「福音を宣べ始める」 マタイ福音書四章一二ー二二節


 主イエスが、福音を公に宣べ伝え始めたのは、三十才になってからだと、ルカによる福音書の四章二三節にには記されております。

 ある人が決断するということについて、こう述べております。
「われわれは決断するという事は『こう決めた』ということだと思いがちであるが、そうではない。決断という事は、まず自分の中に何かが生まれてくる事だ、何かができて来ることだ、そしてそれを豊かに育てていく事だ、そしてそれを清めることだ、そのようにしてそれを本当に実現する事なのだ。何かを決めるという事は、手をたたいてぱっと決めるような事とは違う」というのであります。

 何か大切な事を決めようとする時、私はいつもこの言葉を思い出し、また人が、特に若い人が何か重大な事を決める時、たとえば、婚約式のとき、結婚の相手を決めるときに、この言葉を紹介するのであります。決断ということ、何かを選ぶという事の大切さを知って貰いたいからであります。

 イエスが、三十才になって、公に活動しようとしたときに、自分の使命の時が来たと思った時に、マタイによる福音書では「悔い改めよ。天の国は近づいた」となっておりますが、マルコによる福音書によりますと、口語訳聖書では、「時が満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」となっております。まずいわれたことは「時は満ちた」という言葉だったというのです。

 新共同訳では、「時は満ち、神の国が近づいた。」と訳されておりますが、ここは口語訳のほうが原文に忠実で、「時は満ちた、神の国は近づいた」というほうがいいと思います。

 このイエスの第一声、「時は満ちた」という言葉は、いよいよ自分が宣教する時が来たという思いを込めた言葉、そういう深い決断を表す言葉としてとってもいいと思います。

 イエスはそれまでじっと時の熟するのを待っていたのであります。三十年間待っていた。

 イエスは、ヨハネからバプテスマを受けたとき、天が裂け、聖霊が鳩のようにくだって「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声を聞いているのです。それならばその時、イエスは宣教を開始してもいい筈なのに、イエスはそうはしなかったのであります。
 イエスはそのような聖霊の御言葉を聞いて、神の子としての自覚を持ち、自分のメシヤとしての救い主としての使命を感じ、一日も早く行動を開始したいと思ったことだろうと思います。しかし待っていた。

それからイエスは荒れ野に導かれて、悪魔の誘惑に遭うのであります。そしてそれに勝利するのであります。それでもイエスは、ただちに、宣教を開始しようとはしていないのです。

 それから何日、あるいは何年経ったかはわかりませんが、マタイによる福音書四章一二節からみますと、「イエスはヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれたそしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にきて住まわれた」と記し、そして一七節をみますと、「そのときからイエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』といって宣べ伝え始められた」と記されております。

 われわれは何かをしたいと思う気持ちだけでは、その決心はまだまだ弱いのではないでしょうか。それはうっかりすると、自分はこうしたいのだという、ただ自分の個人的な欲求、利己的な要求から、そうしたいのだということに過ぎないかも知れないからであります。そうして、そういう個人的な欲求、利己的な要求というのは、強そうでいて、何かの障害にぶつかると、たちまち萎えてしまうという弱い決意なのではないでしょうか。

 しかし、その「なになにをしたい」という欲求が「そうせざるを得ない」という、やむにやまれぬ思いにまで高まる時、それは大変強いものになるのではないでしょうか。つまりもう単なる自分の個人的な欲望、野心とかを越えて、外から上からつき動かされるようにして、そうせざるを得ないと促される時、その決断は強いものになるのではないか。

 モーセは、ある時自分の同胞がエジプト人に虐げられているのを見て、我慢できなくなって左右を見回し人のいないのを確かめて、そのエジプト人を殺し、土の中に埋めて知らん顔していたのであります。翌日、今度は同じイスラエル人どうしでケンカをしているのをみて、どうして同じ仲間で争うのかと諌めますと、「誰がお前をわれわれの裁判人にしたのか。お前は昨日エジプト人を殺したように、われわれをも殺そうとするのか」と言われて、自分がエジプト人を殺していた事がもう町中に知れわたっている事を知って、恐くなって遠いミデアンの地まで逃げていったのであります。

 モーセは、そこで結婚をし、子どもをもうけ、そうして多くの日を経て、モーセはあの神の山ホレブで神の啓示を受けて、自分の同胞の民をエジプトから導き出す使命を神から与えられるのであります。その時はもうモーセは自分の同胞を助けようなどという熱意はすっかりなくなっていて、、自分はとてもそんな任には耐えられませんと、さいさい辞退して神様に叱られるのであります。しかしそれでも神に促されて、イスラエルの民をエジプトから連れ出す指導者として立ち上がるのであります。ただ自分がそうしたいと思うだけの決心だけでは、何かの障害にぶつかったら、たちまち挫折してしまうのであります。

