「罪のしわざ」    ローマ書七章七ー二五節

 律法は罪なのか、という問に対して、パウロは「断じてそうではない」と答えます。悪いのは律法ではなく、罪なのだというのであります。律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。」律法も戒めも同じであります。ある人の説明では、律法は総称、戒めはその具体例であるといっております。ともかく、律法は神が与えたものであることには、間違いないことであります。それならば、それが人間を悪くするものである筈はないのであります。

 まず律法は聖なるものであるというのです。ここを竹森満佐一はこう説明しております。「律法が与えられたのは、神が神であることを示すためであって、人間の利益を第一に考えたことではない。律法を守ることの失敗はいつも律法が自分たちのためにあるように考えて、自分たちの益のために、適当に用いることができるところにある」と言っております。

 あの律法の基本とも言うべき、十戒の第一の戒めは「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」ということであります。そして第二の戒めは「自分のために偶像を造り、それを神としてはならない」ということであります。第三は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」であります。これはどれも、神を神として崇めなさいということ、神を自分のために利用してはならないということであります。

 もちろんそれは、神が神ひとりでいばっていたいためではなく、われわれが神を神として崇める時、われわれは人間の自分勝手さから救われるのであって、それはもっとも正して意味において、われわれの幸福にもなるのであります。

 また律法は正しいのです。もしわれわれに律法がなければ、そして戒めが何が正しくて、何が悪いことかといわれなければ、われわれは何が正しいかわからなくなってしまうのであります。

 先日もテレビのニュースを見ておりましたら、いま日本の法律では、優生保護法といって、母親の母胎を保護をするために、母親の生命のために危険だとわかっている場合には、お腹のなかの胎児を殺してもいい、つまり中絶が認められている、しかし胎児に関する条項がない、今日の医学では、生まれる前に、その胎児が障碍をもっているかどうかあらかじめ知ることができる、その場合、明らかに障碍をもっているということがわかった場合には、中絶してもよろしいという条項をいれるべきかどうかを審議する委員会ができて、そのことで審議されているということであります。

 その会議に障害者たちが来て、それは自分たちが生きていることを否定することだと訴えていることが報道されておりました。これなんかも、われわれ人間の観点からだけみたら、そのような法律をつくることはわれわれ人間を幸福にすることである、わざわざ障碍をもって生まれて来るという困難を回避することができるわけで、それは正しい善なる法律のように思えてしまうところであります。

しかし神の律法は、それに対してまず神が神として崇められるためにあるのであって、人間の幸福のためではなく、われわれ人間の利益のためにあるのではない、ということ、まず律法が聖なるものであるということがあって、律法を通して神によって何が正しくて、何が悪かを示してもらわないと、結局は人間の作る法律、ただ自分たちの幸福のために作る法律は大変危険なものになる、自分たちの都合によい法律だけをつくるようになってしまうのであります。

 それは神の律法ですから、神がこうしなさいと指示を与えるわけですから、それはある時には、われわれには命令のように重荷に感じられるかもしれません。しかしもし神の命令がなかったならば、イエス・キリストの命令がなかったならば、われわれは人を愛するようになれるだろうか。

「右の頬をぶたれたら、ほかの頬をむけよ」とか「敵をも愛しなさい」という命令をわれわれが聞いていなかったならば、われわれはやはり大変利己的な人生しか歩めなかったのではないかと思うのです。「自分のようにあなたの隣人を愛しなさい」という戒めを聞いていなかったならば、われわれは人を愛する労苦とか痛みとかを全然しない人間になっていたと思うのです。「七度を七十倍にしてまで赦しなさい」というイエス・キリストの命令を聞いていなかったならば、われわれはおそらく、ただの一回だって人のあやまちを赦すなんてはことはできなかったと思います。

 ですから、律法は正しく、善なるものであります。問題はその律法の守り方であります。イエス・キリストが「敵を愛しなさい」というあの一連の厳しい律法理解を示してから、その締めくくりの最後にいわれた言葉は「それだから、あなたがの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」という言葉をわれわれがどう受け止めるかであります。

それは神が完全であられるように、われわれ人間もその神のように完全になれということなのかということなのです。それはわれわれが神の位置にまで上れということなのか、神のようになることをイエス・キリストはわれわれに要求しているのかということであります。

