「将来も救われる救い」  ローマ書五章一ー十一節


  今日は少し変な説教題をつけました。もう少しぼんやりした題をつけたかったのですが、どうも思いつかないので、やはりこの題が一番ふさわしい題だと思いましたのでそのままに致しました。

 われわれはキリストの十字架によって救われたのであります。それはもう間違いはないのであります。しかしその後、どうなるのか、それは救われたわれわれの一番の関心事になるのではないかと思います。

 救われた後の将来はどうなるのかということであります。それはちょうど、刑期を終えて、刑務所から解放された者がそのまま世間に放り出されて、これからどうやって生きていこうかという問題と同じであります。

 確か、刑を完全に終えて、刑務所から釈放された人は別かも知れませんが、いわゆる仮釈放された人は、そのあと、保護司とかがつくのではないかと思います。あるいは、この制度は青少年に関してだけかも知れません。辞書を引きましたら、法務大臣の依嘱により、犯罪者の改善、更正を助け、犯罪を予防するための保護観察に当たる民間人、と出ておりますから、必ずしも青少年に限らないのかも知れません。

 ともかく、刑を免除されて、刑務所から解放された、その後どうなるのか、就職できるのか、それよりも犯罪を犯したくなる自分の邪な心の動きをどう処理したらいいか、不安であります。

 イエス・キリストの十字架による罪の赦しは、われわれの過去に関しての罪についてだけ言えることであって、今までの罪は赦してあげるから、これからは改心して、悔い改めて、今後絶対に罪を犯してはならない、今度罪を犯したら、今度は地獄行きだぞ、というのであるならば、われわれは大変不安なのではないでしょうか。

 われわれは罪赦された、だからといって、われわれは一気に自分の性格がそこで一変したわけでないことは、われわれが一番よく知っていることであります。われわれが罪赦されたということは、われわれが罪を犯したそのわれわれ人間がまるごと赦され、受け入れられ、よしと言ってもらえたということなのであって、ただちに別の人間に造り替えられたわけではないのであります。そういう罪を犯した可能性をもった自分を抱えながら、これからも生きていかなくてならないのであります。

 しかしそれならば、十字架による罪の赦しは、もうお前の罪は赦した、あとはもう何をしてもいいぞ、ということなのでしょうか。そうでないことはあきらかであります。そんなことでは、本当の罪の赦しにはならないし、罪から解放されたとは到底言えないはずであります。

 あのヨハネ福音書にあります、姦淫を犯した現場を捕らえられてイエスのところにつれられて来た女の記事を思い出してください。人々はイエスに「こういう女は石で打ち殺せと、律法では言われているが、あなたどう思われますか」と言った時に、イエスは始め何も言わずに黙っていた。何度も問うので、イエスは「あなたがたのなかで罪のないものがこの女に石を投げつけるがよい」と言われた。すると老人から始めて、みんなそこを去っていったというのです。そして女とイエスだけになった。

 その時イエスはなんと言ったか。「女よ、みんなはどこにいるか。お前を罰する者はなかったのか」と言う。女は「主よ、だれもございません」と、答えますと、イエスは「わたしもお前を罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言われたと記されているのであります。

 この女はこの後、修道院に入ったわけではないのです。またあの姦淫という罪を犯してしまった生活に「帰る」わけであります。そのなかで罪を犯さない生活を始めなくてならないわけです。それが罪の赦しということであります。

 罪は赦してあげる、後はもうどんな生活をしてもいいぞ、というのではないのです。イエスは「わたしもおまえを罰しない。お帰りなさい、今後はもう罪を犯さないように」と、言われて、女をもとの生活に帰すのであります。

 われわれはその「今後はもう罪をおかさないように」というイエスの言葉をどのように聞き取るかであります。この女はどのように聞き取ったかであります。一度は赦された、しかし今度罪を犯したら、もう赦されないのだぞ、という警告の言葉として聞き取っているか。「仏の顔も三度まで」という言葉がありますが、イエス・キリストの顔も三度までしか拝めないのかということであります。

 この女はこのイエスの言葉を決して警告の言葉として、今度罪を犯したらもう地獄行きだという脅しの言葉として聞き取ったのではなく、「これからお前は自分の弱さと戦い、自分の罪と戦ってゆきなさいよ」という励ましの言葉として聞き取ったのではないかと思います。

