「イエスの最後の祈り」 マタイ福音書二六章三六ー四六節


 イエスが十字架で死ぬ前の最後の祈りの言葉は、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎさせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままになさってください」ということであります。「この杯」とは、苦き杯、つまり、十字架で死ぬということであります。自分を十字架で死なせないでください、ということだったのであります。

 ゲッセマネの園でのイエスのこの祈りの記事を読む時、われわれはいつもいつも大きな戸惑いの中におかれるのであります。一つは、これまでイエスはさいさいにわたって、自分は祭司長たちに捕らえられ、殺されるのだと予告してきている。その覚悟はできているはずなのです。ペテロが「そんな事があってはなりません」と言った時には、イエスはそのペテロに向かって「サタンよ、退け」と言われている。「お前は神の事を思わないで、人のことを思っている」と言っているのです。

 そういうイエスがここにきて、なんでこんなに弱気になってしまうのか、思い悩むのか、悲しむのかということであります。

十字架で殺されるということは、もっとも過酷な死にかたであります。肉体的にも精神的にも最大の恐怖であります。その苦しみをイエスは避けようと願ったのでしょうか。もちろんそういうこともあったかも知れません。

 しかし今イエスが最大に恐れたことは、この十字架の死が、敵の手によって殺されるということであります。そうであるならば、十字架で殺されるということは、サタンの手に陥ることであり、それはサタンの思う壺にはまるということであります。サタンに負けるということであります。イエスはそれを恐れたのです。それでもいいのですか、これが本当にあなたの御心なのですか、とイエスはこのゲッセマネで祈られたのであります。

 ペトロがイエスから自分は十字架で殺されることになると告げられたときに、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とペテロは反応しました。その時、イエスはペテロに「サタンよ、引き下がれ、お前はわたしの邪魔をするものだ。神のことを思わずに人間のことを思っている」といって激しく叱責したのです。
 考えてみれば、今イエスはあのペテロと同じことを父なる神に祈っているのです。

 ペテロはこのイエスの祈りの言葉をどのような思いで聞いたのだろうか。イエスはあのとき、自分をサタンとまで言って、叱りつけたのに、今イエス様は自分と同じことを父なる神に祈っている、これはどういうことなのかと思ったのかもしれません。ペテロはもうこのときは、眠くて意識がもうろうとしてよくわからなったかもしれませんが、しかしわれわれにはこの言葉は、本当に不可解な言葉なのではないか。

確かに、イエスのこの時の祈り、「自分を十字架につけないでください」という祈りと、ペテロの「そんなことがあってはなりません」という言葉とは、同じように、十字架を避ける思いであるかもしれませんが、しかし、それには雲泥の差があるのではないかといわれるかもしれません。確かにそうだと思います。

 ペテロはただ単純に神の子が、われわれの先生である救い主が敵の手によって殺されるなんてことは、あってはならないというきわめて、人間的な思いだけだったでしょう。しかし、イエスは、ただ単に自分が敵の手によって殺されたくないと思ったのではなく、それが本当に人間を救うことになるのか、という戸惑いだったと思います。
しかし、十字架の死を避けたいという点では同じ方向であります。

 主イエスは、しかし、あのペテロの言葉だけで終わったのではなく、そのあと、「しかしわたしの願いどおりではなく、御心のままにしてください」と最後に祈っておられるのです。最終的は、あなたの御心が貫徹されますようにと祈っておられるのです。ここがペテロと決定的に違うところであります。

 そして考えておきたいことは、神の御心が、貫徹されるということは、なにもない空中のなかで貫徹されることではなく、われわれの利己的な思い、自己中心的な思い、われわれの自分中心の人間的な思いが一杯つまっている中で、それを打ち砕き、それを退けて、神の御心は貫徹されるということなのだということであります。

 へプルの信徒への手紙のなかで、イエスのことがこういわれているのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できないようなおかたではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点でわたしたちと同じような試練に遭われた」、「キリストは肉において生きておられたときに、激しい叫びをあげ、涙をながしながら、ご自分を死から救う力のあるかたに祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられた」と記しているのであります。

 イエスは罪を犯さなかったが、われわれの弱さをよく知っておられたというのです。あらゆる点でわれわれと同じ試練に遭われたというのです。

 イエスが罪を犯さなかったということはどういうことでしょうか。その心のなかにひとつのかけらほども、よこしまな心をいだかなかったということでしょうか。たとえば、情欲を抱いて女をみたことがなかったということなのでしょうか。もしそうであったとしたならば、イエスがどうしてわれわれ人間の弱さを知り、われわれと同じ試練、罪の誘惑の試練に遭われたと言えるのか。

