「神との平和」 ローマ書五章一節

 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」とパウロはいいます。

 「このように」と言っているのは、四章までに述べてきたことを受けての「このように」ということであります。つまりわれわれは信仰によって、神の恵みを信じる信仰によって義とされたのだ、救われたのだ、「だから」であります。

 「だから」なんなのか。だから神に対して平和を得ているというのであります。これがわれわれが救われるということなのだというのです。

 われわれはそういわれて果たしてピンと来るでしょうか。われわれは救われるということが、もちろん家内安全、商売繁盛ということが実現することだとはあからさまには思っていないかも知れません。確かに、あからさまには思ってはいないかも知れませんが、みなひそかにはそのことを願っていると思います。

 ここに書かれているように、神によって救われるということが、ただちに神との平和を得ることであるとは、われわれはなかなか思えないのではないか。二節をみますと、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」というのであります。このこともわれわれはあまり考えないことなのではないか。

 われわれが救われるということで考えることは、自分がもっと強くなるとか、どんな時にもたじろがないで、平安でいられるとか、もう少し人格が立派になるとか、あるいは優しい人間になれるとか、愛に満ちた人間になれるとか、そういうことが救われるということだと考えていないか。そしてひそかに、家内安全、商売安全、であることが救われると考えていないか。

救われるということが、神との平和を得ることであると言われても、なかなかわからないと思います。今日は改めて、神との平和を得ることがどうしてわれわれにとって本当に救われることなのか、そのことを考えてみたいのです。

 それで、すこしローマ人への手紙から離れますが、あのルカによる福音書にあります、放蕩息子の話のことを考えてみたいと思います。

 あの話は、取税人や罪人たちがイエスの話を聞こうとして近寄ってきた時に、パリサイ人や律法学者たちが「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事している」と非難し、イエスを軽蔑してつぶやいたのに対して、イエスが語ったたとえ話であります。

 三つの話をします。始めに、百匹のうち一匹の羊がいなくなった時、羊飼はそのいなくなった羊を探すために他の九十九匹を野原に残しておいてどこまでも探しだすではないかという話であります。その迷いでた羊を見つけだしたなら、喜んでそれを自分の肩に乗せて、家に帰ってきて友人や隣人を呼び集めて「わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」と言うであろう、それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが天にあるであろうと言うのであります。

 そしてそれと全く同じ趣旨の話ですが、十枚のうち一枚の銀貨をなくし、それを見つけた喜びについて語ります。その話の結びも、隣近所の女友達を呼び集めて一緒に喜んでもらうとするということであります。

 そうして、最後に放蕩息子の話と言われている話をするのであります。
 ある人に二人の息子がいた。その弟のほうが自分がいただける財産のうち自分の分を生きているうちにくださいと要求するのであります。父親はわけてあげた。

 すると彼はそれをもらうと幾日もしないうちに父親のもとを飛び出して、そのお金で放蕩に身を持ち崩して、たちまちそのお金を全部使い果たしてしまって、食べることにも窮し始めた。豚の食べ物であるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどになったのであります。

 それで父親の所に帰ったら、食物はいっぱいあるから、もう息子として帰るわけにはいかないが、せめて雇い人の一人としてやとってもらって食物にありつこうと思って、父親のもとに帰ったというのです。

 するとその息子を父親のほうが先に見いだして、彼を哀れに思い、何も叱らないで、彼を抱擁し接吻し、最上の着物を着せ、最大のもてなしをしたというのです。

 ところが兄のほうが畑仕事から帰ってみると、家では自分勝手に家を出ていった弟が放蕩に身を持ち崩して帰ってきたというのに、父親が最大のもてなしをして、宴会をしているという、それで彼は怒って、家にも入ろうとしなかった。

 すると父親が出てきて兄をなだめますと、彼は父親に文句を言った。「わたしは何カ年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけに背いたことはなかったのに、友達と楽しむために子山羊一匹もくださったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になってあなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました。」と文句を言った。

 すると父親は「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえではないか」と答えたという話であります。

 蕩息子が、父親のところに帰ろうとしたら、父親のほうから彼を見つけ、なにも叱らないで彼を抱擁し接吻し、そして最大のもてなしをして、彼を受け入れたということで、この息子は父親と和解し、そして父親と平和を得たということはよくわかると思います。神との平和を得るということがこういうことであることはよくわかると思います。

ただ、この場合、われわれ大部分の人はこのように放蕩息子のような体験をしたことがいなのではないか、父親のもとを離れて勝手放題の放蕩をして、食べるものにも困る、そのような身の持ち崩しかたをしたことがないのではないか、だからもうひとつこの放蕩息子の話には実感がわかないのではないか。話としてはよくわかりますが、自分の問題として身近に考えることはできないのではないか。

 これが神との平和を得ることだと言われても、われわれはそれを本当に自分のものとして受け止められるか。神との平和を得るためには、このように放蕩して、このように罪を犯してみないと神との平和を得るということは実感できないのだということにならないか。

 そうなりますと、神の与える救いが本当にわかるためには、まずわれわれが一度罪をおかしてみないとならないという変な理屈がでてくるのであります。

 しかしこの例え話をイエスはなんのためにこの話をしたのかといいますと、実はパリサイ人、律法学者たちが、イエスが罪人たちと食事をしている様子をみて、それを非難し、軽蔑している姿をみて話をしたのであります。