 それは何もイエスから言われないで、つまりイエスから「お前を罰するものはいなかったのか。わたしもお前を罰しない」といわれただけで、帰されるよりは、「今後はもう罪をおかさないように」と言われて帰されたほうが、女にとってどれだけ救われた気持ちになったかわからないと思います。

 それは「今後はもう罪をおかさないように」というその言葉があることによって、イエスは自分の将来のことも心配くださっておられる、自分はイエスから見捨てられていない、イエスから期待されている、そう強く感じたに違いないからであります。

 そしてこの女は、その後、絶対に同じあやまちは犯さなかったと言えば、決してそんなことはないと思います。人間というのは、そんなに一気に変わるものでもないし、一気に変わるというほうがおかしいので、一気に変わるということは、なにかそれこそ、マインド・コントロールにかけられるようなのものであって、かえって危険なものを感じます。

われわれが罪赦されるということは、あの罪を犯した自分の弱さをかかえたまま、その自分が神によって赦されて、受け入れられて、そうして自分のペースで自分の罪と戦いながら、罪を犯さないように生きていくということではないかと思います。自分のペースで戦う、ということが大事だと思います。

その場合、その自分の罪と戦う力の源泉はなにかであります。自分の意志の力など頼りになんかならないことは自分でもよく知っております。自分の悔い改めの決意の強さなどというものが頼りにならないことはわれわれはよく知っているのであります。

 それではわれわれを罪と戦わせる力はなにか。それはイエスの「わたしもあなたを罰しない」という罪の赦しの宣言であり、「今後はもう罪を犯さないように」というわれわれの将来をイエスが期待しておられるというイエスの励ましであります。

 罪赦された後、われわれは放り出されたのではなく、その後も神によって期待され、神に守られているのであります。その後の救いも保証されているのであります。われわれのただ過去の罪が赦されただけでなく、われわれの将来も赦されている、そうでなければ、われわれの現在の罪の赦しは力を失ってしまうのではないかと思います。

 つまり、過去の罪が赦されているということは、変な言い方かもしれませんが、われわれの将来犯すかも知れない、いや必ず犯すに違いない将来の罪も赦されるということであります。そういう確信を与えられているということであります。そうでなければ、われわれの現在の救いもないのであります。

 それは欲張りではないかと言われるかも知れませんが、われわれはそれほど自分の将来にも自信はないのです。パウロもそのことはよく知っているのであります。

 五章の八節からみますと、「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」とパウロは言った後、こう続けるのであります。

 「わたしたちはキリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」と、われわれの将来の救いも約束するのであります。

 そしてその将来の救いの保証は、今までの罪は赦してあげる、後はお前のこれからの生き方の姿勢に関わるのだというのではないのです。われわれが罪人であった時、われわれが神の敵であった時でさえ、神から赦され、神が和解の手をさしのべてくださったのだから、救われた今は、なおさら、イエス・キリストによって神の怒りから救われるではないか、と将来の救いの保証もあの十字架において示された神の愛とは別物のではないのであります。

あの過去の罪を赦してくださったキリストの十字架と同じ恵みが将来も保証してくれるのであります。つまりそこで示された神の赦しと愛をわれわれが信じ通していく、その信じ通す信仰が一番大事であり、われわれの将来の救いを保証してくれるものなのであります。

 「キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われる」といわれております。「神の怒り」はどこに注がれるのでしょうか。神はわれわれの何に対して怒るのでしょうか。

 あのマタイによる福音書にあるタラントのたとえを思い出していただきたいのであります。あそこで、みんなが五タラント、二タラントを与えられていながら、自分には一タラントしか与えらなかったしもべの話であります。

 そしてその一タラントを与えられた者はその一タラントをなくしてはいけないと思って、それを主人が帰るまで、地面に埋めておいたというのです。それで主人が帰って来た時に、その一タラントをそのまま差し出したら、主人からひどく怒られたという話であります。

 主人はその人に対して何を怒ったのか。それはその一タラントを託された人間が「わたしはあなたがまかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人である」と思って、この一タラントで商売して失敗してこの一タラントをなくしてしまったら、この主人からさぞかし叱られるだろうと、「恐ろしくなって」地面にその一タラントを隠しておいたというのであります。

