「自分のしていることがわからない」 ローマ書七章七ー二五節


 パウロは律法の問題を説いて来て、自分は律法というのは神様が良かれと思ってわれわれ人間に与えたものなのだから、律法それ自体は聖であり、正しく、善なるものであることはわかっているというのです。しかしその善なるものが、わたしにとって、わたしを死に追いやることになってしまったというです。そしてこういいます。
 「わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである」というのです。

 そしてその後、わたしを律法違反へと導いているのは、わたしのなかに宿っている罪だという。悪いのは私自身ではない、罪なのだといわんばかりのことをいうのであります。

 こういう一連の議論を読んでいきますと、なにかパウロが責任逃れをしているように感じるかも知れません。責任を罪になすりつける。それはまるで、自分のなかに宿っている生まれつきの遺伝子が、今日はやりの言葉で言えば、DNAが悪いのだといっているような気がするかも知れません。

 つまり親が悪いんだ、自分の家系が悪いんだといわんばかりなのであります。自分が悪いのは環境のせいだというようなことであるかも知れません。

 しかしそのように責任を他に転嫁しようとする人は、「自分のしていることがわからない」というだろうか。そう言って悩むだろうか。

 今幼女連続殺害事件の犯人が死刑の判決がくだったことが話題になっております。彼の犯行であることはもう争いの余地のないことなのですが、彼にその犯罪の責任能力があるかないかで争われているのです。彼は多重人格であるという精神鑑定をくだした調書がでている、あるいは、もう一人の鑑定人は精神分裂病であるという鑑定をしている、そして最初の鑑定では、彼は確かに精神的に正常ではないところがあるが、しかしその犯罪について責任を問うことはできるという鑑定がでているのであります。

 裁判官がどの鑑定を採用するかで世間の注目を集めていたのであります。どちらにせよ、はっきりしていることは、その犯罪を犯した本人は、その犯罪に対して、ひとつも責任を感じているようには見られないということであります。あるいはそういうふうに装っているだけなのかも知れませんが、少なくも、テレビでみたり、その報道から推察してそのことは言えるのではないかと思います。

 彼が多重人格であるにせよ、あるいは、精神分裂病者にせよ、それは一人の人間の中に二つの、あるいは二つ以上の人格が存在して、お互いに競合しているということであります。

それが彼を分裂させているわけですが、しかしただひとつ明らかな事は、そのことについて彼自身は自分のしていることはわからないとは嘆いてはいないということなのです。
 自分のしたことに対して、ひとつも責任をとろうとしない、とろうとしないどころが、ひとつも責任を感じようともしていない、従って嘆いてはいない、そのことだけは確かだと思います。

 パウロは自分のなかにそれこそ二つの人格がいて、互いに競合している、「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに宿っている罪である」といって、まさに自分は分裂状態だというのです。

 そして「わたしは自分のしていることがわからない」という時、それは自分のしていることについて責任を放棄しようとしてそう言っているのではなく、自分のしていることに深く責任を感じているからこそ、もうどう責任をとっていいかわからないと言っているのであります。

 彼は自分のしていること、自分の存在それ自体に責任を深く深く感じているのであります。それはもう間違いのないことであります。深く責任を感じているからこそ、「自分のしていることがわからない」と告白している。そうしてその責任を自分自身でとりたくてもとれないから、「自分のしていることはわからない」といい、そして最後に「わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれがこの死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」と嘆いているのであります。

 「自分のしていることがわからない」という告白は、責任放棄の無責任の者の告白ではなく、自分について、自分の犯した罪について責任を自覚している者の告白であります。幼女殺害事件を起こした人は「自分のしていることはわからない」などと、一度も言ったことはないでしょうし、そう感じたこともないだろうと思います。

ここでパウロが「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている」という自己の分裂はどういう分裂のことを言っているのでしょうか。

 それはたとえば、アルコール中毒になった人がもう酒は絶対に飲まないと心に誓いながら、しかしどうしても酒に手がいってしまうということなのでしょうか。あるいは、自分の体のなかにある強烈な情欲というものを抑えきれないで、その欲望にふりまわされてしまう、ということなのでしょうか。

 しかしもしそういう分裂ならば、これは律法とは関係のない分裂であります。律法が入り込んで来たからそういう分裂が起こったのだということにはならないだろうと思います。「罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしを欺き」とか、「善なるものが、わたしにとって死となった」ということにはならいと思います。

 ここでは、神の律法が入ってきたために、その生来善なる律法がわたしを悪へと誘い、わたしを死なしているというのであります。二一節に「善をしようと欲しているわたしに、悪が入りこんでいるという法則があるのを見る」というのです。

 「法則」という表現は大変おもしろいと思います。もともとは律法という字と同じ字なのですが、パウロはここで一つの語呂合わせをやっているのですが、「善をしようとするわたしに悪が入り込んでくる」ということ、それはもうまるで法則のようにそうなっているというのです。

 このごろの言葉を使えば、いわばシステムという訳がいいかも知れません。そういうシステムになってしまっているというのです。つまり善を自分がしようとすると、まるで機械仕掛けのようにそこに悪が入り込むというシステムが自動的に働きだしている、そういう法則になっていて、もうどうにもならないのだということであります。

 これはどういうことかといいますと、あまり良い例かどうかわかりませんが、たとえば、われわれが何か寄付をしようとするときに、寄付をしてある困っている人を助けたいと思うわけですが、その事自体は善であります、いいことなのです。その時、同時にわたしの中におれはなかなか良いことをしているぞと、自分のことを誇る気持ちが働きだす、そうなると、もうまるでその人を本当に助けたいのか、それともこれはただ自分の心を満足させたいためだけの行為なのかと考えてしまう、それこそ「自分のしていることがわからない」ということになってしまうのであります。

