「恵みを増し加えるために」ローマ書六章一ー一四節

 
 「では、わたしたちはなんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。」とパウロは自ら問うています。これはパウロ自身の問いではなく、パウロに敵対する者のパウロをからかうための問いであるかも知れません。

 それはパウロが「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」と言ったからであります。罪を犯せば犯すほど、恵みが満ちあふれるのならば、それならば、ますます罪を犯そうではないか、と言い出すだろうと、パウロはあらかじめ予想して、そういう問いを持ち出しているのかも知れません。

カール・バルトという大変偉い神学者がここのところを解説して、こういうことを言っているのであります。

 「このような問いが現れてくるということは、まさにそこで述べられている福音が本物であることを示している。福音が正しく宣教されるようになると、必ず愚か者がこの問いを出してくる。

 もし彼らがこの問いを起こさないとしたら、少なくもそこで宣教されているものは、福音とは非常に違ったなにかであるのではないかと疑っていい。このような問いによって汚されない福音が正しい福音であることは困難である」と述べているのであります。

 これはまた大変過激な発言であります。「恵みが増し加えるために、もっと罪を犯し続けよう」という人がでてこないような福音の説きかたはないのだというのです。

 ではこういう問いが出てこないような福音の説きかたというのはどういう言い方でしょうか。たとえば、こういうふうに言ったらどうでしょうか。「神の無条件の罪の赦しというのは、今まで犯した罪についてだけ言えることであって、これからの罪については言えない。今までの罪は赦してあげるが、これからは頑張って罪を犯さないようにしなくてはだめだ、今度罪を犯したら地獄行きだ。」

 そういうように、罪の赦しを説いたとしたら、こういう問いは出てこないと思います。こういうふうに言われたら、罪赦された者は罪にとどまることはできないからであります。しかしそれは大変わかりやすい言い方ではありますが、それがキリストの十字架において示された神の恵みなのでしょうか。十字架の罪の赦しとはそんな常識的なことを言っているのでしようか。

 そう言われて、われわれは救われた気持ちになるだろうか。われわれはますます不安になるのではないでしょうか。今度罪を犯したら地獄行きだと言われて、救われた気持ちになるだろうか。

 それではかえって、もうはっきりとお前は地獄行きだと宣言されてしまうようなものではないでしょうか。かえって、われわれの不安は増すのではないかと思います。

 われわれにとって一番の問題は、罪を犯してしまったという、そこで行われた罪そのものであるよりは、そういう罪を犯してしまったわれわれ自身の問題、つまり、罪そのものよりもわれわれが罪人であるということが一番の問題だからであります。

 つまりわれわれのその時々の罪を犯さないというわれわれの意志の問題ではなく、そもそも罪を犯してしまうわれわれの人間性そのものが問題なのであります。この自分をどうしてくれるのか、それをわれわれは自分でもてあましているのが現状なのではないか。

ですから、「今までの罪はまあ仕方ない、赦してあげましょう、しかしこれからは駄目だよ」と言われて、「はい、そうですか」と言って、「これから自分を変えてみます」とはとうてい言えないということなのであります。

 十字架において示された神の恵み、罪の赦しという神の恵みは、罪を犯してしまったわれわれをまるごと神が赦しくださったということであります。神がわたしのまるごとを受け入れてくださったということであります。それは今まで犯した罪を赦してあげると同時に、これから犯すかも知れない、いやきっと犯すに違いないお前の罪もわたしは赦す、なぜならそういうお前をまるごとわたしは受け入れるからだという宣言なのであります。

 将来のお前もわたしは受け入れるということだからであります。なぜなら、われわれの将来というのは、われわれの過去を引きずっているわれわれの将来だからであります。それが義とされるということだからであります。

 つまり、義とされるということは、神との関係が義とされるということで、これからお前がどんなことがあってもわたしはお前を見捨てないということだからであります。どんなことがあってもわたしはお前の面倒を見るということだからであります。

 聖書には神はわれわれの保証人になってくださるという表現があります。保証人になるということはどういうことでしょか。われわれが誰かの保証人になるということは、その人がこれから、もしかしたらあやまちを犯すかもしれない、その時はわたしがその債務を引き受けますということを保証しますということであります。その人の将来に責任を持ちますということであります。

 だから、人の保証人になるということは、本当は大変な覚悟がいることなのであります。ある人の保証人になって、その人自身が身の破滅を招くということさえあるのであります。

