「罪の増すところに恵みも増す」 ローマ書五章一二ー二一節


 五章の二○節からの所はなかなか理解しにくいことが言われております。一つは「律法が入り込んで来たのは罪過の増し加わるためである。」ということです。

 律法というのはもともとは神が人間に与えたものであります。それがどうして罪を増し加えることになったのかということであります。そして、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」というのです。これもわかりにくいところであります。

 なにかわれわれが悪いことをすればするほど、神の恵みがわかるということで、それではまるで罪を犯すことを奨励しているような気がするからであります。
 現にこれを受けて「では、わたしたちはなんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」と言い出す人がでてきたというのであります。六章一節

 「律法が入り込んで来たのは罪過の増し加わるためである」とはどういうことなのでしょうか。神様はわれわれ人間に罪を増加させるために、わざわざ律法を人間に与えたのだということなのでしょうか。

 律法は人間が神に従って正しい生活をするようにと、神が与えたものである筈であります。それなのにここでは、神は人間の罪を増加させるために律法を与えたのであるとなっているのであります。これはどういうことなのか。

 ここはパウロが自分の経験を踏まえて語っているところであります。律法と罪との関係は七章にもっと詳しくパウロは語っておりますので、ここのところではあまり深入りするのをやめますが、そこではパウロは自分の経験を踏まえて、こう言っております。

 「罪は戒め(律法)によって機会を捕らえ、わたしのうちに働いて、あらゆるむさぼりを起こさせた。すなわち、律法がなかったならは、罪は死んでいたのに、戒めがくるに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ」とパウロは書いているのであります。

 律法がなければ人間はもっと素朴でいたのだ、素朴に神に従っていた筈だといわんばかりなのであります。

 神は人間に罪を犯させるために律法を与えたのではもちろんないのです。人間を正しく導くために律法を与えたわけであります。しかし与えられた人間が邪なために、結果的には律法は人間に罪過を増し加えることになってしまったということであります。

 ですから、結果的には、律法は人間に罪過を増し加えることになってしまったということであります。それがここで記されております、「律法が入り込んで来たのは、罪過が増し加わるためである」の「ため」という意味であります。

 パウロは律法が「入り込んできた」と言っております。「入り込んできた」というのは、まるで余計なものが入り込んできたんだという思いが感じられるところであります。

 よく言われることですが、「この芝生に入るべからず」という立て札があると、かえって人は芝生にはいりたがるものだといいます。それと同じように、律法でこうしてはいけないと明確に言われると、人間はそのの律法に反することをしたくなって罪を増し加えるということなのだという説明がされます。

 そういう面も確かにありますが、しかし「この芝生に入るべからず」と書いてあったら、その芝生に入らない人のほうが多いと思います。ですからこういう説明はあまり有効とは思えません。

 そういう説明よりは、ここはこういう意味ではないかと思います。律法でこうしてはいけないと、はっきりと明確に記されると、罪が罪として認識されるということ、つまり罪が罪として自覚されるということであります。一三節にあるように、「律法がなければ、罪は罪として認められない」ということであります。

 それにならっていえば、「律法が入り込んで来たのは、罪過の増し加わるためである」というのは、「律法が入り込んで来たことによってわれわれにとって罪の『自覚』がいよいよ倍加した」ということであります。罪の自覚が増加するということであります。そして罪の自覚が深まれば、われわれはそれだけで救われるのかといえば、そんなわけにはいかないということなのであります。

 罪の自覚が深まれば、われわれはすぐ悔い改めて神に近づくかと言えば、われわれはますます神から遠ざかってしまう、それが問題なのであります。

主イエスが話されたたとえに「自分を義人だと自任して、他人を見下げている人たち」について話された話があります。
 ここには律法が入り込んで来たために、人間の罪が増し加わった二つの面が言われております。

 ここではふたりの人が祈るために宮にあがったというのです。ひとりはパリサイ人、ひとりは取税人であった。パリサイ人はこう祈った。「神よ、わたしはほかの人のような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一を捧げています」と言って祈ったというのです。

 こんなパリサイ人が神によって義とされたり、救われるはずはないことはわれわれもすぐ気がつくと思います。主イエスもこんな人は救われないのだ、義とされないのだというのです。

 これはまさに律法が入り込んできたために陥る人間の罪の一つの姿であります。律法があるために、人は律法を守ることによっと自己を誇り、そればかりでなく、律法を守れない人間を軽蔑し、差別し、裁いていくのであります。これはまさに律法があるために人間はまます罪を増したということであります。

 それに対して、取税人はどうしたか。彼は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸をうちながら「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と言ったというのです。

