「われは信ず」 使徒信条1 ローマ書一○章一ー一三節

 今日から、使徒信条について学んでいきたいと思います。今までは、講解説教といいまして、聖書に即して、たとえば、ルカによる福音書ならば、その書かれた順序に従って、そのテキストを用いて説教をしてまいりましたが、しばらくそうした説教の仕方から離れて、いわば主題説教という仕方で学んでいきます。つまり信仰とは何か、十字架とはなにか、復活とはなにか、というように、主題に沿って、それにふさわしい聖書の箇所を選んで、説教をしていくという仕方であります。
 講解説教という場合は、その聖書の流れというものは、わかりますが、それでは聖書全体で伝えようとしているわれわれの救いとは何かということ、キリスト教が伝えようとしている内容は何なのかということが鮮明に浮かんで来ないという欠点があります。それで時々、聖書全体ではなにを語ろうとしているかという、われわれの信仰の原点に帰って、聖書から学ぼうとしているわけであります。それには一番、使徒信条から学ぶのがふさわしいと思いますので、今日からしばらく使徒信条につてい学んでいきます。
 
 使徒信条については、われわれの教会では、毎月の第一日曜の礼拝で告白しております。今日は第一の聖日ではりあませんが、使徒信条を今日から学ぶということで、心を新たにして後でご一緒に告白いたします。

 この使徒信条というのは、いったいどうしてできたのかというのは、はっきりしないということであります。使徒信条というのですから、あのイエスの十二弟子、使徒たちの信仰告白ということになるわけです。弟子達が宣教するにあたって何を宣べ伝えたら良いかと考えて、おのおのが自分はこれが大事であると思っている信仰を持ち寄って、信ずべきものを定めよううとしてできたものが、信徒信条なのだという言い伝えがあって、この使徒信条、つまり使徒達の信条が教会で重んじられて今日に至っているのであります。

 しかしこれは歴史的にいって事実ではないだろうということであります。というのは、これができたのは、使徒達の時代よりはもっと下がって二世紀ごろだろうということのようであります。それはともかく、直接のあの十二弟子の作った信条ではないにせよ、この信条が教会が作った一番古い信仰告白の内容であるということは明らかなことで、そして、その内容も聖書の教えに一番ふさわしてものとして教会で重んじられてきたことは確かなのであります。
 
 ただ後にこの使徒信条には、信仰によって義とされるとか、聖書がわれわれの生活の規範であり、正典であるとか、われわれプロテスタントの教会からいうと、大切な教理が含まれておりませんので、この使徒信条に更に付け加えられて、信仰告白文が作られていくわけであります。われわれの日本基督教団の信仰告白文も使徒信条を軸にしてそれに前文があるという形をとっているわけであります。

 内容に入りたいと思います。

 使徒信条の出だしは、「われは信ず」という言葉から始まってりおます。よく音楽でミサ曲がうたわれますが、そこでcredoと歌われますが、そのクレドーであります。

 日本語では、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」で始まりますが、原文は「我は信ず、天地の造り主、全能の父なる神を」となっているわけです。

 それで「われは信ず」ということから学んでいきます。第一に考えたいことは、「我は信ず」という告白で、「われわれは信ずる」という告白ではないということであります。「わたしは信ずる」という告白から始まっているということであります。つまり「われわれ」という複数形ではなく、「わたしは」という単数形で告白されているというこであります。

つまり、告白する主体がはっきりしている、「赤信号、みんなでわたればこわくない」という言葉がはやりましたが、そういう「みんな」ではなく、そういう無責任な「みんな」ではなく、みんながどうあろうと、「わたしは信じる」という告白から始まっているということであります。他の人がどうあろうと、他の人がなんといおうと、「わたしは信じる」という告白であるということであります。告白する主体がはっきりしている、つまり自分の責任というものをはっきりとさせているということであります。

 そして更に大事なことは、その「わたしは信ずる」という告白を、わたしが密室の中でひとりで「われは信ず」と告白するのではなく、教会のなかで、信仰を同じくする者たちのなかで、つまり、「われわれは信じる」といってもひとつもさしつかえない共同体のなかで、みんなと一緒に、しかし責任の主体をはっきりとさせて、「わたしは」信ずると、告白するということなのであります。

 どうしてそういうことを言わなくてならないかといいますと、この「わたしは信ずる」という告白は、自分の個人的な信念を述べるとか、自分ひとりの確信とかというものではないからであります。信仰というものは、自分の信念とか自分の確信というものではなく、教会が受け継いできたものを、自分が受け入れるということなのだということなのです。
 
