「十字架による救い」使徒信条その十 ローマの信徒への手紙三章二一ー三一節
 
 使徒信条は、短い信仰の告白ですけれど、その中でもイエス・キリストの十字架についての告白が一番長いのです。「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」と告白されるのであります。
 
 なぜ神の子イエス・キリストは、十字架で死ななければならなかったのか。殺されなければならなかったのか。ステパノのように、人々から石で打ち殺されるという殺されかたではいけなかったのか。イエスの弟子達がイエスの死について人々に語り、その死を神がよみがえらせたのだ、と語る時、こういうふうに語り始めました。「わたしたちの先祖の神はあなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせた」、「木にかけて殺したイエス」というのです。
 
 イスラエルの人々にとって、この「木にかけて殺される」ということは特別の意味がありました。申命記に「もし死にあたる罪を犯して殺され、あなたがその木の上にかける時は、翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ず、それをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」という律法が記されているのであります。これをみますと、木にかけて殺す、というよりは、殺したあと、木の上にかけたようであります。それはたぶん見せしめとしてそうしたのかもしれません。ともかく死体が木にかけられるということは、神の呪いを受けたものとしてみなされていたのであります。
 
パウロの言葉にこういう言葉があります。
 ガラテヤの信徒の手紙で、「キリストは、わたしたちのめに呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われる』と書いてあるからです」とあります。
 
イエス・キリストが十字架で殺されなければならなかったというのは、イエス・キリストが神の呪いを受けて死ななければならなかったということなのであります。何の呪いか。それは罪に対する神の激しい呪いであります。神が罪というものに対してどんなに忌み嫌っているか、どんなに呪っておられるかということであります。罪に対して神はどんなに罰せずにはおられないかということであります。
 罪の支払う報酬は死である、ということであります。罪を犯した者は死ななければならない、しかも神の呪いを受けて死ななければならないということであります。この事実が曖昧にされてしまっていては、イエス・キリストがなぜ十字架で死ななければならなかっのかということがわからなくなってしまうのであります。
 
 昔新聞に連載されていた小説に、五木寛之の書いた「凍河」という小説がありました。細かい筋は忘れてしまいましたが、戦時中、中国で生体実験をした医者が、戦後そのことを悔いて、戦後立派な病院を建てて、献身的に奉仕する。その病院は貧しい人のためにも積極的に奉仕してみんなから感謝される。その院長である医者は一日献身的に働いていて、町の人から大変尊敬され、感謝されているというのが筋であります。
 その病院に、かつてその院長と一緒に中国で生体実験に参加した医者がやってくる。その男はアル中になって、めちゃくちゃな生活を送っている。その院長の娘がその男がかつて父親と同じ戦友であったことを知らされ、自分の父が戦時中にやったことを教えられるのであります。そしてその人はたしか自殺してしまうのではないかと思います。野垂れ死にのような死に方をするわけです。そういう小説でした。その中でその娘が父親を非難するところがあります。自分の恋人にこう訴えるのであります。
 「父は毎晩やすらかに寝息をたてて安眠し、朝ここちよく目覚めるとラジオ体操して一日を爽やかにスタートさせる。献身的に患者さんのために働き、そしてご飯をおいしくいただき、一日の疲れを爽やかに感じながら、感謝しつつ寝につく。たとえ粗末な背広をきていようと、ぜいたくな生活や名誉職などにつかなくても、あの人は満足なの。悔い改めた瞬間からそうなったのよ。つまり父は幸福に生きている人だ。戦争中はお国のためにと信じて、細菌実験に熱中し、敗戦後はたちまち非を悟って罪のつぐないに生きる。とても快適に。幸せに。あたしはそれがどうしても許せない気がする。罪を犯した人間はその罪のつぐなうためには苦しむことが必要でしょう。だのに父はむしろ、苦痛よりもそのつぐないによって他人よりももっとしあわせになっている。それに対して、武田さんは、武田さんというのは、そのアル中のひとなのですが、武田さんは罪を犯してそれを死ぬまでしょいこんで、苦しみながら生きている。外からみると、父のほうが立派に見えるけど、あたしは反対よ。武田さんはアル中になって自分をめちゃめちゃにしてしまうことで、つまり不幸になることで、自分の罪をつぐなった 。それこそ人間よ、それが本当の良心としいうものだ。」

