「わたしの説教について」 西南支区教師会発題
 
  わたしが牧師になって、説教をするに当たり、心がけたことが三つあります。一つは、観念的な説教はできるだけするまいという事と、二つは我田引水的な説教はするまいというこ、三つは説教者としてアジテーターにはなるまいということです。

 「観念的にはなるまい」

 わたしは神学生時代に自分の教会の牧師から始終言われたことは、あなたは観念的だということでした。そのために自分が説教をする時にまず観念的な説教は避けようということでした。救いの問題をできる限り具体的に語ろうということでした。そのためにわたしは物を考える時に、教えられたのは、プラグマティズムの哲学でした。

プラグマティズムの哲学などというと大げさですが、その哲学を体系的に学ぼうとしたというわけでなく、ある時、新聞を読んでいたら、ある人が「真理というのは、自分にとって真理なのが真理なのだ」というようなことが書かれていた、あるいは「自分にとって役に立つものが真理なのだ」というようなことが書かれていて、とても驚いたことがある、その時には気がつきませんでしたが、後でわかったことは、それを書いた人は、どうも清水幾太郎だったようなのです。

それから清水幾太郎の文章はできるだけ読んできました。なにしろわかりやすいということが魅力でした。しかしある時突然その清水幾太郎が左翼から右翼に百八十度転換してしまって、もうびっくりしました。別に自分が左翼だったというわけではないのですが、あんなにあっさり思想を転換できるものかと思って、それ以来彼のことは信用できなくなりました。

わたしが今信用しているのは、プラグマティズムの哲学者の鶴見俊輔です。彼の物の考え方というのは、わたしは大変好きですし、教えられております。彼の著作はできる限り読んでおります。特に対談などが好きです。物の考え方に柔軟性があって、いつも庶民の立場から物を考えようとしている、これは非常に教えられております。説教において、観念的なるのを避けるということは、一つはそういう実用主義的な考えで、つまり自分にとっての真理、自分に役に立つ真理という意味での真理を説教していこうということ、もう一つは、いつも一人の信徒の立場、庶民という言葉が適当かどうかわかりませんが、ひとりの信徒の立場から聖書を読んでいこうとしているということでした。

 ですから、わたしは聖書の言葉をいつも、素直に受け入れられない、信じられないという立場から、それを信じるにはどうしたらいいか、確かに聖書の言葉は真理だけど、本当にそうなのか、それは自分にとって本当に具体的に真理なのか、常にそういう視点から、聖書の言葉を読み、語ろうとして来たと言えると思います。それは無理してそういう立場をとったのではなく、私自身の信仰者としての立場がそうだから、そうならざるを得ないということなのです。ですから、教条主義的なものの考えかたをする人をわたしは嫌悪します。

 わたしは説教をする、というよりは、説教を作るといったほうがいいと思いますが、わたしは説教を作ることはいつも楽しい作業でしたが、わたしが説教を作るということで、苦しいのは、いつでも、この聖書の言葉を自分としてはどうしてもそのまま信じられないけれど、それを正典としての聖書として受け入れ、講解説教をしなければならない、つまり信じた者として説教しなくてはならない、そういう事で苦しみました。つまり信じられるまで、受け入れるまでは、どうしても説教の作業ができない、一言も書けない、書いても気持ちが乗ってこない、そういうことで苦しみました。

 説教を観念的でなく、具体的に語るということで大事なことは、信仰者の個性というものを無視してはならないということだと思います。わたしは聖書の教えの大変大事な教えの一つは人間の個性というものを大事にしているということだと思います。たとえばパウロがキリスト者の倫理の問題を論じる、あのローマ人への手紙の十二章のところで、パウロがまず第一にあげていることは、謙遜になれ、ということ、慎み深く思うということです。そしてなぜ謙遜にならなければならないかという理由として第一にあげているのが、人間はみなそれぞれ違うということです。人間の肢体にたとえて、人間の身体の働きは違うように、みなそれぞれ違うということです。つまり個性を認めなさいということです。それが人を本当に謙遜にさせることなのだという。個性の尊重ということは、キリスト教の教えのなかで大変大切なことだと思うのです。