イエス・キリストはわれわれが持っている罪のひとかけらもなかった、聖人のようなかただったのでしょうか。前に、遠藤周作というカトリックの作家が、「おばかさん」という小説を書きました。それはイエスを書こうとしたのだと思われるのです。それは人から「おバカさん」と揶揄されるようなお人よしで、ひとつも悪いことをしない、いやできない人として描かれていたと思います。

 イエスは、そういう人だったのでしょうか。もしそうであるならば、確かにイエスは罪は犯さなかったかもしれませんが、われわれと同じ試練に遭われ、われわれと同じ弱さを味わい、そのようにして、われわれの弱さをおもいやることができたといえるのだろうか。

 ヘブル書には、イエスは罪は犯さなかったとは、書いていますが、罪と闘わなかったとは書いていないのです。イエスは肉の生活のときには、激しく罪と闘ったのです。あの情欲抱いて女をみてしまうという罪と激しく闘ったのです。しかし、罪を犯さなかった、どのようにして罪を犯さなかったかといえば、ただ自分の意志の力で罪を乗りこえたのではなく、激しい叫びと涙を流しながら、ご自分を死から救う力のあるかたに祈りと願いをささげながら、罪を犯さなかったのであります。

 イエスはその心のなかに罪といわれるかも知れないよこしまな思いがなかったわけではない、それはあった、しかしイエスはそれと激しく闘った、そうでなければ、どうしてわれわれと同じ試練に遭い、われわれの弱さを知ることができたといえるでしょうか。

イエスもその肉の生活のときには、情欲をいだいて女をみたことがあったのではないか、などと言われるのは、イエスに対するイメージが壊されて、それは到底受け入れることはできないという人もいると思います。わたし自身もイエスに対してそんなイメージを抱きたくはないのです。

 しかし、それならば、イエスがいま、あのペテロと同じ思いを抱き、自分を十字架で死なせないでくださいと父なる神に願っているのは、どうでしょうか。それはイエスがペテロを叱責したように、根っこのところでは、サタンの思いであり、それは罪の思いを抱いたのだといってもいいと思うのです。

しかし、イエスは罪を犯さなかったのです。その自分のなかにふつふつとわいてきた、サタンの思い、その自分の願いを退けて、あなたの御心がなるようにと祈り、罪を犯さなかったのであります。

 イエス・キリストにとって十字架で死ぬということはなんだったのでしょうか。それは多くの殉教者がその正義のために迫害されて、時の権力者に処刑されるということとは違っていたのであります。

 イエスの十字架は、正義を主張するためではなく、主イエスが罪人のひとりに数えられて、罪人のひとりとして死ぬと言う事だったのであります。それが罪人であるわれわれを救うための神のご計画だったのだという事であります。

 罪人として死ぬと言う事はどういう事か。それは罪に対する罰を引き受けて死ぬと言う事であります。罪を犯した人間は罰を受けなくてはならない、罪を犯した人間は罰っせられなくてはならないのです。

 罪を犯した人間の一番大きな問題は、罪を犯した後の態度であります。自分の犯した罪を絶対に認めようとしない、あるいは、色々な理由をつけてその犯した罪を弁解したり、正当化することであります。われわれは罪を犯す時も卑怯ですが、罪を犯した後の方が、もっともっと卑怯であります。それは自分の犯した罪に対する罰を逃れたいからであります。罪を犯した後の方が、われわれはもっともっと罪人になっていくのであります。

 われわれはなんとかして自分の罪に対する罰を、裁きを逃れようとするのであります。そのために見苦しい言い逃れをし、知恵を働かせて自分の罪を弁解するのであります。幼子はそういう事はしないのです。

 罪を犯した者は、罰を受けなくてはならない、裁かれなくてはならないのであります。

 イエスが罪人の一人になりきるという事は、罪を犯した者として徹底的に神の裁きを受けるという事、神の罰を引き受けるという事だったのであります。

 罪を犯した人間が自分の罪を自覚し、自分の犯した罪の恐ろしさに気づいた時は、みずから進んで罰を受けますというのではないでしょうか。どんな罰をも受けますというのではないでしょうか。少なくとも一度はそういう気持ちになるのではないでしょうか。実際に罰を受ける時になって、あわててその罰は重すぎると、不平をいったり、泣き言をいう事はあるかも知れませんが、少なくとも、自分の罪に気づいた時には、その時には、一度は、このわたしを罰してくださいというだろうと思うのです。

 もちろん罰を受けたって、自分の犯した罪は償われないのです。だから罪は赦してもらう以外にないのです。しかし本当に自分の犯した罪の深刻さに気づいた人は、その罰を受けながら、どんな罰も受けますから、わたしの罪をお赦しくださいというのではないでしょうか。自分の犯した罪の重大性に気づいた人は、あるいは、気づいた時は、決して罰を逃れようとはしないだろうと思います。