 つまりこの話の主眼は実は放蕩息子ではなく、この放蕩息子の兄の姿勢なのであります。羊飼いは迷った羊を探し出した時にわざわざ隣近所の人を集めて一緒に喜ぼうとする、それは当たり前ではないか。それなのに、あなたがたパリサイ人、律法学者たちよ、あなたがたは今わたしが取税人や罪人たちと一緒に食事をしているのをみて、ああよかったね、彼らは今救われたのだと、どうして共に喜べないのか。どうしてこの帰ってきた放蕩息子を歓迎している父親と共に喜べないのか、イエスと一緒に喜べないのか、このことをイエスはパリサイ人律法学者たちに言いたいのであります。

 パリサイ人、律法学者たちはなるほど、律法をきちんと守り、立派な生活をしているかも知れない。神に対してなんら落ち度のない生活をしているかもしれない。しかしそれでいて本当に神との平和を得ている状態なのだろうかと言いたいのであります。

 この放蕩息子の例え話に出て参ります兄の姿、「わたしはあなたに何カ年も忠実に仕えたのに、一度もあなたの言いつけに背いたことはないのに、あなたはわたしに何もしてくれなかった」という父親に対する態度であります。

 これでは、父親に対してギブアンドテイクの関係、これだけのことをしたからこれたけの見返りがあってしかるべきだという関係であって、決して親子の関係ではないだうろと思います。これが果たして父親と本当に平和を得ているという姿だろうか。なるほど父親に反抗的な態度はしていないかもしれない。見た目には平和な関係かも知れない。しかしその心のなかは父親に対して不満でいっぱいなのであります。これで父親との平和の状態にいることなのだろうか。

 われわれは放蕩息子のことは観念としては、頭のなかではわかるかも知れませんが、生活の実感としてはそういう生活をしていないのでよくわからないと思います。しかしこの兄の姿は大変よくわかるのではないか。

 自分は正しい生活をしているという自信にあふれている、神に忠実に仕えている、毎日曜日礼拝に出席している、献金も適当にしている、大変真面目な生活をしている、だから神との正しい関係を得ている、神との平和を得ているというかも知れない。

 しかし一皮むけば、われわれはイエスがそのようなだらしのない人と共に食事をしていれば、イエスがそういう人に優しくふるまっている姿をみれば、われわれはすぐイエスを非難し、軽蔑し、そしてそういう人をまるで人間でないようにみてしまう、そういうパリサイ人、律法学者の姿が自分自身の姿でないといえるだろうか、そしてそれは決して神との平和を得ている状態でないことはよくわかるのではないかと思います。

 神との平和を得ている状態をすぐ想像できないならば、そして神との平和を得ることがわれわれにとってそれほど大事なことか、それが本当に救いなのかということが実感できないならば、逆にこの放蕩息子の兄の姿にみられるパリサイ人律法学者の姿のなかに神との平和を得ていない姿を見ることができるのではないか、そしてそれが決して救われた状態でないこともよく理解できるのではないか。

 父親に罪赦されて、最大のもてなしを受けているこの放蕩息子の状態が、神との平和を得ている姿だということはよくわかると思います。そしてそれをわれわれがなかなか素直に受け入れることができない自分の姿をみれば、ああ、自分は神との平和を得ていないのだということがよくわかるのではないか。

 そして神との平和を受けていないで、そしてそのように、神との平和を求めようとしないで、いつも、あのパリサイ人、律法学者のように自己を誇り、自分の正しさばかりを主張し、そうしては、人を裁き、人を批判し、人を軽蔑することが、どんなに悲惨な人間の姿であるか、どんなに罪に満ちた人間の姿であるかということがよくわかるのではないか。

 そして自分たちこそ、あの放蕩息子の兄こそ、放蕩に身を持ち崩した弟よりも実はもっと人間として最低の人間であり、どうしようもなく放蕩に身を持ち崩してしまっている人間であるということに気がつくのではないか。

お正月、たまたまテレビでみるともなしに、二十世紀の映像という番組をみておりましたら、それは再放送の番組ですが、そこに次々と映し出される今世紀の悲惨、悲劇、ヒットラーによるユダヤ人虐殺、ユダヤ人に対するものすごい侮蔑に始まって、アメリカ人のヴェトナム人に対する侮蔑、そのヴェトナム戦争の悲惨、かつての日本のアジアの国に対する軽蔑、愚かな戦争、それはみな自分の国だけを誇り、他の民族を軽蔑するというまさにあのパリサイ人、律法学者的人間、あの放蕩息子の兄の部類に属する人間たちが引き起こした悲劇であり、悲惨であることがいやというほどよくわかるのであります。

 イエスを十字架に追いやったのは、放蕩息子にみられる、取税人罪人のような人間ではなく、当時最高の知性を誇り、最高の道徳生活あるいは宗教生活をしていた人々によってそのことが起こったのであります。

 神との平和を得るということがただちにわれわれにとっての救いの最高の目的なのだということが、実感できないときは、逆に神との平和をえていない時、われわれのよりどころはただ自分だけが頼りにする事になり、従って自分を誇ることだけに汲々とする生活になり、それはその裏返しとして、人をすぐ批判し、裁き、軽蔑する生活になってしまうことを考えてみたらいいのではないかと思います。

 今もう一度、ローマ人への手紙の五章の一節にもどってその言葉を読み返したいのであります。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちは主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」とパウロは言うのであります。

 神に対して平和を得ることがわれわれが救われる目的であり、そしてそこに至る方法も、もう徹底的にわれわれの努力とかわれわれのわざとか行為とかが、排除されて、ただ十字架で死んでくださったイエスの恵みを信じるだけ、こちらはもうなにもしないで、ただそれを信じるだけ、つまりそのことによって、もうどこにも自分を誇る道を断たれてしまうという方法によって、この救いの道が導かれたことがわかるのではないかと思います。