「義に至る従順のしもべ」 ローマ書六章一五ー二三節


 一五節をみますと、「それでは、どうなるのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか」とパウロは再び自ら問うのであります。

 このような問は、すでに、この章の一節で、「では、わたしたちは、なんと言おうか、恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」と、問われたばかりであります。

 それもこれも、キリストによる罪の赦しということのあまりの恵みの豊かさがそのような問いを起こさせているのであります。それはわれわれ人間のほうから言ったら、なんの価も払わないで、ただで赦してもらう赦しだからであります。それは一歩間違えば、こんなうまい儲け話はないと思わせるような恵みだからであります。われわれはそういう話になれていないし、そういう話をあまり信用していないからであります。

 しかし、この恵み、この無条件の罪の赦しは、先週の説教でも申しましたが、当番制の裁判官が法律の条文にのっとって、無罪にして、それを判決文として読み上げたという無罪放免という罪の赦しではないのです。この罪の赦しは、赦してくださった神がおられる、それは当番制の裁判官、つまり裁判官ならばだれでもいいということではなく、ちゃんと顔をもった裁判官、そしてキリストというとりなし手としての弁護士がいて、その裁判官がわれわれを無罪放免にしてくださったという裁判なのであります。

 この無罪放免は従って、いつでもその裁判官とさその弁護士のもとに来る時、その罪の赦しが確認できることであって、そのかたから離れてしまっては、自分が罪赦されていることはたちまちあやふくされてしまうような罪の赦しなのであります。

 自分が変わったわけでもないし、自分がなにか清らかになったわけではない。ただ神がわれわれの罪を赦してくださったという神の深い、豊かなそして確かな意思にすべてはかかっているのであります。

われわれが罪赦されたということは、罪を赦してくださったかたがおられるということなのです。そうであるならば、そのかたから目をそらしてはいけないのです。そのかたのもとで生きなければ、そのかたに従順に従って生きていなければ、この罪の赦しはひとつも有効に働かないのです。

 「律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、罪を犯すべきであろうか、罪を犯してもいいことになるではないか」という問いは、この罪の赦しということをただ法律の条文に照らし合わせて、罪が問われないのだと考えているから、「罪を犯すべきであろうか、とか、罪を犯しても赦されることになる」という考えが出てくるのであります。

 「罪を犯すべきであろうか」という問いは、なにかわれわれが自分の意思で罪を犯すことができるような問いであります。罪を犯すも犯さないも、自分の主体的な意思にかかっていると考えているようであります。

 しかし罪を犯すということは、いかにも自分の自由な意思によるとわれわれは考えているかも知れませんが、本当はそうではないのです。罪を犯すということは、その罪の奴隷になることなのだと聖書はいうのです。われわれが罪を犯すのではない、罪のほうがわれわれに罪を犯させるのだというのです。

 聖書はいつでも罪の実体をそのように考えているのです。アダムとエバを誘惑する蛇の存在、カインがアベルを殺そうとした時、そのカインを門口で待ち伏せている罪、そしてイエスを裏切るユダにサタンが入り込んだという罪、聖書は罪というものをいつでもそのように考えているのであります。

 一六節からみますと、そのことが書いてあります。「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が誰かのしもべになって服従するならば、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり」と言うのです。

 われわれは初めは、あるいは自分の気持ちからすれば、自分の自由な主体的な意思で罪を犯しているように思うかも知れない。しかしそのうちそれはちょうど、アルコール依存症の人とか麻薬中毒になった人のように、もう自分の意思でそれをやめることができないで、その罪にひきずりまわされて、罪の奴隷になっていくのであります。

 竹森満佐一が言っております。「罪人というのは、時々罪を犯す人のことではない。罪の支配のもとにおかれ、罪に服従していて、その生活全部が罪の方向に向いている人のことだ。」そしてこう言うのであります。「罪を犯している時に、われわれは一切の束縛から解放されて、自由になったと思う。生きることは社会の規律や人との関係から逃れることはできない。それは実にわずらわしいことである。だから自由になれないと思う。そのために自己を実現できないと感じている。

 それから逃れて自己を実現しようとして罪を犯そうとする。だから罪を犯す時というのは、自分のしたいことをしたと感じる。罪を犯す時は、世間的には悪いことをするわけだから、恐ろしくて仕方ないというところがあるかもしれないが、どこかに自分は自分のしたいことをしたという解放感があるものだ」というのであります。

 高校生が酒を飲んだり、たばこを吸ったりするのはそういうことかも知れません。しかしそこに落とし穴がある。そこが実は罪の思う壺で、自由にしたいことをしたと思っているうちに、いつのまにか、罪に引きずられ、罪の奴隷になり、そしてその「実」は恥となるようなものでしかなかったというのであります。