罪と罰との関係は深いのです。ときどき思いますが、自分が神様に求めているのは、罪の赦しではなく、本当は罰の免除ということだけなのではないかということなのです。本当は罪の赦しなんかどうでもいいのであって、罰さえ免除されさえすれば、罪がゆるされようがゆるされまいが、どうでもいいと思っているところがあるのではないか。そのように思うということは、本当には罪の自覚なんかひとつもないということであります。ただ罰を受けるのが怖いという思い、われわれはどこまでいっても、自己中心なのです。

 わたしは車を運転しておりますので、始終夢のなかで、車で人を轢いてしまった夢をみます。そのときにわたしがまず第一に思うことは、ああ、これでもう牧師はやっていけないという思いなのです。そして目が覚める、そしてほっとする、ああ、夢でよかったと思うのです。そしてその次に思うことは、自分は人を死なせておきながら、これで自分は牧師をやっていけないという自分の将来のことしか考えようとしない、そういう自分に気づいてぞっとするのであります。それはもう夢が覚めて、ほっとするどころか、夢が覚めてこそ、自分の罪の深さにぞっとするのであります。

 罪が赦されるということは、ただちに、罰が免除されるということではないのです。罪が赦されるということと、罰が免除されるということは、別のことだとわれわれに明確に教えているのが、ダビデの記事ではないと思います。

 ダビデは自分の部下の妻、バデシバを奪い、妊娠させ、その発覚を恐れて、その夫ウリヤを卑劣な手段で殺させて、知らん顔して、バテシバと結婚したのであります。そして子供が生まれました。当時の王だったら、それくらいのことはどうということでもなかったのであります。

 しかし神はそれを許しませんでした。ダビデがイスラエルの王だからこそ、その権力を使って行った罪を神は許しませんでした。それで預言者ナタンをつかわして、ダビデを糾弾するのであります。ダビデも自分の罪に気づき、罪を告白しました。すると神はその罪を赦しました。しかし、罰は全面的に免除はされなかったのであります。ダビデはダビデ自身が死ぬという、死という罰は免れましたが、「その子供は必ず死ぬ」といわれて、その罰は免除されなかったのであります。

 ダビデは自分の子供が病気になると必死に断食してまで、子供の命を助けてくださいと願いました。しかしその願いはかなえてもらえずに、子供は死にました。家来たちは、そのことを王に告げることを恐れました。王は絶望して自害でもするのではないかと恐れたからです。

 しかし、ダビデは子供が死んでしまったことを知ると、ただちに断食をやめて、衣を替えて、身を清めて、神殿にいって、礼拝をしました。そして食事を用意させたのであります。これは家来たちを驚かせ、不快にさせました。家来達は王に食ってかかりました。「どうしてそんなことがおできになれるのですか」と王に詰問しました。
 それに対してダビデは、こう答えました。「子供が生きているときは、主がわたしを憐れみ、子をいかしてくださるかもしれないと思った。しかし、もう死んでしまった。断食してなんになろうか。もうあの子は帰ってこない」というのです。

 ここのところを、竹森満佐一はこう説明しています。「子供が死んだら、もう全部終わったと思ったのだ。自分はまた神を信じて、もとの生活に帰りさえすれば、いいと思ったのだ。一切を神に任せるということはこういうことだ。ここには悲しみはあっただろう。しかし、不平はない。悔いもない。ダビデは神のなさることに、すべてを委ねたのだ」といっているのです。

 罪が赦されるということは、罰がただちに免除されることではないのです。罪が赦されるということは、その罪に対する罰もまた受け入れるということであります。その罰もまた神の罪の赦しの恵みの徴として受けいるということであります。それが罪の赦しを受け入れるということであり、罪の赦しを信じるということであります。

しかし、われわれにはそのことがなかなか納得できないのです。罰が免除されなければ、なにが罪の赦しかと思ってしまうのです。罰の免除があってこそ、罪が赦されることではないかと思ってしまうのです。

 あの姦淫を犯した女に対して、主イエスがいわれた言葉は、「わたしもお前を罰しない」という言葉でありました。「わたしも、お前を石で打ち殺さない」といわれたのです。それを聞いて、女は本当に罪赦されたと思ったことと思います。

 われわれもそうだと思います。罰が免除されなければ、罪の赦しはないのではないかと思ってしまうのであります。

 しかし聖書は、罰の免除はないと告げるのです。神は、罪に対してはあくまで、罰っするというのです。なぜならば、われわれ罪人はみな最後には死を迎えなくてはならないからであります。

 罪に対する最大の罰は、死であります。罪の支払う報酬は死なのであります。罪を犯した者は死ななくてはならないのです。われわれはそれが恐いのです。だからなんとかして罰から逃れようとするのであります。そうしては卑怯になり、ますます罪に罪を重ねていくのであります。

われわれは罪が赦されたのです。しかし、われわれ人間はみな死ぬのです。ただちに死ぬことはないかもしれませんが、われわれはみな死ぬのです。ですから、ある意味では、罪は赦されましたが、罪に対する罰は免除されていないのです。

