「律法と罪」 ローマ書七章七ー25節


 「それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか」と、パウロは言います。それはそれまで律法のことをまるでわれわれをしばりつける暴君のような夫として言ってきたからであります。

 それで律法は罪なのかと自ら、問うのであります。それに対して、パウロは「断じてそうではない」と答えます。なぜなら、一二節にありますように、それは神がわれわれが神に従って正しく生きるように、神が与えたものであり、「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである}からであります。悪いのは罪だというのです。いや、悪いのは、われわれ人間なのであります。

 その後、パウロは罪と律法との関係について述べます。そして大変奇妙なことに、ここからパウロは「わたし」という一人称単数の言葉をこの七節から二五節までのところで、三八回使うのです。そうして、律法と罪との関係、律法と罪とわたしの関係について述べるのであります。

 この「わたし」とは誰のことなのかということで、学者の間で議論があります。まず、考えられることは、パウロ個人の自分の体験をこれから述べようとしているのだという説であります。

 いや、そうではなくて、これは「わたし」という言葉を使って実際は「わたしたち」という意味と同じに使っているのである。「わたし」という言葉を使うことによって、事柄をわれわれの身近な問題に近づけようとしただけであって、必ずしも、パウロの個人的体験を述べようとしているのではないという説もあります。

  どちらも考えられることであります。それはこの手紙がローマの教会あてに書かれたもので、その教会はパウロと個人的に関係のない教会なので、この手紙はいわば公の手紙である、だから、ここでいきなりパウロの個人的な体験を告白することはあまりふさわしいとは言えないからであります。

 しかし、二四節に「わたしはなんいうみじめな人間なのだろう。だれがこの死のからだからわたしを救ってくれるだうろか」という言葉は、まさにこれはパウロの切実な体験なくして書けない言葉であります。

 パウロはここで自分の個人的な罪の告白をしようとするのではないと思いますが、罪の問題を語る時には、ただ一般的に抽象的に語るわけにはいかない、それはどうしてもある意味で「わたし」という言葉で告白的に語らずを得ないというところがあるのではないかと思います。

 「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったなら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。しかるに、罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起こさせた」といいます。

 ここで、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった」というところはその通りだと思いますが、その後の律法についての言及、「罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起こさせた」というところが、わかりにくいところではないかと思います。

 律法があることによって、われわれが何が罪で、何が罪でないかが明らかにされるということはよくわかります。しかし律法があるためにわれわれは罪を犯すようになったのだといわんばかりのことがここで言われているのであります。本当にそうだろうか、と思ってしまうのであります。 

 われわれは「むさぼるな」といわれたから、そう言われると、むさぼるようになるのでしょうか。なるほど、そういう種類の人間がいることはわれわれにもわかります。人間には、ひねくれ者もいますし、なんにでも反抗するタイプの人間がいるのもわかります。そういう人は「こうしてはいけない」と言われると、かえって反抗的になって、それをやらかすということはわかります。

 しかしすべての人がそうするだろうか。いや、大部分の人はもっと従順で、こうしてはいけない、と言われれば、そうしないのではないでしょうか。「この芝生に入るべからず」と書いてあれば、おそらく、大部分の人は芝生に入らないだろうと思います。

 律法があることによって、かえって反抗的になって、律法破りの人が出てくることはあると思いますが、ここでパウロが問題にしているのは、そういうひねくれ者がいるということではなく、もうすべての人がそうなるのだというのです。それはどういうことなのかということなのです。

ここで、パウロは律法の一つの例としてとりあげるのが、「むさぼるな」という律法をとりあげているのはどうしてなのでしょうか。これは十戒の最後にある戒めであります。

 なぜ、パウロはこれを律法の代表的なものとしてとりあげるのでしょうか。たとえば、十戒のなかに「殺してはいけない」「姦淫してはいけない」「盗んではいけない」「偽証してはいけない」という戒めがあります。なぜ、その戒めをとりあげないで、「むさぼるな」という戒めをとりあげるのでしょうか。

 たとえば「殺すな」という戒めを聞いた人は、それを聞くことによって人を殺すようになる、その戒めによって挑発されてしまう、そういうことはあまりないと思います。しかし、「むさぼってはならない」という戒めを聞いた時はどうでしょうか。