 二○節をみますとこう書いてあります。「あなたがたは罪の僕であった時は、義とは縁のないものであった。その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は死である」というのであります。

 そして二三節をみますと、「罪の支払う報酬は死である」と記されております。これはある人の説明では、この「報酬」という字は兵士の給与という字だということであります。罪もまた給与を出すのだ、それが死だというのであります。われわれが罪を犯す時、自分が自分の自由な思いから罪を犯しているように思っておりますが、実はわれわれは罪のために働かされているのであって、そしてその罪がわれわれに給与を与える、それが死だというのであります。まこに皮肉な、いや恐ろしい話であります。

 それに対して、パウロはキリストの十字架と復活によって、その死は一変したのだというのであります。二二節に「しかし、今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物はわたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」というのであります。

 もはや死は罪が支払う給与とか報酬ではなく、神が与える永遠のいのちに入る門口になるということであります。救われたわれわれもやはり死ぬわけです。しかしその死は永遠のいのちに至る通り道、門口になるということであります。

 死は確かに神なき死ならば、死はただ恐ろしいだけ、いまわしいだけで、それこそわれわれが地獄にいく門口、罪が支払う給与であるかも知れない。しかしその死を神のみ手から受け取る時、それは永遠のいのちに至る道として受け止められるようになるのであります。

 創世記の記事をみますと、確かに死はアダムとエバの罪の結果、神が与えた罰として、死がこの世に入り込んだのであります。しかしその死はあくまで、罪が支払う給与とか報酬ではなく、神が与える罰であり、裁きであります。

 そうであるならば、その死はわれわれ人間がその死においてもう一度自分たちが「造られた存在」にすぎないものであること、土のちりにすぎない存在として自覚させられる時であって、死は裁きであると同時に、死はわれわれが謙遜にさせられる時で、われわれがもう一度神に立ち帰えさせられる時で、大変慰め深い時で、それは救いの時でもあるのではないかと思います。

 われわれ人間にとって死があるから神に悔い改めることもできるのではないかと思います。死はわれわれにいわば宗教心を引き起こしてくれるのであります。だから死を神のみ手から受けとめる時、それはわれわれにとって悔い改める時にもなるのであります。

 そしてその死を十字架で死んだイエス・キリストをよみがえらせた神のみ手から受け取り直す時、それは永遠のいのちにつながるのであります。

神が十字架で死んだイエスをよみがえらせたということは、そのことをわれわれに示してくださったのであります。

 イエスの復活はイエスをあの十字架の上で死なせないで、奇跡を起こしてそのイエスを天にあげられたのではないのです。イエスは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」といって、叫ばれて、十字架で死に、そして葬られたのです。そこでわれわれはわれわれの罪の姿をはっきりと示されるのであります。

 その死んだイエスを神がよみがえらせたのであります。それが「神の賜ものであり、イエス・キリストにおける永遠のいのち」なのであります。

 ですから、われわれにとって、死はもはや罪の支払う報酬とか、罪が支給する給与ではなく、われわれが土のちりにすぎない存在であることを知らされる時であり、そこで本当に悔い改めることができる時であり、そして自分を造ってくださったかたの存在をしっかりと知らされ、信じさせられる時であり、そのかたのもとに帰っていくことを知らされる時なのであります。それが永遠のいのちなのであります。

 罪を犯す者は罪の奴隷なのであります。罪を犯す時は、われわれは一番自分は自由なことをしていると思いがちでありますが、しかし実体はわれわれは罪の奴隷なっているのであります。

 わがままな人というのは、いかにも自由にふるまっているようでいて、実際は自分のわがままさにふりまわされている、自分のわがままさをもてあましているのではないかと思います。だから、わがままな人というのはいつでもいらいらしているし、ヒステリーであります。

 その罪の奴隷から自由になるためにはどうしたらいいか。聖書はその罪から自由になるためには、二二節をみますと、「しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる」と記されております。

 罪から解放されたものは、罪の奴隷から自主独立の人間になるのかと思ったから、今度は神のしもべになったというのです。

 しもべというと聞こえはいいですが、実際は罪の奴隷と同じように、奴隷という字が使われているのです、したがって、罪の奴隷から解放されたものは、神の奴隷になるのであります。救われるということはそういうことだというのです。これを聞いてわれわれはどう思うでしょうか。

 宗教というものが一番嫌われるのは、この奴隷ということである、少なくとも何かを信じるということは、それに束縛されるということだと感じているから、みな宗教を敬遠するのではないかと思います。

 そしてまた逆に宗教に魅力を感じるのは、自分を束縛してくれるものがある、はっきりとした戒律というものがあって、もう自分がいちいち迷わなくてすむということでもあるのかも知れません。

 自分が仕えることができる対象がある、ということは一番安心できるのであります。若い人が宗教を敬遠するのも、またある種の宗教に惹かれていくのも、この自分を束縛してくれるものがあるということであります。それと同じことがここでもいわれているのでしょうか。