 問題はその死をどのように受け取るかということであります。その死を神の罪の赦しのなかで受け止められるか、それとも、その死をただ恐ろしいものとして、あるいは無意味なものとして、虚無としてしか受けとめられないかということです。

ダビデは子供の死を神の御手から受け取ることができたのです。だから、死んだと聞くと、起き上がり、身を洗って、香油を塗り、衣をかえ、主の家に行って礼拝をしたのであります。子供の死を神の御手から受け止めることができたのであります。我が子が自分の罪の身代わりに罰を引き受けてくれて、罰を贖ってくれて、死んだのだ、とダビデは信じることができたのです。そこには、深い悲しみはあったでしょう。しかし、そのことによってダビデは自分の罪は赦されたということを改めて信じることができたのであります。

主イエスが十字架で死ぬということは、このダビデの罪に対する罰の身代わりとして死んだ子供の死として、考えてみたらどうでしょうか。

罪は罰っせられなくてはならないのです。犯した罪に対しては、償いはどうしても必要なのです。よくテレビでみますが、自分の子供が無残にも殺されたとき、その親は、裁判で被告が死刑の判決を宣告されなかったときに、親は悲痛な叫びをあげる場面をみます。自分の子供を殺した犯人が死刑になっても、子供は帰ってこないのです。それなのに、子供を無残にも殺された親は、犯された罪に対しては、あくまで罰という償いを求めるものなのです。

しかし、われわれ人間には、この罪に対する償いは、どうしてもできないのです。神は今、その罪に対する償いを、ご自分のひとり子イエス・キリストにおいて、果たそうとしておられるのです。ダビデの罪に対する罰としての償いを、ダビデの愛する子の死ということにおいて、果たしたように、父なる神の愛してやまない、そのひとり子イエスを十字架で死なすことにおいて果たそうとしたのであります。

 われわれにとって罰の最大の罰は、地獄に堕とされるということではないかと思います。わたしは小さい時に、死がとても怖かったのです。それは地獄がこわかったということであります。どこからそういう観念をもってしまったかわかりませんが、死がこわかった。そのために、キリスト教を知り、聖書を読むようになっても、聖書のなかに、比喩としてつかわれているのかもしれませんが、地獄という言葉がでてきますので、聖書はわたしにとっては、裁きの言葉としてしか響いてこなかってのです。

 そういうわたしがその地獄の恐怖から解放されたのは、あのパウロの言葉、「神がもしわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵しえようか。どんなものもわたしたちの主キリスト・イエスおける神の愛からわたしたちを引き離すものはない」という言葉であります。地獄ですら、地獄におとされてさえ、われわれを主イエス・キリストにおいて示された神の愛から引き離すものはないという言葉だったのであります。

今、主イエスは、最後の最後に及んで、自分が十字架で死ぬということは、本当にあなたの御心なのですか、と父なる神に祈ったのであります。それは敵の手によって殺されるということであり、それはサタンの手に渡されるということであり、それはサタンの思う壺にはまることなのではないか、それは自分が地獄に堕とされるということなのではないか、それでもいいのですか、それがあなたの御心なのですか、必死に父なる神に祈ったのであります。

 それに対して神はなにひとつ答えませんでした。答えようとはしませんでした。沈黙しままです。イエスは、その神の沈黙のなかにかえって、神の堅い意志を感じとって、十字架の道を歩み始めるのであります。

 しかし、自分はサタンの手に渡されるのではないかという思いはあの十字架の上でも、最後まで、持ち続けられました。それが主イエスが最後に叫ばれた言葉であります。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉であります。

 主イエスは、あのヘブル書が記しているのように、そのように叫びながら、激しい叫びと涙と共に、ご自分を死から救う力のある神に祈り続けた、「わが神、わが神」と祈り続けたのであります。ルカによる福音書はそのことこういう言葉で記しております。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」といって、イエスは息をひきとられたのだと記しているのであります。マタイ福音書には、この言葉は書き記されておりませんが、あのときのイエスの絶叫のなかには、そういう思いが最後にはあったと思うのです。

神はそのイエスを決して見捨てたままにはしませんでした。それが三日後の復活という出来事においてわれわれに明らかにされたのであります。神はイエスをサタンの手に引き渡さなかった、地獄におとされても、神はそのイエスを見捨てなかったのです。

 罪の報酬としての死、罪の罰としての死、それは決して、サタンの仕業ではなく、神の仕業、神の御心の貫徹なのです。われわれは自分の死をそのようにして、神の御手から受け止めることができるのです。その罰としての死を、神の罪の赦しの恵みのなかで受け取ることができるのです。死は決してわれわれが地獄に落ちていく死ではないのです。神の罪の赦しという恵みのなかに入れられる死なのです。