 神がわれわれの罪を赦しくださって、義としてくださったということは、神がわれわれの保証人になってくださったということであります。

へブル人への手紙では、イエス・キリストはわれわれの保証人になってくださる大祭司であるといっている箇所があります。七章の二一節からのところです。「主は言われたが、心を変えることはされなかった。あなたこそは永遠に祭司である」と、神がイエスについて宣言している。

 そしてその後こういうのであります。「このようにして、イエスはさらにすぐれた契約の保証となられたのである。」そしてこのかたは「いつも生きていて、われわれのためにとりなしをしておられる、彼によって神に来る人々をいつも救うことができるのである」といっているのであります。「いつも」というのです。「いつも救うことができる」といっているのであります。

 そして、パウロはコリント人への第二の手紙の一章でこういいます。「わたしが宣べ伝えた神の子イエス・キリストは『しかり』となると同時に『否』となったのではない。そうではなく、『しかり』がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら神の約束はことごとく、彼において『しかり』となったからである。

 だから、わたしたちは、彼によって『アァメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである。あなたがたとともにわたしたちをもキリストのうちに堅く支えて、油を注いでくださったのは神である。神はまたわたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に聖霊を賜ったてのである」と言っております。

 イエス・キリストはわれわれに対して、もうこんりんざい「否」とはいわないのだというのです。「しかり」しか言わないというのです。「しかり」とは「わたしはお前を赦す」という「しかり」であります。そしてその保証としてわれわれに聖霊をくださったというのであります。

もう一つの箇所は、やはり同じコリント人への第二の手紙の五章にあります。そこでは、「われわれはこの地上では、重荷を負って苦しんでいる。そして天から賜るすみかを上に着ようとして切に望みながら、苦しんでいる。それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちをこの事にかなう者にしたくださったのは神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜ったのである。だからわたしたちは心強い」というのであります。

 そしてその箇所の結びの言葉は「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ、悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けなければならないからである」と言っているのであります。

 ここでは、われわれは最後の審判の時の裁きからは逃れられない、といっています。しかしその時でもそれはキリストの裁きの座なのであるから、ひとつも心配しない、心強い、というのです。なぜなら、神はどんなことがあってもわたしを見捨てないからだ、その保証を聖霊を通してしてくださったからであるというのであります。最後の審判の時にも神はわれわれを見捨てないのだというのです。

 それがキリストによる十字架の罪の赦しということであります。
パウロはこのローマ人への手紙の八章でも、「それではこれらの事についなんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。

 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。だれが神の選ばれた者を訴えるのか。神は彼らを義とされたのである。だれがわたしたちを罪に定められのか。キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなしてくださるのである。だれがキリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」と力強くいうのであります。

「だれがわたしたちを罪に定めるのか」というのです。もうだれもいない、いや、いたって、大丈夫だというのです。なぜなら、神がわれわれの味方だからであります。これが罪の赦しということであります。

 罪の赦しとは単にわれわれの過去の罪だけでなく、われわれが将来犯すかもしれない罪をも赦す、お前をまるごと引き受けます、ということであります。

 これをただ聞いた人は、つまりただ理屈として聞いた人は「それならば、恵みを増し加えるために、罪にとどまろう、もっと罪をおかそうではないか」というだろうと思います。

 しかし十字架の罪の赦しは、ただの理屈ではないのです。ただ法律的に罪が無罪放免になったということではないのです。これは無罪放免になったという法的処置ではないのです。罪をこのようにして赦してくださったという「かた」が自分の目の前におられるということなのです。

 順番であたる裁判官がただ法にのっとって無罪判決をくだしたということではないのです。裁判官ならばだれでもいいという裁判ではないのです。ここにははっきりとキリストという裁判官がおられるのです。あるいは、神という裁判官がいて、キリストという弁護士がいてくれる、そういうはっきりと顔をもったかたによって裁かれ、弁護され、そうしてわれわれが罪赦されたのであります。

 そういう裁判を受けた人が、罪赦されて、これはもうけものをした、裁判というのはちょろいものだ、これからも罪を犯しても安心だ、と言うだろうか、言えるだろうかということなのです。