 しかしこのローマ人の手紙を書いたパウロは、ガラテヤ人への手紙に、「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」というのであります。

 またヨハネによる福音書では、イエス・キリストが「真理はあなたがたに自由を得させる」と言い、「もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは本当に自由な者となる」と言うのであります。

 キリスト教の救いで大事なことの一つはこの自由を与えられるということであります。

 しかしここで大事なことは、パウロもヨハネ福音書もわれわれの自由はその自由を与えてくれるものがあるという書き方がされているということなのであります。

 自分で自由を勝ち取るのではなく、自由はキリストが与えてくれるものであり、真理が自由を与えてくれるのだといっていることなのであります。

 われわれは自分ひとりで自由になれるだろうか。イエスのたとえ話にこういう話があります。自分で悪霊を追い出して、きれいに掃除をしてかざりつけをしていたら、その追い出された悪霊は他の七の悪霊をつれてきてまた再び住み込んでしまい、前の状態よりももっと悪くなったというのであります。

 残念なことにわれわれは自分ひとりでは自由になれないのが本当ではないか。なによりもわれわれは自分自身から、自分の我というものから自由になれない、自分に執着しているからであります。

 われわれはだれかから自由にしてもらわないと自由になれない。誰かに従順になった時、始めてわれわれは自由になれるのであります。

 そのことをパウロはいうのであります。一六節に「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、誰かの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義に至る従順の僕ともなるのである」と言うのであります。

 ここは考えてみれば奇妙な表現であります。つまり「罪の僕」に対して「従順の僕」となっているからであります。「従順」ということと、「僕」ということは、同じことの繰り返しの言葉であります。ここは内容から言えば、「罪の僕」に対して、「神の僕」になる筈であります。

 そのめたに新共同訳聖書では、ここは、「罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか」となっております。

 しかし、ここにはもともとは「神」という言葉はないのです。しかし「従順の僕」というのは、おかしいということで、「神に従順に仕える」と訳しているのであります。

 内容的にはそれで正しいのですが、しかしパウロの気持ちからすれば、罪と対照的に従順を対比させたいのであります。罪の反対は従順なのであります。それほどわれわれが罪から逃れるためには、誰かに従順にならないと駄目だという気持ちがここには込められているのではないかと思います。

 問題は誰に対して従順になるかであります。あるいは、どのように従順になるかであります。

 われわれ日本人はもう従順とか、服従とかということは、とてもいやなのです。そういう言葉でどんなにだまされてきたかわからないからであります。国家に服従しろ、上のものに服従しろということで、どんなにいやな思いをしてきたか。ですから、だれに従順になるかということが大問題であります。

 一七節をみますと、これも思いがけないことが記されております。「神は感謝すべきかな、あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教えの基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった」というのです。

 「伝えられた教えの基準」というのです。これは今日のわれわれから言えば、使徒信条の事を考えたらいいと思います。つまり、われわれはやみくもに何かを信じたり、誰かに盲目的に従うのではなく、きちんと文章になった教えというものがあり、それをわれわれのほうでも納得して受け入れて、そのかたに服従する、そのかたに従順になるということであります。

 そういう意味では、教会にはずっと教会が信じてきた信条というものがある、ただ自分の自分勝手な気持ちで神を信じるのではないということが大切であります。

 その伝えられた教えの基準とは、その中心はキリストの十字架と復活であります。それを受け入れる、そしてそのかたに服従し、そのかたに従順になる、そして義に至ることができるのであるというのであります。

 この服従は、われわれがわれわれの理性を放棄してしまうという盲目的な信仰ではないのであります。なにかマインドコントロールを受けることとは違うのであります。そしてそれはまた自分勝手な信仰の告白でもないのです。長い間教会が信じて救われてきたこと、それを謙遜に受け入れることなのであります。

 ですから、洗礼式で大事なことは、自分の信仰を文章にしてそれを発表して洗礼を受けるということではなく、それも悪いことではありませんが、しかしそれ以上に大事なことは、司式者が教会が今まで信じてきた信条を朗読して、「あなたはこれを信じますか、受け入れるますか」と問い、洗礼を受けようとする者が「はい、信じます、受け入れます」と答える、それによって洗礼が授けられるということが大切なのであります。

 罪の奴隷になるか、神の奴隷になるか、これはわれわれが自分が好きなように選べることではないのです。ここで、パウロは「神に感謝すべきかな」といい、「あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教えの基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった」のであるというのであります。

 われわれは神によって罪から解放され、神のしもべになったのであります。従って、自分勝手に自由を得たのではなく、キリストがわれわれを自由にしたくださったのであり、真理が自由にしてくれたのであります。神に感謝すべきかな、と、心から神に感謝したいと思います。