「イエス・キリストの従順によって」 ローマ書五章一二ー二一節


 「ひとりの人によって罪がこの世に入り、そしてその結果死もすべての人に及んだのだ」とパウロはいうのであります。そしてその後に、同じように「ひとりの人によって救いがすべての人にもたらされたのだ」というのであります。
 
 パウロが言いたいことは、こっちの方なのであります。このひとりの人というのは、イエス・キリストのことであります。同じひとりの人によってなのですが、アダムの行為に比べるとイエス・キリストの及ぼす影響の方がはるかに大きいというのであります。今影響という言葉を使いましたが、本当はパウロは影響というような生ぬるい言葉ではなく、支配という言葉を使っております。

 このところの議論は、われわれにとっては、なにか屁理屈をならべているような感じを受けるところであります。ユダヤ人を説得するためには、どうしてもこうした議論が必要だったのかもしれません。ひとりということで、アダムとイエス・キリストとを対比させ、さらに罪と義、死と命を対比させているのであります。

 ただここでパウロが言いたいことははっきりしております。それは一人の人の生き方の大きさであります。

そこにひとりの人がいる、そこにひとりの罪人がいる、それによってどんなに周りの人が影響されてしまうか、支配されてしまうかということであります。その罪人の影響を受けて、その罪人の真似をする人がでてくるでしょうし、またそこにひとりの罪人がいると、その罪人をどう扱うかで、またさらに罪を重ねる、復讐心を引き起こす、あるいはその人を裁くということでかえって罪を深めてしまうということであります。

 それならば、ひとりの人の存在によってわれわれが救われ、義とされるということは、それと同じように、そのひとりの人の生き方を真似たりすることによって、われわれは救われ、義とされるということなのでしょうか。

 われわれが救われるということ、自分の罪から解放されるということは、イエス・キリストが歩まれたように、われわれも歩むことによって救われ、義とされ、命に満ちた生き方をすることができるということなのでしょうか。
 ひところは、よく「キリストの模倣」つまりイエス・キリストの生き方を真似るということですが、そういうことが、よく言われたものであります。イエス・キリストはわれわれの生き方の模範なのであって、イエス・キリストの真似をして生きることによってわれわれは救われるのだ、ただ信じるだけではなく、キリストの真似をして生きてみないと救われないのだといわれたのであります。ここで言われていることもそのことなのでしょうか。

 このごろの若い人はわかりませんが、われわれの年代は若いときはだれでも一度は英雄伝、偉人伝というものを一生懸命読んだのではないかと思います。そうして自分もそういう人生を歩みたいと思ったものであります。われわれの世代では、一番の英雄はシュバイツァーであり、あるいはガンジー、日本人では野口英世であったかもしれません。

 しかしわれわれはそのうち、自分は英雄にはなれないのだということをいやというほど知らされて、若いときに夢中になって英雄伝を読んだ分だけ、自分は英雄になれないという挫折感が大きかったのではないかと思います。

 パウロがここでイエス・キリストというひとりの人の生き方を持ち出しているのは、イエスもわれわれが真似るべき英雄の一人、偉人のひとりだというのでしょうか。その人の生き方を真似て、救いの境地に達しなさいと言っているのでしょうか。

 イエス・キリストが「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」という言葉があるではないか、そのように自分を捨てて、自分の十字架を負うて、キリストに従う時、われわれは救われるのだ、そういう意味ではこの一人の人、イエス・キリストはわれわれにとって大切な人なのだというのでしょうか。

 しかしここには、そういうことは一言も述べられていないのです。ここでは、支配されるということがいわれているのです。われわれはアダムというひとりの人の罪によってすべての人が死に支配されてしまっているということなのであります。

 それと同じように、ひとりの人イエス・キリストによって救いが、命が、われわれに及ぶのだ、罪を犯したわれわれすべての人に及ぶのだということ、つまりそれは支配されるということがここで言われているのであります。

 ここではわれわれは徹底的に受け身であります。一八節「ひとりの義なる行為によつて、いのちを得させる義がすべての人に及ぶ」とか、一九節「ひとりの従順によって、多くの人が義人とされる」というので、これはみなわれわれがなにかをすることによってではなく、われわれの方はもう全くなにもしないで、いやもう何もできなくて、ただ一方的に受けることによって、そのかたの行為のお陰を被ってということであります。われわれがイエス・キリストの真似をしなさいということではないのです。

 イエスを英雄の一人のようにして、そのイエスの真似をして生きなさいということではないのです。

 イエスは決して自分は英雄になろうとしなかった人であり、この世の人々は人の上に立とうとしているが、お前たちはそうであってはならない、偉くなろうする人は人に仕える人にならなくてならない、人のしもべにならなくてならない、と弟子たちに教え、そうして自分も人を仕えさせるためではなく、人に仕えるためにこの世にきたのだと言われたのであります。

もし英雄伝とか偉人伝とかというものの効能があるとすれば、それは自分は絶対に英雄になれないと思わせられるということ、そういう深い挫折感を味わうことにあるのではないか。

 聖書のなかにも、青春時代に聖書を読み始めた人は、たいてい主イエスの「こころの清いものはさいわいである」とか、「狭い門から入れ」とか、「右の頬をぶたれたら、ほかの頬を差し出しなさい、敵を愛しなさい」とか、「わたしについてきたいと思うならば、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」という言葉に惹かれて聖書を読み、そしてやがてそうなれい自分に気づいて挫折感を覚えるのではないか。しかしそうした挫折感を覚えるということは、大切なことかもしれません。