 ですから、説教においても、素直に信じられる人、また逆になかなか信じられない人がいる、信徒のなかにはいろんな人がいる、この個性ということを配慮して説教することは大切だと思います。特にこれは倫理を語る時大切だと思います。たとえば十字架を担いなさい、という説教する時にも、軽々と担えると思う人もいるでしょうし、もうそれを聞いただけで逃げ出したくなる弱い人もいるだろうと思うのです。その逃げ出したくなる人の信仰をわれわれ説教者は配慮しなくてならないと思うのです。だから、十字架なんていうのは、自分から担うとしなくてもいいんですよ、自分から担うとする十字架なんてものは、大抵自分にとって都合のいい十字架なんだから、十字架というのは、どんなに逃げたって、担わされる時がくるんだから、そうしてそうい時には、思いがけず、担えるものなのだから、ということを言葉をそえて説教しています。そうしたら、拒否反応してしまう人もついてこれますね。

 愛しなさいという説教する場合でも、人によっては、愛しかたというのは様々で、人によってはごく自然に誰に対しても豊かに愛せる人もいるし、ただひとりの人を深く愛する人もいる。生涯ただひとりしか愛せなかったという人もいるかもしれない、いや一人も愛せなくて、犬だけしか愛せなかったという人もいるかも知れない、それでもいいではないか、犬も愛せなかったという人よりは、よほどいい、ということを説教のなかで語ったことがありますが、説教を観念的にではなく、具体的に語るということは、そういうことだと思うのです。人はみなそれぞれの過去の習慣というものを引きずって信仰者になっているわけですから、そのそれぞれのもっている過去の歴史というものを無視してはならないと思うのです。それがその人の個性を尊重し受け入れるということだと思います。説教を観念的にしない、教条的な説教を避けるために大切なことは、この個性というものをいつも配慮しながら説教をするということが大切だと思います。
 

 「我田引水にはなるまい」

 もう一つの問題、説教者として我田引水的な説教は避けようということです。たとえば、奇跡のことでも、聖書の奇跡は真理だと受け入れるならば、どうしてほかの宗教でいわれる奇跡は真理でないのか、ということ、イエスが病気をいやしたりしていることをそのまま受け入れるならば、たとえば創価学会でさかんに宣伝している祈祷をささげたら病気が治るというよなことをインチキだと批判できるか、そういう問題を誠実にかかえながら説教していこうということなのです。

キリスト教の絶対性の問題、これは終始牧師が問われている問題だと思うのです。わたしはもちろんキリスト教の絶対性を信じておりますが、従ってある時には、護教的な説教をいたしますが、しかしつねに自分の語っていることは、ひとりよがりではないかという自覚はしておかなくてならないと思います。そのためにはできる限り、キリスト教に対する批判的な書物を読んで置かなくてならないと思います。わたしにはさきほどあげた鶴見俊輔の本を読むということなどは大変大事なことです。

彼はクリスチャンの母親に育てられたたために、その母の重圧から逃れるために何度も自殺をはかったという人で、その母のために自分はクリスチャンにならなかっかたと言っている人です。今では、国家と結びついていない、神主のいない神社にいってお参りするのが自分が一番心やすらぐ時だと言っている人なんです。そういう人の物の考え方、キリスト教に対する批判というものはとても教えられます。

あるいは、河合隼雄という心理療法家の話、著作はいつも大変教えられます。大体、関西系の人の物の考え方というものにわたしは大変魅力を感じます。自分に全くないものを感じるからです。それから八木誠一の物の考え方もいつも示唆的ですね、大変危険な書物だとは思いますけれど。いつだったか、キリスト教の学会に出席していた時、信仰義認の問題がテーマだったので、行ったのですが、その時、八木誠一も出席して、律法主義の問題を質問したのですね、そうしたら、発題をした偉い先生が、もう始めから、あなたとわたしの立場か違うからといって、その問題に答えようとしないんですね、わたしはもう本当にあきれてしまいましたが、そういう姿勢は説教者として不誠実になると思います。できるだけ、キリスト教以外の思想の書物は読んでおかなくてならないと思います。


 「アジテーターにはなるまい」

 もう一つはアジテーターにはなるまいということです。もともと自分にはそんな素質はないのですが、しかし説教者は自分の小さい教会のなかで、小さい範囲のなかでアジテーターになり得る危険というのをもっていると思います。それだけはなるまいと始めから思いました。説教はできるだけ淡々と語る、決して大声をあげて人を脅かすようなことはしない、あるいは雄弁にかたって、人を酔わすような説教はしない、つまり感情的に人を感動させるような説教はしまいと心がけました。
 