 それはもう法則のように、システム化されてしまって、自分が何か善いことをしようとすると、その心の内部に自動的に自分を誇り出す装置が動き出す、もう自動的に有無を言わせずにそういうシステムが働いてしまうのだということであります。

 つまり律法を守ろうとするとき、それによって神に従い、人を愛そうとするわけですが、その時そのわたしの心にもう自動的に自分を神に対して、あるいは人に対して誇ろうとする法則が、まるでシステムのように働きだすということであります。

 後にパウロがユダヤ人のことを問題にして、彼らは律法を守ることに関しては熱心であったが、それは神の義に従うとするのではなく、自分の義を立てようとすることに熱心なだけだったというのであります。それはつまり神に従うという律法とはまるで正反対の方向に動きだすということであります。

 それは内側から律法を破らせていることなのであります。パウロは律法を守れないことをここで嘆いているのではなく、律法を守っている、いや律法を完全に守っている時に、このような分裂が自分のなかに起こっていることを言っているのであります。

 だから「罪は戒めによって機会を捕らえ、わたしを欺き」というのです。わたしの何を欺くのかといえば、自分が心から神に従いたいというわたしの心を欺き、自分を誇らせるということであります。

 こういう説明はあまりにも理屈ぽい、文学少年、哲学青年が陥ることで、青臭いと言われるかも知れません。あるいはそれは高尚すぎる、われわれはもっと低俗なことで、苦しんでいるのだ、たとえば酒をやめられないとか、自分の欲情を抑えられないとかということで分裂し、苦しんでいるのだと言われるかも知れません。

 しかし、ここは神の律法を真剣に考えようとした人間が陥った苦しみ、分裂なのです。高尚とか高尚でないとか、ということでなく、神に従って生きるという問題なのです。

 そしてそのパウロの自己分裂という苦しみは、われわれのもっと卑近な世俗的な現実的な苦しみ、酒をやめられない、ギャンブルをやめられないという問題とやはりつながっている問題でもあるのではないかと思います。

 なぜなら、パウロの問題で言えば、自分を誇るという自己中心性という問題と、われわれが酒をやめられないとか、ギャンブルがやめられないという問題とは、それはどちらも、自分の「我」にふりまされているという自己中心性ということでは同じだからであります。

 問題はその自己中心的な生き方からどうしたら脱却できるかということであります。パウロは二四節で、「わたしはなんというみじめな人間なのだろうか。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と嘆いた後、なんの説明もなく、大変唐突に、すぐその後、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」というのであります。

 この唐突さは、この自己分裂の状態から脱却できたのは、自分の努力とか自分の悟りではなく、自分の力なんかではなく、自分以外の他の人の助けによってである、ということから来ているのであります。

 自分以外の他の人から与えられる救いというものは、いつでもこのように唐突なのではないでしょか。こうだから、こうなる、という順序をふまえて、救いが与えられるのではなく、他から与えられる救いはいつでも思いがけないものなのではないでしょうか。

 ましてこれは神からの救いであります。それはわれわれの予想とか、計算とかを超えて、思いがけない時に、上から与えられるものなのであります。だからそれはいつでも唐突であるし、なんの説明もできないのかも知れないと思います。

 小さい時に夢中になって読んだ本に、ジャンバルジャンの小説、「レ・ミゼラブル」があります。もちろん、それは少年むきに作られた「ああ、無情」という題で読んだのですが、その小説でたいへん印象的にいまだに覚えている場面があります。

 それはコゼットという大変かわいそうな少女が主人のいいつけで重いバケツのようなものを運ばせられている、今にもそのバケツを落としそうにして運んでいる、その時突然、だれかがふっとそのバケツを持ち上げて運んでくれた人がいる。それがジャンバルジャンなのですが、のちにコゼットはそのジャンバルジャンの養女になるのだと思いますが、そういう場面があって、それは挿し絵にもなっていたのかも知れませんが、大変印象深くて、その時のコゼットが「ほっ」とする気持ちを思い出すのです。

 神から救われるということは、そういう救いを受けるということであります。上から手を差し伸べられるのであります。そのことはパウロは八章でそれを御霊の導きということで、展開していきます。
 ここでは、そのことについてなんの説明もなく、唐突に事実だけを述べているだけであります。

 そしてその後の言葉に注目したいと思います。
 「このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」と記すのであります。

 大変不思議なことに、これは救われる前と、救われた後と、全くなにひとつ状況は変わっていないかのように記しているのであります。これは救われる前の状態を述べているのではないのです。なぜなら、ここでは、「肉では罪の律法に仕えているのである」と現在形で述べているからであります。救われた後もそうだというのです。

 状況は救われた後も前もひとつも変わっていないのです。しかしこの最後の文章には、「なんというみじめな人間なのだろう」という嘆きも、いらだちももう感じられないのであります。

 ただ淡々と自分の分裂している現実を認めている、容認している、そういう静かな気持ちがあるのです。もう悪あがきをしないというか。自分で自分のことをもう救おうとしない、ただ神の救いだけを待つ姿勢をもっているという安らぎを感じれるのであります。

 そしてこの現実はわれわれ自身の現実でもあるのではないでしょうか。われわれも救われた後も、救われた前とあまり状況は変わっていないかも知れません。しかしわれわれはもう悪あがきはしていない。神の助けを待っている、いつでも聖霊の助けと働きを信じている、そのことだけは言えるのではないかと思うのであります。われわれが自分の分裂から脱却できるのはこの道しかないのではないかと思うのであります。