 主人はそのことを怒ったのであります。「どうしてお前はわたしのことをそんな残酷な主人だと思ったのか」ということで、嘆き怒ったのではないかと思います。

 こちらは、その人のことを赦したいと思っている、なんとか愛したいと思っている、しかし相手が自分のこの気持ちを信じてもらえない、理解してもらえない、われわれはその時一番悲しいのではないか。一番怒りたくなるのではないでしょうか。どうして自分の愛がわかってもらえないのかと嘆き、怒りたくなるのではないか。

イエス・キリストがいよいよ自分が十字架につく時、エルサレムの人々に向かってこういうのであります。「ああ、エルサレム、エルサレムよ、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で撃ち殺すものよ、ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。」どうしてお前達は父なる神の愛をわかろうとしないのかと言って嘆くのであります。いや、怒るのであります。

 神の怒りから救われるためには、われわれが神の愛を、十字架において示された神の赦しを信じ切ることであり、信じ通すことなのであります。それがわれわれの将来の救いを確かにする保証なのであって、それ以外の保証はないのであります。

 テサロニケへの第一の手紙の一章の一○節に、「死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出してくださるイエスが、天からくだってこられるのを待つのである」と言っております。「きたるべき怒りから救い出してくださるイエス」と言われています。

 「きたるべき怒り」とはわれわれが最後の審判で裁かれる裁き、終末の裁きのことであります。その時にわれわれが救われる保証は、十字架についてくださったイエス・キリスト以外のものではない、そのイエス・キリストが終末の時にもう一度来てくださってわれわれを励まし、とりなしてくださるのだというのであります。そしてここでは、「死人の中からよみがえった神の御子、イエス」と言われております。

 ローマ書五章でも「わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」と、ただ十字架で死んだイエスというだけでなく、その死からよみがえったイエスのいのちについて言及しそれがわれわれに救いの確かさを保証するのであります。

 それは十字架の価値を低めるのではなく、その御子の十字架こそ、われわれの救いの根拠なのだという証が、神がその十字架で死んだイエスをよみがえらせたということなのであります。復活はは十字架の価値を低めるものではなく、それをよりいっそう高めるものであります。

 さらにパウロは、われわれの将来の救いの確かさについて、このローマ人の手紙の事実上の終わりとも言えます八章の三一節からこういうのであります。「それではこれらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。

 ご自身の御子をさえ、惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をもたまわらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされたのである。

 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、またわたしたちのためにとりなしてくださるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」というのであります。

 ここでも、「キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって」と、キリストの復活について述べて、キリストの死による救いの確かさをわれわれに保証してくれるのであります。そしてわれわれをキリストの愛から離れさせるものはなにもない、というのです。艱難も苦悩も、迫害も離れさせない、といった後、「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも、将来のものも」と、「将来のものも」われわれをキリストにおける神の愛からはなれさせないというのであります。

 そしてローマ書五章にかえりますと、パウロは最後に、「そればかりではなく、わたしたちは今や、和解をえさせてくださったわたしたちの主イエス・キリストによって神を喜ぶのである」といいます。

 「神を喜ぶ」というのは、「神を誇る」という意味でもあります。これはわれわれの救いに関しては、こと救いに関しては、神のみを誇り、神ののみを喜ぶということであります。われわれが自分を誇ったり、自分のことで喜んだりしてはいけないという、そんな禁欲的なことをいっているのではないのです。

 われわれはなにかを達成した時には、大いにというか、素直に自分のことを喜んでいいし、誇ってもいいのであります。昨年の流行語で、マラソンの有森選手が銀メダルをとった時に、「自分で自分をほめてあげたい」と言った言葉が流行語の賞をもらったそうですが、「自分で自分をほめてあげたい」という表現は、なにかとても淋しい表現だとその時思ったのですが、みんなにほめてもらえばいいと思います。みんなに喜んでもらい、多少は自分を誇りに思ってもいっこうに差し支えないのです。ただ、ことわれわれの救いに関しては、このことだけは、「神を喜ぶ、神を誇る」ということが大切なのであります。