 「むさぼってはならない」ということはどういうことを戒めているのでしょうか。その前には、「盗んではいけない」という戒めがあります。何か同じことをいっているような気がいたします。

 ある人の説明では、盗むということは、具体的に盗んでしまうことだけど、むさぼるというのは、われわれの心の中の動きだと説明しております。

 しかしまたある人の説明では、いや、むさぼるということと、欲しがるということとは、違うことで、欲しがるということは、われわれの心のなかで、ただ欲しいなあ、と思うことで、しかしむさぼるということは、実際に手をつけて侵略することだとも説明しております。

 ここで大事な事は、十戒では、むさぼりについては、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」といわれているという事であります。

 「盗んではいけない」という時には、ただ「盗んではいけない」と言われていますが、「むさぼるな」というときには、「隣人の家をむさぼってはならない」と言われているのであります。つまり、自分には家があるのです。奥さんもいる、牛もいる、それなのに、隣人の妻、牛を欲しがる、それはしてはならない、ということなのであります。

 盗むということは、場合によっては、もうせっぱ詰まって盗んでしまうということもあり得るのです。しかし「むさぼる」という罪は、自分は十分満ち足りている、それなのに、隣の家のものを欲しがるという罪であります。これはもっともいやしいわれわれの欲望であります。ここにわれわれの罪というものの本質が潜んでいるのであります。

 ダビデが自分の部下の妻バテシバを奪うという罪を犯して知らん顔しているときに、預言者ナタンがダビデ王のところにいって、こういう話をなにげなくするのであります。

 ある大金持ちのところにお客が来た。彼は自分の羊をほふってご馳走するのを惜しんで、隣の家の貧しい人の羊を盗んで、それをほふって客をもてなしたというのです。その貧しい人はそのたった一頭の羊を大切にし、かわいがり、夜寝る時も一緒に寝るほどにかわいがっていた。その羊を盗んで客をもてなした、という話をする。

 それを聞いたダビデは烈火のごとく怒って「そんな奴は処刑してしまえ」というのです。すると、預言者は「それはあなたのことです」と言う。「神はあなたを十二分に恵みを与え、あなたを豊かにした。もし、少なかったならば、神はもっと多くのものを増し加えた。それなのに、あなたは部下の妻を盗み」と、ダビデは糾弾されるのであります。それはまさにむさぼりの罪であります。

 つまり、むさぼりという罪はわれわれ人間の自己中心性をもっともするどくあらわにさせる罪なのであります。われわれのなかに根強く潜んでいる自分だけを幸福にしたいという欲望であります。

 われわれはあるいは他人の幸福を望んでいるかもしれません。しかしその場合でも、その他人が自分よりも幸福であっては困るのではないか。そうなったらたちまち妬むようになるのではないか。

 他人の幸福は、自分よりは少し不幸であって欲しいのです。他人の幸福を望むのは、自分ひとりだけ幸福では、居心地が悪いから、安心して自分の幸福に浸れないから、他人の幸福を望んでいるにすぎないところがあるのではないか。

 むさぼりという罪は誰の心にもあるのであります。だから「むさぼるな」という戒めを聞くときに、われわれの中にあるむさぼりという罪が目をさますのであります。「罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起こさせた」のであります。

これが「殺すな」という戒めをとりあげたなら、「戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ」ということには、なかなかならないし、そう言われてもわからないかもしれません。しかしむさぼりという罪は、自分の幸福をもっと拡大したい、もっと大きくしたいという欲望ですから、それは人の幸福を妬む心と結びつきます。

 そして妬みはわれわれの心の中に潜む大変激しい感情で、それは人を殺すことと結びつくのではないでしょうか。イエスはお偉方の妬みの故に捕らえられたのであると総督ビラとは推察したと書かれているのであります。

 そう考えれば「むさぼり」という欲は、それは人を殺してしまうという事と深くつながっていることはわかるのではないでしょうか。ですから、むさぼりという罪について言えることは、殺すという罪についても言えることなのではないでしょうか。