 モーセは、同胞を救おうとしてエジプト人を殺してから何年待たされたかわからないのであります。そして「時が満ちて」神がモーセを召したのであります。

 「決断とは、自分の中に何かが生まれて来て、そしてそれを豊かに育て、そしてそれを清めることだ」という、清めるという事は、その決心が自分の単なる欲望か、野心というものだろうか、と自問自答して、そうではない、本当に自分はこの事をしたいのだ、そうせざるを得ないのだと考える事ができるようになる、それが「清める」ということなのではないかと思うのであります。

 イエスがこの地上に神の子として生まれ、そして公に活動し始めたのがおおよそ三十才になってからだとルカによる福音書が書いておりますが、その三十年間イエスは何をしていたのか。

 公に救い主として活動するまでの準備の時、イエスは何をしていたのかと言えば、お父さんの大工の職を受け継ぎ、大工の子として三十年を過ごしていたのではないか。たぶんお父さんは早くなくなったのではないかと推察されております。といいますのは、福音書をみますと、母マリアの名前は出て来ますが、父ヨセフはあの誕生の時以来殆ど登場してきませんので、早い時になくなったのではないかと推察されるのです。イエスは長男として、母と兄弟たちを支えるために大工の仕事をしていたのではないかと考えられるのであります。

 イエスはその三十年間なにをしていたかと言えば、ともかく普通の人として暮らし、生活していたという事だけは確かだろうと思います。だから福音書にはその時代についてのイエスの記述はひとつもないのです。目立ったところは何一つなかったからだと思われるのであります。そこには神の子らしい神々しい姿は一つもあらわれなかったのであります。

 イエスの少年時代を伝える唯一の記事がルカによる福音書にありますが、そこでは十二才の時、イエスが神殿で盛んに学者たちを相手に聖書について聞いたり質問したりしている姿がでてくるのであります。人々はイエスの賢さに驚嘆したとありますが、それはイエスがなによりも人間として、ひとりの少年として一生懸命学者たちに質問したり、学んだりした姿に、その賢さに感心しているのであります。そこでは、人々に教えるイエスの姿ではなく、人々から教えられ、学んでいるイエスが記されているのであります。

 イエスは公に人々の前面に出て、宣教を開始するまでの三十年の間、なにをなさっていたのか。

イエスはときどきたとえ話をしますが、主イエスがなさったたとえ話の一つに、銀貨十枚のうち、一枚をなくして、それを探し求め、それを見つけたときに、隣近所の人々を集めて「一緒に喜んでくれ、なくした銀貨をみつけたから」といって喜ぶだろうという話をして、一人の罪人が悔い改めたときに、天において、どんなに大きな喜びがあるかを語るのですが、イエスが用いたこのたとえ話は、イエス自身の生活体験に根ざしているのではないかとある聖書学者は指摘しているのであります。

 イエスは大工さんの子として育てられたとありますが、当時は大工さんという仕事はそれほど生活に困るという貧しい生活ではなかったといわれています。しかしそうかといって、裕福であったわけでもないことは確かだろう、十枚のうち一枚の銀貨をなくしてあわてて、探し回るこの女の気持ちを理解することは十分にできた生活、いっみれば、落語の話にでてくる長屋の近所づきあいたがあっよったのではないか推測できるのであります。

 あるいはイエスは、あるとき「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」といわれたことがありますが、イエスの大工さんの小屋の前には、「わたしの造るくびきは負いやすい」と宣伝文が書かれていたのではないかと、ある聖書学者はおもしろくいっております。

 ともかく、イエスは三十年間、われわれと同じ庶民の生活を過ごされたことは確かだろうかと思います。だから、それは人々を驚かすようなことは一つもなく、記録に残らなかった、伝承に残らなかったのだとおもわれます。

 イエスは三十年間なにをしなさったか。それを想像させる記事がただ一カ所ヘブルの信徒への手紙五章の七節に記されております。
 「キリストは肉において生きておられたときに、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞きいれられた。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれた」と記されているのであります。

 わたしはこれまで、これはイエスが救い主として公に活動された三十才になってからの一、二年のことだけのことではないかと思っておりましたが、そうではなくて、そこに至るまでの三〇年間のことも含んだ言葉ではないかと思うのであります。

 つまりイエスはこの三十年間、聖人のようにして、座禅を組んだりして悟りを開くための修行をしたのではないということなのです。「肉において生きているときに、激しい叫びと涙を流しながら、祈られた」ということであります。それは平穏な祈りの生活ではなく、闘いの生活であります。なんと闘う生活か。それは罪と闘う生活だったのではないか。

 同じヘブルの信徒への手紙で、イエスのことを「この大祭司はわたしたちの弱さに同情できないかたではなく、罪を犯されたなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と記されております。