この言葉は、ルカによる福音書では、「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」となっております。

そのようにその「完全になれ」という時の「完全」という言葉の意味は、われわれがテストで百点とらなければ、たとえ、九十九点とったとしてもそれは意味がないのだという完全なのではないということであります。

われわれは神の完全さを目指そうとして完全主義者になろうとするとき、あの律法学者、パリサイ人の生き方になっていくのではないか。自分の完全さを誇り、完全さを他人と競争するするように競いあう、そのために人を軽蔑し、蹴落とし、完全主義の競争に走りだすことになるのではないか。

ある人の言葉に、われわれ人間は時に、いやいつでも神よりも完全になりたがるというのです。

 天の父が完全であられるように、あなたがたも完全であれ、ということは、われわれが神のようになることを要求しているのではなく、人間として、人間の分を守って、そのなかで完全であれ、ということであります。
自分が神によって造られたものとして、そのことをいつも自覚しながら、神が完全であるように、人間として完全であれ、ということであります。

 われわれ人間は神と違っていて、いわゆる完璧ではないのです。土の器というもろい存在にすぎないのであります。従って、人を赦す時にも七度を七十倍まで赦すなんてことは、なかなか、いや到底できないことであります。

その時にわれわれはあらためて十字架の死にいたるまで人間の罪を赦したイエス・キリストの赦しを仰ぎ見るのです。自分が人の罪を人の過ちをどうしても赦せない時に、キリストの十字架の赦しを仰ぎみるのです。そして、神の前にひれ伏すのです。わたしにも人の罪を赦す愛の力を与えてくださいと父なる神に祈るようになるのです。そのようにして律法をまもれろうとするのです。

 われわれは律法を守れる時もあります。人を赦せるようになることもあります。そのときには素直に神に律法を守れました、ありがとうございましたと言って、神の前に感謝しにいけばいいのです。子どもが試験に良い点をとった時に、子どもは誇らしげにそれを親にみせにいくように、神の前にそれを差し出したらいいのです。

また律法をどうしても守れない時には、ただうなだれて、神から遠ざかり、神から離れていってはならないのです。その時こそ、神の前に出て、神に祈り、どうか人を愛せる力を与えてくださいと祈ればいいのです。

 律法を守れたにせよ、守れなかったにせよ、どちらの場合にも神の前に感謝し、神の前に悔い改めにいけばいいのであります。

 ところが、われわれの中にある罪はそうさせないのです。一三節に「罪は戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである」とパウロは言うのです。そしてそれは「罪のしわざである」といいます。

律法は一度書かれた言葉になってしまいますと、つまり文字なりますと、それはその文字だけをまもれば、もう律法そのものを守っているような錯覚を与えてしまう。いや律法はそういう自信をわれわれに与えてしまうのであります。

自分は人を殺したことはない、盗んだことはない、姦淫を犯したことはない、だから律法を完全に守っているのだ、自分は週に二度断食しており、全収入の十分の一を捧げており、ほかの人のような貪欲なものでなく、不正な者ではない、と神の前に堂々と胸をはることができるようにさせてくれたのであります。

自分の力で律法を守り、神のみこころに自分は自分の力で従うことができるような自信を人間に与えたのであります。それは罪のしわざなのに、とパウロは言うです。

罪は律法を通してわれわれ人間にいたずらに自信を与えたのであります。「しかし律法に対して人間がもった自信は、罪が人間に与えた幻影でしかない」とある人が説明しております。

その自信は幻影なのです。ですから、それは幻影ですから、律法を通して得る自信は微動だにもしない自信ではないのです。それは幻影ですから、いつも不安がつきまとうのです。自分は本当に神の律法を神のみこころを守っているだろうかという不安を抱えている筈であります。

律法は人間に自信を与えました。しかしまた律法は人間に絶望を与えたのです。自分はあの律法学者パリサイ人のように、律法を守れない人間だ、自分は駄目な人間だと絶望を与えたのであります。そうして神から離れさせていったのであります。

しかしこの絶望は、律法を守っていると自負し、自信をもっている律法学者パリサイ人にも、本当は影を落としている筈であります。お前は本当に神の律法を守っているのか、と律法は彼らにも絶えず告発しているはずであります。その自信は幻影だからであります。