 確かにそういう人はいるのです。それは主イエス・キリストも予想しているのです。あの主イエスのなさったたとえ話に、一万タラントの借金を許された者が、その帰り道、自分が百デナリ貸した人間からその借金を取り立てようとして、それを返せないというので、彼を獄にわたしてしまったという話がでてまいります。

 その男はまさに「恵みが増し加わるために、罪にとどまろう、いや、それどころか、罪をもっと犯そう」とした話を地でいったようなことかも知れません。しかし彼はその時、一万タラントを許された時、本当にそこで罪の赦しを主人から受けとったか、彼はただ、「しめた、これはもうけものをした」と思っただけなのではないか。

 ここには罪赦されたという感謝もなければ、感動もない、喜びもない、ただもうけものをしたという姑息な、ひとりほくそ笑むような卑しい喜びがあるだけなのではないか。

ドストエフスキーの小説にでてまいりますが、「すべての罪は赦されているんだ」とある人がいいますと、それを聞いた意地悪い神学生が、それでは「人を殺しても赦されるんだな」とからかいますと、彼はしばらく考えてから「すべての罪が赦されたことを知った人は、人を殺さなくなる、人を殺すことができなくなる」という、そういう場面がでて来ます。

本当に罪赦されたことを聞いた人は、そのことを単にコンピューターから聞くのではなく、顔をもった人格をもった裁判官から聞き取った人は今後罪を犯さなくなるだろうと思います。少なくともことさら罪を犯し続けるとか、罪のなかにとどまるということはできなくなるのではないかと思います。

 あやまちは犯すかも知れない。しかしことさら罪を犯し続けられるだうろか。まして恵みを増し加えるために、罪の中にとどまろうとか、罪を犯し続けようということは言えなくなるのではないかと思います。

 ある人が言っておりますが、「この問いの間違いの第一は、そのように罪を犯し続けて、恵みを増し加えることができるかということだ。恵みが与えられたのは罪のためであったことは間違いがない。しかしそれならば、罪は恵みの導き手になったかどうかである。この恵みは神の全く自由なみ心からでたものではないか」といっております。

 この恵みは神の与えてくださる恵みであります。それを人間が操作して増し加えさせるなどできる筈はないのであります。

さきほど、罪赦されるということは、過去を引きずっているわれわれの将来も神が赦してくだるということなのだといいました。しかし聖書には罪赦されたということは、キリストの死とともに、われわれの過去も死んだということなのだ、古い人は過ぎ去った、新しくなった、それが救われるということだと書いているではないか、といわれるかも知れません。

 現に、パウロは「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」と問うて、すぐその後、「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」と言っているのであります。

 そして六節をみますと「わたしたちの古き人はキリストと共に十字架につけられた」といっているではないか、それはもう自分の過去は引きずらない、新しい自分に生まれ変わったということではないかと言われるかも知れません。

 バプテスマを受けるということはそういうことであると言っているのであります。あの姦淫を犯した女に対しても主イエスは「わたしもあなたを罰しない、お帰りなさい、」といった後、「今後は罪を犯さないように」といったではないか、ということも確かであります。

 しか別の箇所では、パウロは「この幕屋の中にいる私達は、つまりこの地上にいる私達は、ということです、重荷を負って苦しみもだえている」と述べているのであります。

  われわれが自分の過去を完全に捨てられないで、過去を引きずりながら生きているということもまた、われわれの現実であります。このことについては、つまり、古い自分を捨てきって、新しくなったということはどういうことか、ということは、この次の説教でとりあげたいと思います。今日そのことに言及しますと、われわれは混乱してしまうかもしれない、いや、混乱というとおかしいですが、今日言いたいことが色あせてしまうことを恐れるのであります。

 今日は「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」という問いが自分自身の中から出てくる、そういう問いがでてくるような、福音の聞き取りかたを是非してほしいのであります。

 こんなありがたい福音というものがあるだろうかと、一度手放しで、なんの条件も留保もなしに、罪の赦し、全面的な罪の赦し、われわれの過去の罪ばかりでなく、われわれが将来犯すかも知れない罪もまた赦されるているのだという、全面的な罪の赦しを聞き取ってほしいと切に願いたいのであります。

 こういう問いが出てこないような福音の聞き方はないのだというカール・バルトの言葉を味わってほしいと願うのであります。こういう福音の聞き取りかたが、「わたしたちのうちの古き人はキリストと共に十字架につけられた」ということにつながることなのだと知って欲しいのであります。