 この取税人は確かに自分の罪の自覚は深いのです。だから、神様の目から遠く離れて立たざるを得なかった、目を天にむけることもできずに、胸をうちながら、うなだれる以外になかったのであります。彼は罪の自覚はあった、だからといって、ただちに救われたわけではないのです。ますます落ち込んでいったのです。ますますうなだれていったのです。ますます神から遠く離れていったのであります。

 少なくも彼自身の感じからすると神から遠くに自分はいると思っているのです。

 彼が救われたのは、その後主イエスが「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった」という主イエスの言葉を聞いた後であります。

 取税人はパリサイ人にくらべれば、確かに神にずっと近いところにいたと思います。彼は自分の自覚から言えば、神から遠く離れていたでしょうが、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈っている、祈っているということから言えば、決して遠いところにいたわけではないのです。

 しかしそれでも彼がそのことに気がつかずに、天に目をあげることをしないならば、まだ救われたとは到底いえないのであります。

 罪の自覚だけでは、われわれは救われないのです。むしろわれわれを死に追いやるだけではないでしょうか。絶望に追いやるだけなのではないではないでしょうか。

二一節の「罪が死によって支配する」とは、そのことを言っているのではないでしょうか。つまり罪を犯すと、われわれは地獄に滅ぼされるのではないかと恐れる、それが罪を犯した人間にとっての死なのであります。実際に地獄に落ちるということではなく、地獄に落ちるのではないかと恐れおののく、それが罪が死によって詩はするということであります。それは人間を救いに導かないのです。われわれを絶望に陥れるだけです。

ここでちょっと考えてしまうのは、罪を犯すすべての人にとってそのことが言えるかということなのです。いわゆる極悪非道といわれる人間は死とか地獄とか神の裁きなどはなんとも思っていないのではないか、この人たちにとっては、「罪が死によって支配し」という言葉はあてはまらないのではないかと思います。

 人は地獄に陥るのが怖いから罪を犯さないようになるのかと言えば、そんなことはないのです。

 つまりここでパウロが「罪が死によって支配する」という時、この罪というのは、ただ悪という意味ではなく、神様を知っている人間の犯す罪であります。

 つまりここでいう「罪が死によって支配する」ということは、罪を罪として自覚している人間にとってそう言えることであります。罪は死によって人間をますますおびやかす、お前は地獄ゆきだと人間を絶望に陥れる。そのようにして人間を恐怖によって支配するのであります。

 その時に恵みの光が上から来たのであります。主イエスの言葉が上からくだるのであります。「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではない」という言葉が、その罪の自覚で苦しみ絶望している人間に対して、自分の上から、自分の外から聞こえてくるのであります。

 「罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し」ということであります。

罪は死によって、お前は地獄ゆきだ、お前はだめだ、だめだ、お前はもう死ぬほかないのだと訴えるのに対して、恵みは「わたしはお前を赦す、お前をまるごと受けとめる」といい続ける、それが恵みは義によって支配し、ということであります。

 義というのは、神の義であります、すでに学びましたように、神の義とは神の愛であり、神の赦しであります。そのようにして「わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠の命を得させる」のであります。

 あのイソップの北風さんと太陽の話であります。厚い外套に身を堅くして縮こまって歩いている人を、どちらがあの外套を脱がせるかで賭をする。北風は自分の強い北風を吹かせて、外套をはぎ取って見せるという。しかし北風が強く吹けば吹くほど、彼はますます外套をしっかりと自分にまとい、ますます縮こまっていくのであります。それに対して、太陽がさんさんと照らすと、彼はその外套を脱いでしまったという話であります。

 恵みは義によって支配するのであります。そうしてわたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるのであります。

 そして最後に学びたいことは「罪過の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」ということであります。

 この「罪が増し加わったところには、恵みはますます満ちあふれた」というのは、これは罪を深く自覚しているパウロの実感なのであって、なにもたくさん罪を犯さないと恵みはわからない、というようなことではないのです。

 それならばなぜ「罪の自覚が深まったところに恵みがますます満ちあふれた」といわないのかということになるかも知れません。しかし、そういってしまっては、今度は自分の「自覚」がなにか恵みを知る資格のようになってしまうので、パウロはそう言わなかったのではないかと思います。

 そしてパウロはの実感から言った、そんな風に「罪の自覚が深まったところに、恵みがますます満ちあふれた」などという言い方ではなく、そのままずばり、「罪が増し加わったところに恵みが満ちあふれた」ということだったのです。

 罪赦された人間にとっては、本当にこの通りだからであります。