「律法からの解放」 ローマ書七章一ー六節


 パウロは今まで、罪からの解放を述べてきました。それに続いて七章では律法からの解放を述べるのであります。なぜ罪からの解放だけでは駄目なのか。なぜ律法からの解放まで述べなくてならないのかということであります。それはわれわれの罪は律法と深く密接に結びついているからであります。

それはこう考えてみたらどうでしょうか。受験制度の弊害というものがさかんに言われております。人を偏差値でしかみない、つまり点取り虫的な人間を造ってしまうとか、○×式でしか考えようとしない人間を造ってしまうとか、つまり実際の社会はもっと複雑な要素が絡み合っているのに、単純に白か黒かでしか物事を考えられない人間を造ってしまう。

 競争意識を濃厚にさせて、エリートだけを造る教育制度を作り上げ、落ちこぼれを生みだし、それがいじめにつながるのだとか、いろいろとその弊害について言われているのであります。しかし偏差値的なものの見方というものはいっこうになくならないのであります。それはどんなにその弊害を説いたとしても、それを生み出す受験制度そのものを撤廃してしまわない限り、その弊害はなくならないのであります。

 聖書では罪というものは、律法と深く結びついているのだと見ているわけです。罪というのは、単純に言えば神を信頼しないということです。人間が自力で生きようとすることであります。自分で自分の救いを獲得しようすることであります。

 それは結局は神を押しのけて自分が神になる道なのであります。律法はそういうわれわれの罪を育成し、助長させる役割しか果たさないようになってしまったのであります。律法を守ることによって自分を誇り、傲慢になり、神を信じなくなる、また律法を守れないと、自分は神に見捨てられてしまうと思ってしまって神から離れていく、それが罪であります。

 その律法というものが生み出す罪、つまりそれが律法主義というものですが、その律法主義という罪から解放されるためには、どうしても一度律法そのものが破棄されないとわれわれはなかなかそこから解放されないのであります。

 律法主義とは、たとえば、自分はこれだけの律法を完全に守っているから救われるんだ、あいつはそれを守っていないから駄目な人間だ、落ちこぼれの人間、罪人なのだといって差別する、自分をそれによって誇り、人を軽蔑する、そういう律法主義、そういう人間のいやしい罪、それから解放されるためには、それを生み出す律法という元を断たないと、われわれは罪から解放されないのであります。

 そのためにパウロは罪からの解放を述べた後、律法そのものからの解放を述べようとするのであります。
 
 パウロは罪とわれわれとの関係は、主人と奴隷という関係でとらえ、罪を犯すものは、罪の奴隷になっているのだ、罪に支配されているのだと語りました。

 そしてパウロは律法とわれわれとの関係を語る時には、今度は主人と奴隷という関係ではなく、夫と妻という夫婦の関係で語るのであります。これには色々な理由があります、一つはここで、「他の男」の存在を持ち出そうとするからであります。七章の一ー三節までは実に大胆な比喩を使ってパウロは律法とわれわれの関係、そしてキリストとわれわれの関係を述べるのであります。

 夫はこの場合律法であります。そして妻はわれわれであります。そしてその夫は死んでしまった。だからもうわれわれは夫から解放されて、他の男と結婚できるではないかというのです。夫が生きている間に、他の男のところにいったら、淫婦と呼ばれ、それは姦淫を犯すことになるが、夫が死んでしまったら、もう正々堂々と他の男と結婚できるというのです。

 そしてこの他の男、一歩間違えれば姦淫を犯す対象にもなりかねない他の男とはキリストにたとえられているのであります。

 パウロはなぜ律法とわれわれとの関係を主人と奴隷という関係ではなく、夫と妻という夫婦関係で述べようとしているのか。一つの理由は、ここでは、われわれと律法との関係、われわれとキリストとの関係と、いわば三角関係について述べようとするためには、律法とわれわれの関係を結婚の関係で述べようとするのが都合がいいからであります。