 聖書を、主イエスのそうした言葉をわれわれに命じる律法的な言葉として読むということも大事なことかも知れません。しかしただそれだけでは救われないのです。聖書には、われわれに罪を自覚させるという一面があります。しかしそれは一面にすぎないのであって、そう読むだけではわれわれは救われないのであります。

先週の説教でもふれましたが、後にパウロが律法の問題にふれていうのですが、「自分の中には善を欲する意志はあるが、それをする力がないのだ、自分の欲する善はこれをしないで、欲しない悪がこれを行ってしまう。わたしはなんという惨めな人間だろう。だれがこの死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」と嘆き、そして一気に「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」と飛躍してしまう、救われてしまう、この間になにがあったのだろうか。

それはもう自分では自分の罪をどうにも処理できなかった、誰かがこの自分を救ってくださいということ、自分を誰かに明け渡してしまうということ、つまりこれが信仰ということでありますが、この明け渡し、自分を空っぽにしてましう、難しい言葉を使うと、自分を空洞化すること、この時に不思議な力が自分のなかに起こるのであります。聖書はそれを聖霊の働きとか、聖霊の導きというのであります。

 自分の身代わりにこのひとりの人、イエス・キリストが死んでくださったのだといういうこと、そのひとりの人イエス・キリストを受け入れることによって、われわれは救われるのであります。

 このかたはどのような生き方をしたのか、どのような死に方をしたのか、どのような行為をしたのでしょうか。

 パウロは「ひとりの義なる行為によって」といっております。あるいは、「ひとりの従順によって」と言っております。

 主イエス・キリストのなした行為とは、あくまで自分を主張しないで、父なる神に従順に従ったということでした。死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であったということであります。それがキリストの謙遜ということであり、キリストの義なる行為でした。

 父なる神に従順に従ったということは、父なる神に信頼して、だから自分を捨てて、神に従ったということなのであります。これがわれわれに救いをもたらしてくださったのであります。

昔は「キリストの模倣」ということが盛んに言われました。これは、トマス・ケンピスという人が書いた書物です。この時代はまだ人間というものが信じられた時代でした。しかしだんだん人間性というものが信じられなくなってからは、そうしたことは言われなくなったのであります。

 今世紀に入って、ナチズムに抵抗して獄死したボンヘッファーが「服従」ということを説いて、われわれはただキリストを信じるのではなく、キリストに従う、キリストに服従するということにまでいたらないとだめだ、キリストに服従すること、それがキリストを信じるということだといい始めたのであります。

 これはキリストの模倣という、まだ人間性が信じられた時代の楽天的な勧めではなく、第二次世界大戦をへて、むしろ人間というものが全く信じられなくなり、人間の罪をいやが上にも深く知らされたボンヘッファーが言い出しているので、今日のわれわれにも説得力がある勧めなのであります。

 確かにキリストを信じるということは、キリストに従うということが伴うことであります。そういう意味では「わたしについてきたいと思うものは、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい」という主イエス・キリストの言葉は単なる律法的な言葉ではなく、福音の内容を語っている言葉であります。

 しかし「服従」という言葉よりは、ここでパウロが語っている「従順」という言葉のほうが間違いを起こさせない言葉なのではないかと思います。日本語の響きの問題かもしれませんが、「服従」という言葉からは、なにかこちらが歯を食いしばって従うという、こちらの頑張りをどうしても連想させるからであります。

 それよりは「従順」という言葉、父なる神に従順に、つまり謙遜に従っていく、という響きのほうがふさわしいように思われます。従順という姿勢の方が、服従という姿勢よりは、相手に対する信頼のほうに力点がおかれているように感じられるからであります。

聖書には、イエス・キリストを真似しなさい、イエス・キリストはわれわれの模範である、だからイエス・キリストに従いなさいと勧められているところが何カ所かあります。

 その一つはいま「キリストの従順」ついて言っているところです。

 ピリピ人への手紙の二章のところです。「おのおの自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」と、キリストの真似をして生きなさいと勧めているのであります。

 しかしその後半はどうなっているかといいますと、「キリストは神のかたとであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順になられた」となっているのであります。

 つまり前半はキリストの真似をしなさいと勧めているようですが、後半はいつのまにか「主イエス・キリストは主である」と告白しなさいという勧め、そしてそのイエスは最後まで父なる神に従順に歩まれたイエス、そのイエスを「主キリスト」として告白しないさいとなっているのであります。

 つまり大事なことは、イエスの模倣ではなく、イエスをキリストと告白することなのだということであります。

 もう一つ、ペテロの第一の手紙の二章一八節以下のところであります。そこでは奴隷に対して善良で寛容な主人だけでなく、気むずかしい主人にも従いなさいと勧められ、キリストもそうだっではないかといい、そしてこういうのであります。

 「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」というのです。キリストはわれわれの真似るべき模範だというのです。

 そしてその後なんというかと言いますと「キリストは罪を犯さず、その口には偽りはなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。

 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたはいやされたのである。あなたがたは羊のようにさ迷っていたが、今はたましいの牧者であり、監督であるかたのもとに、たち帰ったのである」となって終わっているのであります。

 ここでももう最後はキリストの真似をしなさいという勧めではなく、キリストこそわれわれの救い主で、真の牧者で、監督者であるから、このキリストのもとに帰りなさいという勧めの言葉で終わるのであります。

 イエス・キリストはわれわれにとって決して単なる模範ではなく、われわれが模倣すべきかたでもなく、なによりもわれわれの救い主なのであります。われわれはこのひとりのかた、イエス・キリストによって救われたのであります。