 それにしても、ここを読んでいてもう一つわかりにくいことは、これを言っているのがパウロであるということなのであります。

 といいますのは、パウロはクリスチャンになる前は、パリサイ人として律法を守るという点では落ち度がなかったと言っているのです。律法は完全に守ってきたというのです。それは「むさぼる」という罪にふりまわされた生活をしていないのです。「むさぼるな」という律法をその通り守り通したパウロがこう述べているのがわかりにくいところであります。

 そのパウロが「罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである」と言っているのはどういうことなのかということなのです。もちろん、パウロの心のなかに「むさぼる」という罪があったでしょう。しかしだからといって、むさぼるという罪を犯してはいない筈であります。少なくとも、クリスチャンになる前にはそのような罪を犯したとはパウロは思っていない筈であります。パウロは「むさぼるな」という律法を守るという点においても落ち度がなかった筈であります。

しかし、パウロはキリストに出会い、キリストに救われた時に、自分のあの律法を守ってきたという生活、律法を守ることにおいて落ち度がなかったという生活が、本当に律法を守って来たのだろうかと問われたのであります。

 パウロは律法を守ることにおいて、律法を守れば守るほど、「むさぼるな」という律法を守ろうとすればするほど、実は自分のむさぼりという欲望が執拗に牙をむき出していたのであります。

 彼は律法を守れない人々を軽蔑し、裁いてきた。律法を無視しようとしているかに見えたクリスチャンたちを息を弾ませて捕らえ、殺害しようとしたのであります。それはまさにパウロのむさぼりという罪のあらわな姿ではないでしょうか。

 つまりパウロは律法を守ることによって、「むさぼるな」という律法を守ることによって、自分の義を誇り、自分の正しさを主張し、まさに神の前に自分のむさぼりを主張していたのであります。

 パウロは、自分の心の中にある「むさぼりたい」という思いを、彼は律法を守ることによって実現させているのであります。十一節に「罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである」とありますが、ここで、「わたしを欺き」とありますが、それはこういうことであります。

 パウロは「むさぼるな」という戒めを忠実に守り、それによって神に誠実に従っているつもりだったのであります。ところがよくよく考えて見れば、それによって自分の中にある自分の立派さを実現させたいというむさぼりの思いを神に主張しようとしていた。それはまさにパウロを欺いていたということであります。

 もちろん、そのことに気がついたのはキリストの救いを知ってからであります。自分が息を弾ませてクリスチャンを迫害し、殺そうとしていた時、キリストに出会い「パウロよ、なぜわたしを迫害するのか」と、キリストの声を聞いてからであります。

 パウロは律法を守らないことによって、あるいは、律法を守れないことによって、罪を犯したのではなく、律法を完全に守っているということにおいて、罪を犯していたのであります。

 なぜなら、律法を守ることによって神に従うのではなく、神のみを拝するという十戒の第一の戒め、あるいは十戒の第二のいましめ、「神以外のものを神にしてはならない」という偶像禁止の戒めを破っていた、なぜならパウロは自分の正しさを主張することによって、自分を神にしていたからであります。それが「わたしを欺き」という意味であります。

 律法がなかったならば、子どもが素朴に自分のことを誇るように、たとえば、運動会でぼくは一等をとったのだよ、と誇るように、自分を誇っても、それはひとつも罪にはならなかったのであります。

 しかし律法が来るに及んで、われわれは律法を通して自分を誇りだしたのであります。九節に「わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めがくるに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ」とありますが、「律法なしに生きていた」時というのは、いつのことかといいますと、ユダヤの社会では、子どもの間は律法の適用はなかったのです。だから、その子どもの時代のことをいっているのだということであります。

律法が来るに及んで、われわれは律法を通して神の前に自分を誇り、神を無視しし始め、律法を守れないことを通して、自分に絶望して神から遠のこうとし始めたのであります。

 もう素直に神の前に出れなくなってしまったのであります。律法そのものが悪いのではないのです。われわれの中にある罪がそうさせたのであります。

 「いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった」のであります。いつパウロは「わかった」のでしょうか。

 それは「だれがこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と、自分以外のかたに救いを求め始めた時であります。いや、正確に言えば、自分以外の人から、自分を超えたかたによって救われてから、そのことがわかったのであります。「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」であります。