 しかしもう一つの理由は、律法とわれわれとの関係は、主人と奴隷という関係よりも、夫婦という関係にみられる親しい関係がそこにはあるからではないかと思われます。

 主人と奴隷という関係はただ支配するものとされるものという関係、ある意味ではいやいやながらの関係でしかないのですが、しかし夫婦の関係はいろいな関係はあるでしょうが、少なくともそこには愛情関係があると想定されるます。

 つまり、われわれにとって律法というものは、必ずしもいやなものではないということなのであります。われわれは律法とそれに従って生きる生き方、つまり律法主義という生き方をわれわれは好きなのです。愛しているのです。少なくとも、律法的な生き方は努力目標がはっきりしていますから、非常にわかりやすいのです。こうしなくてはならない、こうしたら救われますよと、はっきり言われたほうが安心できる、それが守れる守れないは別にして、少なくとも、それに向かって努力することはできる、努力する目標がはっきりしているのであります。

 われわれは律法は重荷だといいながら、実際は律法的な生き方は好きなのです。一番わかりやすい生き方です。少し自分の良心を鈍くさせるならば、そんなに苦しい生き方ではないのです。こういう風に生活したら、あなたの生活は保証されます、あなたの救いは保証されますよと、はっきり言われたら、われわれは安心できる。しかもその保証書は自分の手元に置いておくことができるのであります。

 この律法は文字としてはっきりと定着されている。たとえば、人を殺していけない、と書かれている。そうしたら人を殺さなければそれで済むわけです。殺さないで、その人を憎んでも、殺す一歩手前で、あるいは、言葉で、口先だけでその人を罵倒しても、実際に手をかけないならば、人を殺すという律法を犯さないということになるのであります。

 ひとたび神の律法が文字として書かれて定着されてしまうと、それは法律の文章と同じように、その字ずらだけが問題にされていくのであります。われわれの心の中身はもう問題にされなくなるのであります。

 しかし神の律法はそういうものなのでしょうか。主イエス・キリストは律法には、「殺すな」と書いているが、それはただ殺すなということだけが言われているのではなく、「兄弟に対して怒るな」ということまで言おうとしているのだ、と言うのであります。

 神の律法は、その文字としての律法を通して、神のみこころを聞くということが大切なのであります。ですから、単なる文字としの言葉だけが大事なのではないのです。しかし、われわれはそれを文字としてしか見ようとしないのであります。

 それがパウロがコリント第二の手紙の三章六節で「文字は人を殺し、霊は人を生かす」で言っていることであります。このローマ人への手紙の七章でいえば、六節で、「わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである」ということであります。

 一度われわれは律法主義的な生き方にとらわれてしまいますと、この律法から容易に離れられないのであります。われわれは律法が好きなのです。それは夫婦の関係のようにお互いに好きなのです。なにやかにやといっても、お互いにこの関係になれきってしまって居心地がいいのであります。律法はわれわれに「よし」といってくれる、少なくとも、「よし」といってくれているという幻想をわれわれに与えくれるのであります。だからそこから逃れられないのであります。

 ちょうど、いい大学にいくことが、必ずしも幸福な人生を保証してくれるわけではないのですが、しかしなにか良い大学に入るとエスカート的に将来の生活が保証されたような錯覚を与えてくれる。そういう幻想を与えてくれるのであります。そんなものは幻想にすぎないことはある程度はわかっておりながら、そうだからといって、受験競争から離れることが大変不安で、そこから離れられないのであります。

これは律法を自分たちは完全に守っていると自負している律法学者、パリサイ人だけでなく、律法を守れないと悲しんでいる取税人もまたこの律法的な生き方から離れられないで、律法を守れない自分にうなだれ、神に目をあげられないのであります。

 だからパウロはその関係を夫婦の関係に例えるのであります。夫と妻との関係は、もはや生きた愛の関係がなくなっても、容易に離れられないからであります。

だから、パウロはもう夫は死んでしまったのだ、もう立派に離婚できるではないかというのです。もう夫の律法から解放されているのだというのです。だから、変なたとえですが、もうほかのもっとすばらしい他の男、つまりキリストのところにいっても差し支えないのだというのであります。