 だから、イエス・キリストから、お前達は律法を完全に守っていない、神の律法は「殺すな」ということで、「兄弟に対して怒るな」ということまで言おうとしているのだ、「人を愛しなさい」とのいう戒めは「敵をも愛しなさい」ということまで勧められているのだと言われた時、彼らの自信はゆらいだ筈であります。

 だから、彼らにとってイエス・キリストの存在は大変煙たい存在、煙たいどころか、自分たちの自信を覆す存在になってきたのであります。そのために彼らはついにイエスを抹殺しようとしたのであります。もし彼らの自信が本物であったならば、イエスからなにをいわれても微動だにしなかった筈であります。しかし彼らの自信は幻影でしかなかったのであります。だからゆらいだのです。自分たちの中にある不安を消すために、どうしてもイエスという存在を抹殺しければならなかったのであります。

 そこが罪のしわざたるゆえであります。罪は人間に律法をとおしてただ自信を与えただけでなく、同時に律法を通して不安も与えのであります。

 罪はいたずらに人間に自信を与えて、死ぬまで安心させるほどお人好しではないのです。自信を与えておいて、その裏側からその自信をゆるがせ、不安にもさせていたのであります。なぜなら罪は結局のところ、われわれを安心させ、われわれを幸福感に浸り切らせることが目的ではないからであります。罪は最後にはわれわれを不幸にさせるのが罪の目的だからであります。

 ローマ人への手紙のこの七章の七節からのところでは、「わたし」という一人称単数の言葉が三十七回もでてくると前にいいましたが、この「わたし」とはだれのことか、パウロ自身のことなのではないかという説もあるということをいいましたが、それはともかく、この箇所はパウロの個人的な体験だけに限定してしまうのは、問題があるかもしれませんが、しかしそうかといって、パウロの個人的な体験から全く離れているとも考えられないところであります。ここはやはりパウロの個人的な体験が滲みでているところであります。

 そしてそれはパウロのいつの体験なのかというところでも議論があるのです。これはパウロがクリスチャンになってからの体験なのだという説があります。なぜなら、彼はクリスチャンになる前はユダヤ教徒として律法を守ることにおいて自分は落ち度がないといっているからであります。

 その議論はともかくとして、こうしたパウロの苦しみ、不安、嘆き、というものは、彼がキリストに出会っていきなり、吹き出てきた問題というよりは、彼がユダヤ教徒として、パリサイ主義者として律法を完全に守っていると自負していた時から、絶えず自分のなかに抱えてきた不安だったのではないか。だから彼がキリストの声に出会った時、一挙にキリストを受け入れることができたのではないか、とも言えるのではないかと思うのです。

 こういう言い方は、あまりにも心理学的な詮索で、神学者たちは、あまり賛成しないのですが、しかし心理学も人間の心のなかの動きを探る学問ですから、何も神学者たちだけが信仰のことを正しく理解しているとは限らないと思います。ですから、そのように考えても必ずしも間違った解釈になるとは言えないと思います。

 少しでも良心的な人ならば、神経の鋭いひとならば、罪が律法を通してわれわれに与える自信が幻影でしかないことには気がつく筈であります。
そして幻影はそれが幻影である限り、われわれに本当の安らぎを与える筈はないのであります。

 われわれが自分の力だけで生きようとするならば、自分の力だけで自分をガードしようとするならば、それはちょうど百点をとることだけを自分の生き甲斐にしいてる優等生がもつ不安と同じ不安の中を生きることになるのではないか。わたしは優等生なったことはないので、本当はよくわかりませんが、ただ推察すれば、優等生の不安はいつ自分は優等生の地位から落ちるのではないかと神経をすりへらして生きざるを得ないという不安を抱えて生きなければならないということではないかと思います。

パウロもそのような不安をかかえながらユダヤ教徒として生きていたのではないか。そうしては律法を無視しているかのように見えるクリスチャンをやっきになって迫害していたのではないか。

そのパウロは、キリストに救われてから、ピリピ人の手紙のなかで、「あなたがたの求めるところを神にもうしあげるがよい。そうすれば、人知では測り知ることのできない神の平安が、あなたがの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」と書いているのであります。自分で自分を守らなくてならないという不安から解放されたパウロが、いま人知をはるかに超えた神の平安にどんなに確かに守られているかを伺い知ることができるのであります。