これはわたしが竹森満佐一の小さなパンフレット「正しい信仰」、その副題は使徒信条になっておりますが、その書物を通して学んだことなのですが、わたしがその書物の中で一番教えられたところであります。こういっております。
「わたしは信じるというのは、だれがなんと言ってもわたしはこう信じるということではない。そうではなくて、教会があなたはこのように信じますか、と問うのに対して、わたしは信じます、と応えるのが、わたしは信じるということの本当の意味だ。そういえばすぐに気がつくことだけど、信条というものは洗礼式からはじまっている。洗礼を受ける時には、だれでも式文によって、教会の信仰告白を受け入れるとか、神を父と信じるとか、ということを公に言い表すことだ。それは実は、教会が、教会が信じている内容を示して、あなたはこれを信じるか、と問うのに対して、自分はそのとおりに信じますと告白することなのである」と書いているのであります。
 
つまり、信仰の一番大事なことは、自分はこう信じるという、自分が自分がという自己主張にあるのではなく、長い間教会が信じて告白して来たもの、そしてそうるすることによって、救われ、生かされてきたこと、それを、自分も信じて受け入れるということ、信じるということは、「受け入れる」と言うところにあるのだということであります。

 われわれの洗礼式もその形をとっているわけです。洗礼を受ける人と、誓約をしてもらうわけですが、その誓約の前に日本基督教団の信仰告白を牧師は朗読するわけです、そして「あなは聖書に基づき日本基督教団信仰告白にいいあらわされた信仰を告白しますか」と聞くわけです、それに対して「告白します」と誓約するのです。さきほどいいましたように、日本基督教団の信仰告白の中心は、この使徒信条であります。洗礼式の誓約で一番重要なことは、教会が信じていることをわたしも受け入れます、そのことを告白しますということなのです。それに対して、教会の名において洗礼を授けるということなのであります。

 以前は、松原教会では、受洗者に対して、自分の信仰を書いてきてもらって、それを洗礼を受ける前に朗読させる、つまり、告白させる、ということをしてまいりました。これが誓約の前にしたのか、後にしたのか忘れてしまいましたが、ともかくそう言う形をとりました。しかしある時からは、若い人はそういうことはできるかもしれないが、年を取ってきた人には、そういうことを文にするということは難しいということで、そういうことはしなくなったのです。確かに洗礼を受け取る時に、自分の信仰を自分の言葉で書き記して、それをみんなの前で発表するということは、信仰の告白ということを確かなものにする、はっきりさせるという利点はあります。しかしどうかすると、「わたしは」というところに主張がでてしまう、自己主張がでてきてしまう、自分の信念とか自分の確信というのが前面にでてきてしまう危険性があるわけです。

 この竹森満佐一の使徒信条の解説を読んで、その危険に気がつき、受洗者が自分の信仰を書き記してそれを朗読させるという形をとるのはやめてよかったなと思って、それ以来その形はとらなくなりました。

 「われは信ず」という告白は、そのようにわれわれは信ずるという教会という共同体のなかで告白するのであります。しかしもとにもどるようですが、そのわれわれのなかで、責任をはっきりさせて、「我は信ず」、他の人がどうあろうとわたしは信じますという告白であるということが大事なのであります。さきほど読みました聖書の言葉に、パウロが、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」というように、自分の口で「わたしは信じます」と告白する、それをはっきりと公にするということが大事なのであります。

イエスがピリポ・カイザリヤの途上で、弟子達に「人々はわたしを誰といっているか」と問いました。その時、弟子達はある人はバプテスマのヨハネだといい、ある人はエリヤだ、預言者のひとりだと言っていると答えました。するとイエスは「それではあなたがたはわたしを誰というか」と聞くのであります。それは「それでは、あなたがたは」と言っておりますが、内容的には、「それではあなたは」「お前はどうなのか」ということであります。「それでは、あなたは、他の人がなんといおうと、それではお前はわたしのことを誰だというのか」という一人一人に対するよびかけであります。

 それに対してペテロは「あなたこそキリストです」と、ひとりで答えたのであります。そのように「わたしは」という告白、「他の人がどうあろうと、わたしは」という告白が大事なのであります。
 
 それでは「われは信じる」という「信じる」ということは、どういうことでしょうか。信じるというのは、自分の信条を信じるとか、自分の思想を信じるとか、自分の信念を信じるとか、つまり自分の信仰を信じるのではないのです。「天地の造り主、全能の父なる神を信じる」と続くのです。つまり「わたしは信じる」という後に、「わたしは自分を信じるのではなく、神を信じる」という告白が続くのです。ですから、そこにはもう「わたしは、わたしは、なにがなんでもわたしはこう信じる」という自己主張がみじんにも入り込む余地はないのです。この「わたしは信じる」という告白は、信じることによって、自己を神にあけわたします、という告白がつづくのです。

 そして「信じます」というとき、何を信じるのかといいますと、「天地の造り主、全能の父なる神を信じます」とつづきますので、信じる対象は、事柄ではなく、ある人格を信じる、人格というとおかしいですが、本当は神格というのかもしれませんが、そういう日本語はないので、人格という言葉を使いますが、ともかく神を信じるというのです、なにかの事柄を信じるのではなく、生きた神を信じるということなのです。ですから、本当は「信じる」という言葉よりは、「信頼します」という言葉のほうが正しいかも知れないと思います。