 われわれはキリストの恵みを信じることによって救われるのであって、もはや自分のわざを盾にして救われるのではないのだ、律法から解放されたのだ、そうして罪から解放されたのだというのであります。それが七章の一から三節に書かれていることであります。
 
 ところが、四節からは、律法の死ではなく、律法に密接に結びついて生きていた「わたし」の死について語るのであります。律法から解放されたものは、その律法に縛り付けられていた自分自身も死ななくてはならないというのであります。

 四節に「わたしの兄弟たちよ、このようにあなたがたもキリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。」ということであります。

 ここからは、律法の死ではなく、律法的な生き方をしていたわたしの死について語り出すのであります。律法的な生き方をしていた時は、五節にありますように、「わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた」と記されているように、律法はわれわれの自尊心を利用し、それをくすぐるようにして、自分を誇らせたり、また絶望させたりして、われわれを律法にしばりつけていたのであります。

 しかし今や、その律法はもう死んでしまった。それならば、その生き方をしていたわたしも死ななければならないというのであります。ここには二つの死について語っているので、大変ここの箇所をわかりにくくしているのであります。

 律法の死と律法主義的な生き方をしている「わたし」の死について語っているのであります。本当は律法が死んだのですから、自動的にわれわれも死んでしまう筈なのですが、しかしわれわれのほうでも自覚的にそのような律法的な生き方をやめなくてならないのであります。そして死人のなかからよみがえられたかたのものにならなくてならないのであります。
 
 そのことを聖書は「わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである」と述べるのであります。ここは新共同訳聖書では、「文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっている」と訳されております。

 内容的にはこのほうがはっきりしております。文字に古い、新しいはないからであります。律法という文字にとらわれて生きようとするときに、われわれの生き方はいつも過去的になっていきます。今日はなにか罪を犯さなかったか、律法に違反するようなことはしなかったかと反省ばかりするようになる。

 うしろ向きに反省ばかりする、そうしては自分のこと思い出してひそかにほくそ笑んで誇ってみたり、自分の過去の失敗にうじうじしていく、律法的な生き方はいつも古い自分を問題にするのであります。

 若い時によく日記をつけますけれど、日記をつけていると、本当に反省ばかりして、古い自分のことばかり反省して、あまりいいことではないな、と思ったことがあって、ある時からわたしは日記をやめてしまったことがありますが、律法という文字にとらわれますと、われわれは自分の過去ばかり問題にするようになってしまうのであります。

 それに対して霊に従って生きるとき、キリストの霊の導きを信じて生きる生き方ですから、それはいつでも過去の自分をその都度その都度捨てて、ただ神が導いてくださることを信じて生きるのですから、常に新しくなることができるのであります。

 パウロがコリント人への第二の手紙四章の一六節以下でこう述べているのです。「外なる人は滅びても、内なる人は日毎に新しくされていく」「だからわたしたちは落胆しない」という生き方ができるのであります。「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注いで」生きているからであります。

 どんなに昨日の自分に絶望しても、神がこの自分を生かしてくれるに違いないという望みを与えられて、文字にとらわれた古い自分を日毎に捨てて、霊に導かれることを信じて新しい自分を神に捧げて生きることができるのであります。

 霊によって生きる場合には、もはや自分の在り方が問題なのではなく、霊によっていかされるかどうかが問題なのですから、古い自分をもう見るのではなく、キリストに、見えないものに目を注いで生きるのであります。自分ひとりで自分を捨てるということは大変なことですが、霊の導きを信じて生きる時、われわれは容易に自分に対するこだわりから解放されるのであります。いつも新しさのなかで生きることができるようになるのであります。

 律法はもう死んだのであります。それならば律法的な生き方をしていたわたしも死ななければならないのであります。そうして死人のなかからよみがえらされたキリストのもとで生きるのであります。