「神の愛」 ローマ書五章一ー十一節


 イエス・キリストは、わたしたちがまだ弱かった時、不信心だった時、まだ罪人であった時、そのわたしたちのために死んでくださった。そのことによって、「神はわたしたちに対する愛を示してくださったのである」とパウロは言うのであります。

 イエス・キリストの十字架は神の愛のあらわれであるというのであります。ヨハネによる福音書には、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」と書かれていて、キリストの十字架は神の愛のあらわれであることは明らかであります。

それなのに、パウロは今まで、愛という言葉を使ってこないのであります。キリストの十字架において示されたのは、神の義なのだと言ってきたのであります。

福音の中に啓示されたのは、神の義だというのであります。われわれが救われたのは、神みずからが義となってくださって、そうして神の義が啓示されて、われわれが義とされて、救われたのだと言ってきたのであります。

そしてこの五章にきてようやく、その神の義は神の愛なのだということが前面に出されるのであります。もともとこの神の義というときの「義」というギリシャ語やへブル語には、単に正義という意味の、正しさという意味だけでなく、愛という意味、救いという意味をも含んだ言葉で、この義という言葉は決して愛という言葉と対立するような意味ではないのです。

しかしそれでも、義と愛という表現はそれぞれ違うものを現していることも確かであります。讃美歌の二六二番にありますように「十字架のもとぞ、いとやすけき、神の義と愛のあえるところ」と歌われているように、十字架というものが、神の義と愛があえるところ、神の義と愛が一致してわれわれに示されたからこそ、われわれには「いとやすけき」を感じることができるのだと言えるのであります。

キリストの十字架の出来事は、神の義と神の愛が一致したことなので、それだからこそ、それだけ深いものであり、豊かなものであり、それだけ気高いものなのであり、それだからわれわれに本当の救いを与えてくれるものであります。

 福音書をみますと、マタイによる福音書は、イエス・キリストの十字架は神の義が示されたのだと理解しているのに対して、ルカによる福音書では、神の愛が示されのだと理解していると言えるかもしれません。

それはなによりも、十字架のうえで、イエスが言われた言葉を書き記した記事の違いで、そう考えることができると思います。マルコとマタイ福音書には、イエスの十字架での最後の言葉は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉であります。人間の罪を背負って神に見捨てられていく、神の子の姿を記すのであります。

しかしルカによる福音書には、そのイエスの言葉はないのです。その代わりにイエスを十字架につけたものに対するイエスの言葉、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」というイエスの言葉を記すのであります。
また、一緒に十字架についた強盗の一人に対して「よく言っておく、あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」という言葉を記し、そしてイエスの十字架上の最後の言葉は、「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」という言葉であります。

ここには、人間の罪に対する徹底的な赦しの言葉、愛の言葉が記されているのが印象的であります。

 これは詳しく見ていきますと、イエスの十字架に行く道の描写に関してこの両者の福音書の違いからも言えることであります。

たとえば、あのゲッセマネの園で主イエスが苦しみ悩みの中で父なる神に「どうかこの苦き杯をとりのけてください」と祈っているときに、三人の弟子達は眠りこけていた。それに対して、マルコとマタイは「まだ眠っているのか、休んでいるのか」と叱り、人間の弱さを暴露し、叱責する書き方がなされているのにのに対して、ルカによる福音書では、「彼らが悲しみのはてに寝入ってるのをごらんになって」と記しているのであります。

「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」という言葉は同じですが、弟子達の眠りに対する理解の違いがそこにはあります。

 あるいは、ペテロがイエスを三度否む記事でもマルコとマタイ福音書では、そこに人間の弱さと罪に対する厳しい見方が示されておりますが、ルカによる福音書では、三度目にペテロが主イエスを否認すると、「鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた」ということを記すのであります。

マルコによる福音書もそうですが、特にマタイによる福音書は、人間の罪を深刻に捉えております。人間の罪を神がどんなに深刻にお考えになっているか、そのためには、どうしてもひとり子イエス・キリストの身代わりの死、代償の死、償いの死が必要であると神はお考えになっていることを強調するのであります。

 義なる神が人間の罪をどうしてもそのままただで赦すことはできない、それで神はご自分のひとり子であるイエス・キリストを十字架において償わせたのだというのがマルコとマタイによる福音書の理解であります。その事をあの十字架の上での主イエスの最後の叫び「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びの中で、聞き取っているのであります。

 それに対してルカによる福音書は、人間の弱さを深く見つめたのだと言えるかも知れません。もちろんその弱さは人間の罪と深く結びついております。しかし、マタイによる福音書がどちからと言うと、人間の自己主張というところから人間の罪をみようとしているのに対して、ルカによる福音書では、自分を自分で守らないと生きていけないのだと考えている人間の弱さに人間の罪があると考えているかも知れません。