 信じるというときには、ある事柄を信じるという時にも使われるからであります。たとえば、飛行機はめったなことでは落ちないということを信じるとか、その銀行をわたしは信じるとか、そういう事柄を信じるというときにも使います。それに対して「信頼する」と言う言葉は、ある人を信頼するという時だけに使います。ですから、神を信じるわけですから、生きた神を信じるということですから、本当は神を信頼するという言葉のほうがいいかもしれません。これは「信じる」という言葉と、「信頼する」という言葉に、言語的に違いがあると厳密に調べたわけではありませんので、わたしなりの感じなのです。

 それはもう少し説明しますと、パウロの言葉にこういう表現があります。ローマ人への手紙の四章の一六節からのところに、アブラハムの信仰についてふれてこういいます。「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」とあります。つまり、われわれは「死んだ人が生き返る」という事柄そのものは、なかなか信じられないと思います。

しかし、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じる、それをなさるかたがおられる、そういう神がおられるということならば、われわれも信じることができるということがあるのではないかと思います。「死人が生き返る」という事柄だけを信じるかといわれれば、なかなか信じられない、しかし、それをなさった神がおられる、そういう神を信頼するということはできる、神を信頼できる故に、死人が生き返るという事柄もまた信じることができるということであります。われわれの信仰というのは、そういうものではないでしょうか。
 
アンセルムスという古代の神学者の有名な言葉に、「知らんがために信じる」
という言葉があります。普通は、われわれの思考形式からいえば、いろいろと実験を積みか重ねていって、すべてのことが証明されて、そしてそれを信じるというに至る、つまり「知る」ということが先にあって、それから「信じる」ということが起こるのですが、信仰の場合は、知るためには、まず信じなくてならないというのです。「死人がよみがえる」という事柄を知るためには、まず「死人を生かし、無から有を生じさせる神を信ずる」という「信じる」ということが先行しなくてはならないというのです。

 われわれはなにか事柄を信じるのではない、何か思想を信じるのではない、なにかの信仰箇条や、信条を信じるのではない、生ける神を信じるのです、ですから、「信頼する」という言葉のほうがふさわしいのではないかと思います。
 
信頼というとき、わたしはいつもある人の言葉を思い出します。「信頼というのは、あの人ならば、こういうことはしないと信じるということだ」ということ、それが人を信頼するということだという言葉であります。つまり、その人と自分とは個性は違うわけです、ですから、すべてが同じことを考え、行動するとは限らない、しかし最低限あの人ならばこういうことはしまい、と信じることはできる、それがその人を信頼することだというのです。
 
われわれが神を信頼するということはそういうことだと思います。われわれもまた神にいろいろとお願いしたり、期待もするわけです。いつも期待通りの祈りが聞かれるとは限らない、しかしそれでもわれわれは神に信頼していく、神の愛を疑わないからであります。
 
 「わたしは信じる」というのは、そのようにして、「神に信頼する」ということなのです。これは「自分を信じる」のではなく、「神を信じる」のです。ですから、いつも自分の不信仰を捨てて、神を信じるほうに賭けるということが必要なのです。この「我は信ず」ということの背後には、いつも「信じます。不信仰なわたしをお助けください」という決断が必要とされるのであります。
 
 「われは信ずる」というのは、ひとつの告白であります。つまりはそれはひとつの決断であります。決断という日本語が示しているように、それは何かを「断つ」という行為が伴います。何かを捨てるということが決断するということであります。信仰にはいつも、そして特に信仰の告白には、この決断ということが伴います。洗礼を受ける時には、われわれは大変大きな決断が必要であります。特に異教の国の日本人の場合には、それが必要であります。つまり他の神々をわたしは捨てて、イエス・キリストだけを、イエス・キリストにおいて啓示された神のみを信じます、という決断を必要とすると思います。その決断のなかには、自分の不信仰も捨てるという決断が含まれていると思います。

 さきほど、われわれの信仰は本当は「われは信ず」というよりは、「われは信頼する」という言葉のほうがふさわしいのではないかといいました。しかしわれわれの使徒信条は「われは信頼する」ではなく、「われは信ず」となっているのです。それはどうしてなのでしょうか。これは厳密にいえることてばないのですが、「信頼する」という日本語よりも、「信ずる」という日本語のほうに、この決断する、つまり何かを捨てるというニュアンスが感じられるからではないと思います。「われは信頼する」というなにか甘さが感じられる、それに比べると「われは信ず」と言ったほうが、やはりなにかきりっとしたもの、決断的な信仰、何かを捨てる、という感じがともなうので、われわれの日本語の使徒信条は「われは信ず」という言葉になったのではないかと思うのであります。
これから使徒信条を学んでいきたいと思います。