教にあった言葉を思いだします。われわれが救われたということは、われわれが完全に清い人間、つまり一点の曇りもない完全な人間になったことではない、義と認められということは、本来はまだ罪があって、義人などとはとうてい言えない、しかし義人と認めてもらうということなのだ。

 罪があって裁判にかけられて、当然有罪であるはずなのに、無罪と認められて放免になったのである。義とされるということは、そのように思え、という恵みあふふる命令を受けたということなのである。宗教改革者のルターが、罪人であると同時に義人、という有名な言葉をもって説明したのは、このことなのである。そのように信ぜよということだ。

 それならば、もはやまだ自分に罪があるということで、キリストの救いを疑ったり、キリスト者としての生活に絶望したりする必要はなくなる。キリスト者とは、そういう意味では、もう自分を顧みない人となったということである。ただキリストだけを仰いで暮らす人になったということだ。そしてこういうのであります。

 「神との関係は新しくなった。だから神に対しては、何の心配もなくなった。帰化して日本人になった西洋人のことを考えて見れば、よくわかる。その人は皮膚の色を変えることはできないでしょうし、目はやはり青いかも知れない。そればかりか、味噌汁はやはり嫌いで、パンばかり食べているかも知れない。

 日本人の気持ちにもまだ通じないでしょう。しかしその人が日本人として扱われ、日本人のあらゆる権利を与えられいることは誰も疑わない。それと同じように、キリスト・イエスを信じている者にとっては、その全生活が、キリストの死と復活によって守られているのである。その人に、過去からの生活の名残があったとしても、それはもう問題にはされない、それを信ぜよ、それを認めて生きて行け、ということだ、といっているのであります。

 われわれの信仰生活の反省とは、この事実のなかで生きているかどうかであります。反省とは、自分のことを顧みることではないのです。信仰を与えられたからといって、長い間あかのように沁みついてしまった過去の生活の名残をそう簡単にすてられていないのです、過去からの生活の名残があったとしても、もうそれは問題にされないのだというのです。

 いつも自分を見つめてしまおうとする視線を、キリストを仰ぐことに向きを変えることなのであります。キリストの十字架と復活によって義とされていることを信じたい、信じるほうに方向転換していきたいと思います。