 「わたしの説教の三つの課題」−キリスト教の「御利益主義化」「神秘主義化」「律法主義化」と闘う課題

 わたしは説教をするようになって、始めはそれほど自覚的ではなかったのですが、やがて気がついたのですが、説教する時にわたしは三つの問題意識をいつももっていたようです。一つはキリスト教の御利益主義と戦うというと、一つはキリスト教の神秘主義化に戦う、そうしてもう一つは律法主義と戦うという姿勢です。

 しかしそのうち、前の二つ、御利益主義の問題と神秘主義の問題はそれほど全力をあげて戦う必要はない問題であることに気がついたのです。なぜなら、聖書の中にいくらでも御利益的なことは書かれているし、それを否定することはできないということに気がついた。第一自分自身の信仰が御利益信仰を完全に払拭しているなんてことはあり得ないし、人はみなそうした御利益的信仰を求道しているし、それは最後までそうだろうということに気がついたからです。ただ、われわれの信仰は始めはいつでもそうした御利益的信仰から始まる、しかしそのうちに神に対する信頼に変えられていくんだ、期待から信頼へと、期待というのは、自分中心です、しかし信頼というのは、相手を信頼することですから、相手中心です、そういうように期待の信仰から信頼の信仰へという信仰をみちびきけばいいということに気がついたのです。

 神秘主義の問題も聖書から神秘を取り除いたら、それこそ神の存在そのもを否定してしまうことになるわけで、これは取り除けない、ただいつも気をつけなくてならないことは、牧師自身が神秘的存在にならないこと、またさせないということ、説教以外の時には、できるたけ権威主義を避けていく、牧師を神秘のベールでおおわないことだということに気をつけようということと、我田引水にならないようにということです。
 

 「律法主義の問題」 

 ただ律法主義の問題は、わたしはこれに対しては自覚的に、意識的にいつもこの問題だけは今でも勢力的に戦っているテーマです。自分自身がこの問題でキリスト教に躓きましたし、今でも戦っていることだからです。そしてこのテーマは日本人の場合には、パウロが問題にしたユダヤ人の「神の義に服しないで、自分の義を主張する」という積極的な形であらわれるのでなはく、あの取税人の祈りのように、自分は自分の義を立てられないから、神の前に顔も上げられないという形、自分は善い行いができないから救われてないという形で現れると思います。そうでないのだ、ということを説教では繰り返し語っています。

それと、われわれ日本人のクリスチャンは行為義認を主張するほど傲慢ではないのですが、努力義認主義からはなかなか抜け出せていないのではないかということなのです。よいわざはできないことは確かですが、せめて努力しないといけないのではないですかと考えている人は多いと思います。これは一度徹底的に叩いておかないといけないと思います。なにもしなくても救われるんだということを徹底的に始終説教のなかで述べておかないといけないと思います。それはすぐ、それならば善を来たらせるために悪いことを一杯しようではないか、という反論がでると思います。しかし、そういう愚かな反論を引き出さないような信仰義認の説き方はないのだとバルトが言っておりますが、そのくらいなにもしなくても救われるんだ、ただ神の恵みによって救われるということを説かなくてならないと思います。

しかしこういう説教をしていると、人は集まらないということを痛感しております。アジテーターにはなるまいということ、御利益を否定し、神秘的なものをできるだけ排除するという事では人はなかなか教会にこないと思います。人は御利益を求めて宗教をもとめるし、神秘的なものを体験したいためにキリスト教を求めるし、律法的に、こうすべきだと明確に指示してくれる教えを知りたくて教会にくるのだと思います。それと反対のことをしていたら、人はこないんだなというのが実感です。


最後に一言、わたしは今は説教は、金曜日の午前中に説教の前半を作ります。以前は若い時は、説教はそれこそ日曜日の午前三時でも四時でも平気でしたが、大抵土曜日の深夜から説教を書き出すというのが普通でしたが、ある時から、夜はもう絶対に頭が回らなくなりまして、午前中に切り替えました。そして金曜日の午前中に説教の前半を作ります。そしてそれを寝かしておいて、土曜の午前中に後半を作ります。その時にまず前の日に造った説教の前半をじっくりと読み返します。それからそれを受けて後半を作りあげます。こういうように、二日にわたって説教を作るということは大事だなと思います。一気に作らないで、一晩寝かして置く、そして翌日読み返して見ますと、ずいぶん論理的に飛躍しているのに気がつくわけです。そういう作業をしています。