 戦時中とはいえ、中国で、生きている人間を使って、細菌の研究をするという生体実験をした医者が、戦後それを悔いて、その償いとして献身的に奉仕する生き方をする、それはいかにも悔い改めのすばらしいありかたのようにみえるけれど、それが本当のつぐないになるのだろうかと娘はするどく指摘するのであります。罪のつぐないというのは、悔い改めて良い生活をするというようなことではないというのです。なぜならば、自分のしたことにつぐないをしたことにはならないからです。つぐないはやり直しではない、訂正ではない、文字どおりつぐないでなければならない。

 罪のつぐないとして、悔い改めて、それからは、良い生活をする、正しい生活をする、そうしては、自分は清く正しく生きているんだといってみても、それは罪を犯した人に対してつぐないを果たしていないわけですから、少しもづくないをしたことにはならないということであります。

 それではひとたび罪を犯してしまったら、どうやってその罪をつぐなったらいいのか。その娘がいうように、ただその後苦しんで苦しんで、自分の罪にのたうちまわれば、それで罪をつぐなったことになるのかといえば、その本人がどんなに苦しんだとしても、結局は罪をつぐなったことにはならないわけです。その院長の友人の武田という人はまさに苦しんでついにのたれ死にする、それは確かにその院長よりはまだ自分の罪に苦しんだということで、良心的とはいえるかもしれませんが、それでも罪のつぐないを果たしたことにはならないと思います。
 
 これも昔のフクチャンという漫画にありましたが、フクチャンの妹のキヨチャンがある時、道路で水まきをしていた。その水がとおりかかった紳士の洋服にかかってしまい、その紳士が怒った。そうしたら恐縮したキヨちゃんがそばにあったバケツの水を自分がかぶってしまって、その様子をその紳士が当惑して見ている、そういう漫画でした。
 罪をつぐなうとということは、そういうことではないのです。水をかけてしまった紳士にあやまるとか、その洋服をふいてあげるとか、そういうことが本当はつぐないをするということなのに、自分に水をかぶったって、それは当惑するだけで、ひとつもつぐないにはならないわけです。
 罪を犯した人間が悔い改めて、それ以後は清く正しい生活をしてもつぐないにはならないのです。

 それではどうしたら罪に対するつぐないが果たせるかということであります。それは罪を犯した人間が死ぬ以外にない、そうでなければ、本当は罪のつぐないにはならないのです。それが罪の支払う報酬は死だということなのです。罪を犯した人間は死ななければならないのです。

 昔は、地獄とか最後の審判とか、そういう教えがまだ生き生きと語られておりました。それは罪を犯した人間は死んでから、きちんと決済されるという考えです。罪を犯した人間は、神にであれ、閻魔大王であれ、ともかく、裁きを受けるのだという教えであります。それが本当のことだとみな信じていたのです。しかし今日、そうした地獄とか最後の審判というのは、どうせ人間が作り出した神話だということになって、誰ももうまともに信じなくなった。特に今の子供はもうそんなことは信じなくなった。それがあるいは、今日の少年犯罪の多発の原因かもしれないと思うくらいなのです。そんなことではないのかもしれませんが、しかし少なくとも、少年の犯罪に対しては、今日被害者のことよりは、罪を犯した少年の人生を守るということばかりに視点が向けられて、少年法というものがそう言う方向を目指しているものですから、罪に対する厳しい裁きとか、つぐないと言う点が希薄になってしまっているのでなはいか。