わたしはここの箇所を読むときに、いつも思うのは、イエスが罪を犯さなかったということはどういうことだろうか、罪を犯したことのない人が、どうして罪を犯してしまうわれわれの弱さをおもいやることができるのだろうかと思うのです。

 わたしはこう思うのです。「罪を犯さなかった」とは記されておりますが、罪と闘わなかったとは書いていないのです。つまり、罪と激しく闘い、それに負けなかった、それが罪を犯さなかったということではないかと思うのです。罪と激しく闘うことをしないならば、それはかえって罪を犯してしまうことなのであって、罪と激しく闘うということが、罪を犯さないということなのではないかと思うのです。

 イエスは「情欲をいだいて女を見るものは、心の中ですでに姦淫をしたのである」といわれましたが、情欲をいだいて女を見た事のない人が、こういうことを言えるだろうか。こんなことをいうと、イエスに対するイメージを損なうことになるかもしれませんが、しかし、イエスの肉の生活のときに、この地上での生活のときに、「情欲を抱いて女をみた」ことがあったのではないか、そのような経験をしたことがあるのではないか。しかし、イエスはそのことに負けなかった、それがイエスは罪を犯さなかったということなのではないか。

 そうでなければ、われわれと同じ試練に遭い、われわれと同じを弱さを経験したと言えるだろうか。そしてそうでなければわれわれの弱さを本当に同情できるだろうか。

もちろん、人を殺した人の苦しみや悩み、悲しみは、人を実際に殺してしまったという経験をした人にしかわからないということではないのです。犯罪者の弱さは、犯罪を犯した人にしかわらないというのではないのです。かえって、人を殺すことに慣れきってしまっている犯罪者は、罪というものに鈍感になっていて、人を殺すことの恐ろしさなど分かる筈はないと思います。

 しかし、人を殺してしまいたいと一度も心の中で思ったこともない人が、そのように一度も人を憎んだことのない人が、人を殺す人の弱さとか苦しみを理解できるだろうか。あいつを殺してしまいたいという、そういう自分のなかにわいてくる憎しみと激しく闘った人が、ある時には、それに負けてしまい、またあるときには、それと激しく闘ってそれを克服したことのある人、そいう自分の中にある罪と闘ったかことのある人が、罪を犯してしまう人間の弱さを思いやることができるのではないか。

 それが、イエスという大祭司は「罪は犯さなかったが、わたしたちと同じように試練に遭われた」ということではないかと思うのです。

 そしてもうひとつ、自分の息子が、なにか重大な罪を犯してしまった、人を殺したしてしまって逮捕された母親が、そうしたことをしてしまった息子を悲しむ場面を見ることがよくありますが、その時、母親自身は息子と同じように人を殺してしまったという罪を犯したことがなくても、その息子の苦しみとか悩み、悲しみ、その弱さを同じものとして同情できるだろうと思うのです。

 それは罪を犯してしまった息子に対する愛情の深さであります。つまり、愛が弱い人の立場にたつことができるという想像力をつくりだすと思います。またそいう息子を育ててしまった自分の責任感がそうさせるということもあると思います。

 罪を犯してしまった息子に対する責任と愛による想像力、それが罪を犯した自分の息子の弱さを思いやることができるのではないかと思うのであります。

イエスもまたわれわれ人間を、われわれ弱い人間を限りなく愛しておられました、そしてその罪を犯してしまう人間の問題を、大祭司として、ご自分の責任として担ってくださろうとなさいました、その責任感と深い愛による想像力が、われわれの弱さを深く同情してくださったものと思います。

しかし、その根底には、その三十年間の激しいご自分の罪との闘いという経験があったのではないかと思うのです。

イエスが、いつご自分のメシア、救い主としての使命を自覚したかは、聖書に記されておりませんが、それはただヨハネからバプテスマを受けたとき、天からの声を聞いた時、突然そう自覚したということではなかったと思います。もっとずっと早くから、人間の罪に気づき、その苦しみ、その悲惨さ、その悲しさに触れて、人間を罪から救いたいという思いを抱いていたと思います。
そしてそれはただ他の人のなかにそうした罪との闘いを見てきたというだけでなく、ご自身の中にある罪との激しい闘いもあったと思うのです。その罪から救われたいという思いもあったはずであります。

 イエスの中には、なにかが生まれていたと思います。そしてそれを豊に育て、それを清め、そしていよいよ三十才になってから、それを実現したのではないかと思います。

 イエス・キリストもまたその三十年間、「キリストは肉において生きているおられるとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のあるかたに祈りと願いをとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられた」というとき、「その激しい叫び声をあげ、涙を流した」という試練、闘いは、やはりイエスご自身の自分の中にある罪との激しい闘いだったのではないか。そしてその闘いはただ、ただこの自分を死から救う父なる神の助けを求め、祈り願うことによってしか勝利はないことを身をもった知った三〇年間だったのではないか。