 自己主張というよりは、自己防御のなかに人間の罪をみようとしていると言ったらいいかも知れません。

パウロは今、その神の愛について述べるのであります。パウロはユダヤ人のなかのユダヤ人でしたから、大変自己主張の強い人間でしたから、キリストの十字架をまず何よりも神の義のあらわれとして理解し、それは人間の罪に対する徹底した裁きと赦しとして捉えたのであります。

 そうしてパウロもまた自分の弱さをよく知っている人間であります。ここに来てパウロは「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは時いたって、不信心な者たちのために死んでくださった」といい、そのことをすぐ言い直して、その弱さこそ、われわれの罪そのものであり、「われわれ罪人のために、キリストは死んでくださったことによって神はわたしたちに対する愛を示されたのである」というのであります。

パウロがここにきて、神の愛をもちだしたのは、ここで、「艱難」ということにふれたからであるかも知れません。三節から、救われた者は、「そればかりでなく、艱難をも喜ぶのだ」という。そしてその艱難は忍耐を生みだし、忍耐は練達を生み、練達は希望を生みだすのだ、なぜならわたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからであるというのであります。

 艱難に耐える力は、神の愛に支えられる以外にないのであります。神の義というだけでは、どうしても艱難に耐えられないのではないかと思います。しかもその艱難に対して、なにか力で克服しようとするのではなく、あくまで忍耐してそれを受け入れようとする、その時にどんなにわれわれはわれわれの背後でわれわれを支えてくれる愛を必要とするかということであります。

もう一つ、ここでパウロが神の愛を持ち出している理由は、ここでの問題は神との平和、神との和解ということが問題になっているからではないかと思います。一節で、「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」といい、さらに、一○節で、「もしわたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」というのであります。

 救われるということは、神との和解を得ることだというのであります。神に義とされるということも、神との正しい関係に入るという意味であります。義という言葉には、そういう正しい関係という意味をもった言葉であります。

 誰かと和解する、その時に必要なのはなにでしょうか。たとえば、借金があったり、なにか不義があって、その人の関係がうまくいかなくなっている時に、その人と和解する時に必要なことはなにでしょうか。

 まずその不義を取り除くことであります。借金なら、その借金を返済する、誰かが支払ってくれる、その不義を取り除いてくれる必要があります。つまり、そこに、「義」が必要となります。

 しかしそれだけで、本当に仲直りができるだろうか。和解が成立するだろうか。和解はできた、しかしその後は、もうその人とは一切関係がなくなるということ、もうその人との交際は一切なくなるというのでしたら、それは真の和解とは言えないのではないかと思います。

 そこに真の和解がなされるためには、和解してくださるかたの赦しと愛がどうしても必要になると思います。単なる和解文書が成立しても真の和解にはならないのであります。

 十字架は、神ご自身がわれわれの負債を払ってくださって、神みずから和解文書を作成してくださり、そしてその和解文書に神みずから笑顔をもって出席してくださって、心からの赦しの態度を示してくださって、その文書に署名してくださったということであります。

 和解が本当の和解になるためには、和解してくださる者の愛が、赦しがなによりも必要なのであります。パウロがここで、神の愛を強調するのは、そのためではないかと思います。

 キリストはわたしたちがまで弱かったころ、不信心な者たちのために死んでくださったのであります。信仰深い者のために死んでくれたというのではないのです。不信心なもの、われわれのためにキリストは死んでくれたのであります。

 正しい人のために死ぬものなんか誰もいないとパウロはわざわざいいます。善人のために死ぬ人はあるいはいるかもしれないが、正しい人のために死ぬ人なんかほとんどいないだろうとパウロは言うのです。

 この言葉はその後に出てくる、「しかし罪人であった時に」キリストは死んでくださったとことを強調するための言葉であります。つまり常識的に考えて、罪人のために死ぬ人など絶対にいないのに、キリストはそうしてくださったといって、キリストの愛を強調しているところであります。

 しかしこの「正しい人のために死ぬ者はほとんどない」という一句は、パウロの心情が現れているところではないかと想像いたします。

 かつてパウロは正義の人だったのです。自分は正しい人間だ、その誇りにあふれていた人でした。そのためにクリスチャンを迫害していたのであります。その時パウロはイエス・キリストの十字架を少しも理解できなかったのであります。自分は正しい人間であると自負している限りはどうしてもキリストの十字架は理解できなかった、そういう思いがここには込められているのではないかと思います。

 もし、われわれが自分の正しさに固執しようとするならば、キリストの十字架は絶対にわからないのであります。