 それは理不尽に殺されていった被害者からみれば、到底納得のいかないことだろうと思います。非道な殺人を犯した少年の更生なんかを考えるよりも、殺された側の被害者の気持ちを汲んでくれという訴えが、ようやく注目されだしたのであります。
 少年はあまり罪意識もなく、人の命をうばってしまう。大人ならば、多少は人を殺すということがどんなに大変なことかという自覚があるかもしれませんが、少年にはそれはほんとうに希薄ではないかと思います。その少年に罪のつぐないをさせるということは、少年院に入れて教育したり、矯正教育することよりも、なによりも、罪を犯した人間は死ななければならないのだということを徹底に教えることが、その少年といえども、子供といえども、いや子供だからこそ、人の命を奪った人間は死ななければならないのだ、それが罪のつぐないなのだということを厳しく教えることが、その子供の更生の道だと思うのですが、その点が曖昧にされていないだろうか。

 それでは罪のつぐないはどうしたらよいか。罪を犯した人間は、罪を犯されたほうの被害者によって石で打ち殺されればいいのか。復讐の意味で、ただ死刑にすればいいのか。この頃、復讐と言う言葉が、リベンジという英語が日本語のようになって使われ、なにかというとリベンジ、リベンジと、何かスポーツ用語になっていて、あのリベンジという言葉を聞く度にわたしは大変不愉快な気持ちになります。リベンジという言葉、復讐と言う言葉をそんなに軽々しく使っていいのだろうかと思いたくなるのであります。
罪の報酬は死であるということは、確かに、罪を犯した人間はその報酬として、その報復として、その復讐として、死ななければ、つぐないにはならないのです。しかしそんなことをしたら、人間はひとりとしてこの地上に生き残れないことも確かであります。今日テロが多発しているのは、結局はこの復讐の論理から起こっていることであります。

 この復讐の連鎖という鎖を絶つということは大変ことであります。創世記には最初に殺人を犯したカインに対して、神が「お前は地の放浪者にならなければならない」といいますと、カインは、いやそんなことになったら、私を見つける者は私は殺人者だということで、わたしは殺されますと訴えますと、神はそのカインを殺す者に対して、「わたしは七倍にして復讐する」といわれて、カインに対する復讐をやめさせるために、カインが殺されないように、カインの額にしるしをつけたというのであります。

 神が復讐の連鎖さというものをどんなに恐れたかということであります。しかしその神の深い配慮は、その後の子孫、レメクによって無視されました。レメクがこう歌うからです。「わたしは受ける傷のために、人を殺す。受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」と歌いだすのであります。カインに復讐する者を神が七倍にして復讐する、それは神がなさるのです、しかもそれは神が復讐という連鎖を断ち切るために、神みずからが七倍にして復讐するといわれたのに対して、レメクは神にその復讐を委ねるのではなく、自分自ら、復讐するというのです、しかしも七倍ではなく、七十七倍にして復讐するというのです。これでは復讐はどんどん拡大する一方であります。
 いかに復讐という連鎖を断ち切ることが難しいことかということであります。

 罪の支払う報酬は死なのです。しかしその死を罪を犯した本人にまかせたら、罪を犯した本人は自殺する以外にないのです。そしてそれによって被害者がつぐなわれればいいのですけれど、自殺されても、被害者のほうからいったらひとつもつぐなってもらったことにはならないのです。

 それでは、罪を犯されたほうの被害者が相手を石で打ち殺すというように、自分の手で死なせればつぐないになるのかと言えば、これはまた復讐という連鎖を生むだけのことになります。罪は罪を生み出していくだけであります。それはまさに罪の呪いというものであります。
 
 神は、罪というものはどうしても償われなければ、おさまりがつないという事、しかもその償いを罪を犯されたほうに任せたら、それは復讐の連鎖を生むだけたということを知っておられた。そのために神はご自分のひとり子イエスにその罪のつぐないをさせて、そうして罪をこのイエスにすべて担わせて、いわばこのイエスに免じて赦してあげて欲しいと被害者に訴え、そして罪を犯した方に対しては、お前の罪をイエス・キリストが身代わりにつぐなってあげることによって、わたしはお前の罪を赦すと宣言されたのであります。
 それが木にかけらて呪いを受けたイエスの十字架の死のつぐないというものであります。