 少し、脱線することを許していただきたいのですが、イエスが三十数年でなくなったのですが、同じように、若くして三十五才で亡くなったモーツアルトのことを思うのです。イエスとモーツアルトを一緒にするのはおかしなかことですが、彼が死ぬ直前に作曲して未完成に終わった「レクイエム」のことなのです。レクイエムというのは、死者のためのミサ曲といわれていて、死者の魂を、というよりは、死んだ人の遺族を慰めるための曲でありますが、そのモーツアルトのレクイエムのなかで歌われているのは、悲痛な、心のなかから絞り出すような「憐れみ給え」という痛切な叫びであります。
 もちろん、台本はあったでしょうが、モーツアルトが死の床で必死に書いた最後の曲、レクイエムの中で歌われているのは、ただひたすら、この罪深いわたしを救ってくださいという叫びの歌でした。
 「憐れみ深きイエスよ、わたしのことを思いだしてください。正しい裁き主、報復の日の前に赦しの恵みを施してください、われ罪人なれば、嘆き、自分の罪にわが顔は赤らむ、神よ、ひれ伏して赦しを乞います、マクダラのマリアを赦し、盗賊の願いを聞き届けてくださいました、そこにわたしは望みをおきます。わたしを永遠の火のなかにやきつくさないでください、わたしを山羊の群れにではなく、羊の群れのなかにおいてください」と、痛切に歌え続けるのであります。

 先日、このモーツアルトのレクイエムと、すぐつづけて、フォーレのレクイエムと続けてテレビを放映されたものを見たことがあります。どちらも一流の指揮者、オーケストラの名演だったのですが、フォーレのレクイエムというのは、三大レクイエムの一つといわれているくらいで、モーツアルトのレクイエムに匹敵するレクイエム、人によっては特に日本人には、このフォーレのレクイエムのほうが好きだという人が多いのです。自分の葬儀の時にはこの曲を流してくれと言う人が多いのです。とても美しく、静かな心にしみいるレクイエム、本当に死んだ人を、というよりは、愛する人を亡くしてしまった遺族を慰める曲であります。

 このフォーレのレクイエムは、最初の演奏会では、評判が悪かったそうです。当時のカトリック教会では、これはレクイエムではないといって、教会では演奏を禁止されたそうです。それはなぜかといいますと、このレクイエムのなかに「怒りの日」という部分がないからなのです。全くないわけではないのですが、ほんの数行しか歌われれないで、あとはただ死んでいく楽園の安らぎを歌うのです。それは当時の教会の教えに反することなのだということだったようなのです。
 
 しかし、それは後にいつのまにかモーツアルトのレクイエムをしのぐほどの人気のあるレクイエムになっているのであります。それはだれが聞いても心やすらぐ曲なのです。フォーレ自身が当時の教会の批判に対して、自分はこの曲を死の子守歌のようにして作ったのだといっていたそうです。
 最後は「楽園にて、パラダイスにて」という曲で静かに終わるのであります。

 わたしはこの曲をこのとき、モーツアルトのレクイエムのすぐ続けてあとで聞いて、こんなに安らかにわれわれは天国にゆけるのだろうかと思ったのです。天国にいくということは、こんな簡単なことではない、こんな安易ものではない、そこにいくには、モーツアルトが死の床で痛切に、「罪人のわたしを赦してくください、どうか山羊の群れのなかにおとさないでください」という「激しい叫びと涙を流して、死から救い出してくださるかた」に赦しを乞う祈りと叫びが必要なのではないかと思ったのです。

 モーツアルトという人は、三五年という本当に短い生涯でしたが、世間の目では無邪気な人としてみられていたようですが、彼の内面は、心のなかは、自分の罪との激しい闘いをした人だったのではないか。そうでなければ、あの若さであれだけ深い曲を書き続けることはできなかったのではないかと思うです。

 イエスが公に宣教を開始するまでの三〇年間というものは、激しい叫びと涙があった、それはご自分の罪との闘いでもあった、そしてその罪をただ「死から救う力のあるかたに祈り求めて」、罪に勝利した。決して、自分の悟りとか決意の強さとかというものではなく、ただ、ただ、父なる神に助けを求めて、「罪を犯さなおかさなった」三〇年間だったのではないか。

そのようにして、ヨハネから罪人の一人として「罪の悔い改めのバプテスマ」を受けられた。そして罪との闘いのいわば総決算として、そしてそれはこれからメシアとして活動するにときに起こる罪との闘いのために、荒れ野に導かれて、悪魔の試みに遭われ、そのサタンとの闘いにおいても、ただ「主なる神のみを信頼する」といって、サタンを退けたのであります。

主イエスもまた救い主としての自覚と決断を豊にし、そしてそのようにして、清めていったのではないかと思うのであります。