 ヨハネによる福音書の三章の一五節から、こういう不思議な言葉があります。「モーセが荒れ野で蛇をあげたように、人の子もあげられなくてはらない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」とあります。そういった後「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉が続くのであります。
これはどういうことかといいますと、昔イスラエルがエジプトを出て、荒野をさまよっていた時に、食べ物がなくなって神に不平を言い始めた。それで神は怒って民の中に蛇を送った。蛇は民をかみ、人々は死んでいった。それで民はモーセのところにいって、「自分たちは罪を犯した、主に祈って私達から蛇を取り除いてください」と訴えるのであります。すると神は「あなたは炎の蛇を青銅で造ってそれを旗竿の先につけなさい。蛇にかまれた者もそれを見上げれば命を得る」と言われた。それでモーセは青銅で蛇を造り、旗竿の先にそれを掲げた。人々はそれを見上げることによっていやされたというのです。人々はその青銅の蛇を見上げて、自分たちの犯した罪を思い、そのために神から派遣された罰としての蛇を見上げ、神はもうその蛇をわれわれから取り去ってくださったことを思い、救われたということであります。

つまりその旗竿の先に掲げられた青銅の蛇は、今や十字架の木の上に掲げられたイエス・キリストなのです。その十字架の上に掲げられたイエス・キリストを見上げた者は永遠の命を得るというのです。そう言ったあと、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」というのです。

 つまり、今や罪を犯した者もそして罪を犯された被害者も、共に十字架の上で呪われて掲げられているイエス・キリストを見上げることによって、救われるのだというのです。罪を犯されたほうもです。罪を犯されたほうも、復讐に走るのではなく、このようにして、罪を神ご自身が償われたことを受け入れて、このようにして神が罪を赦そうとしておられることを受け入れて、罪を赦すのであります。

 これは自分達の正義を主張して、自分の正しさに邪魔になったイエス・キリストを十字架につけて殺した祭司長、律法学者たちには、思いもつかない神の義であり、神の愛だったのです。

 神の義は、彼らのようにただ自分の正しさを主張し、そして他者をけおとしていく義ではなく、みずから独り子イエスに血のつぐないをさせて、人間の罪を赦すということ、その神の愛にこそ、神の義を貫き通したというのです。イエスを十字架の上で死なすということで、罪の支払う報酬は死であることをいささかも曖昧にすることなく、曲げることなく、その神の義を貫き通し、そのようにして罪人である人間を赦すということで、神の愛を示されたのであります。こうして神の義と神の愛が共に示されたのであります。
 
 罪を犯ししまった人間は、もうただ絶望する以外にないのか。もう明るい生活は望んではいけないのか。
 確かに、あの病院の院長のように、罪を悔いて、その後、献身的に人に奉仕する道もひとつの罪を犯した者の悔い改めの道であるかもしれませんが、しかしそれによって、いい気になり、健康的に生活することが悔い改めの再生の道とは思われません。

 それでは罪を犯した人間の再生の道はどうしたらいいか、それは神によって自分の罪は赦されたということ、そのことに感謝と喜びを見いだして生きるということではないか。自分の悔い改めの善行に喜びを見いだして生きるのではなく、あくまで、イエス・キリストによって罪赦された者として、感謝と謙遜な喜びのなかで生きるということであります。

 もちろん悔い改めて、これから罪を犯さないように励む、精進する、清く正しい道を歩み始めるということは大事なことであります。しかしその場合、あの木の上に掲げられた青銅の蛇、十字架にかけられイエス・キリストの死をわれわれが見上げなかったならば、その善行の悔い改めのわざはたちまち、自分を誇らすわざに転落するに違いないと思います。