「死人のうちよりよみがえり」使徒信条十二 第一コリント一五章

 使徒信条の告白は、イエス・キリストについて、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」と告白したあと、「三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白が続きます。

 なぜ三日目にイエスはよみがえったのでしょうか。それは旧約聖書でそう預言されているからだということかもしれません。たとえば、ホセア書の六章にこういう言葉があります。
「さあ、われわれは主のもとに帰ろう。主はわれわれを引き裂かれたが、いやし、われわれを打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主はわれわれを生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。われわれは主の御前に生きる。」という言葉があって、ここに三日目にという言葉がでてくるからであります。あるいは、ヨナが三日三晩大魚の腹のなかにいたが、三日目にその腹がでてきたように、イエスも三日目によみがえったのだということで、三日目にと言う言葉がここででてきているのだということであります。

 しかし、一番大事なことは、イエスは事実として死んでから三日目によみがえったということであります。それが事実だから、「三日目に死人のうちによみがえり」と告白されているのであります。もしイエスが四日目によみがえったならば、「四日目に死人のうちよりよみがえり」と告白されていいことなのです。つまり「三日目に」ということを意味づける必要はなくて、事実としてイエスは三日目によみがったから、そう告白しているだけであります。
 
 この事は、イエスの復活ということをわれわれが考える時に大切なことであります。つまりイエスの復活という奇跡は、その意味よりは、その事実が、イエスが十字架で死んだけれど、三日目に神はそのイエスをよみがえらせたという事実が大切なのだということなのです。そのことが実際に起こったのだという事実が復活の意味なのです。 

 これはたとえば、イエスが生きている時になさったさまざまな奇跡がありますが、その中では、事実そのとおりのことが起こったかどうかというよりは、その意味を読みとるということの大事な奇跡というのもあるかもしれません。

 たとえば、男だけでも、五千人の人を七つのパンと五つの魚でその空腹を満たし、それでもなお余った残りのパンくずを集めたら、十二の籠に一杯になったというような奇跡の記事は、実際にそうしたことがあったのかどうかというよりは、そのことを通して示される神の恵みの豊かさという意味が大事だといってもいいかもしれません。

 あるいはイエスが恐らく最後になさった奇跡、盲人の目を開けたという奇跡なども、その事実よりは、その意味、つまりわれわれの心の目がいかに盲目であるか、それを主イエスが今明けてくださろうとして十字架につこうとしているのだという意味としての奇跡を理解することが大事だということもあります。

 しかし、イエスの復活ということに関していえば、イエスは実際によみがえっていなくてもいいのだ、実際によみがえったかどうかが問題ではなく、イエスの十字架の死が決して敗北だったのではなく、勝利だったのだということをあらわす意味をそこから読みとればいいのだということは言えないのです。イエスの弟子達は、イエスが十字架で死んでしまい、始めは望みを失ったが、そのうちに自分たちの中でいろいろと考えて、あの十字架は決して敗北ではなく、そこにこそ神の勝利があったのだと考えるようになった、あるいはそういう幻とか啓示が与えられてそのように信じるようになったのだと考えてもいいのだというわけにはいかないのです。

 イエスのよみがえりは、それが実際に起こったのだという事実が一番大事なのです。復活という、イエスのよみがえりの意味は、それが事実としてあったのだ、それをあなたがたが信じようが信じまいが、それは事実としてあったのだ、そしてそれは通常の歴史的出来事と同じような出来事ではなかったかもしれないが、やはりそれはわれわれのこの生きている歴史の中で事実として起こったことのなのだということ、その事実が、その重大な意味なのであります。
 
 そのことをパウロはいうのであります。
「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などはない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。そしてキリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今なお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人のなかで最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについている人たちの初穂となられました。」

繰り返し、繰り返し、キリストは事実としてよみがえったのだ、その歴史的事実の大切さを強調するのであります。
 ここの一九節ですが、新共同訳聖書では「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」となっておりますが、訳として間違いはないのですが、ここは口語訳のほうがいいと思います。口語訳ではこうなっております。「もしわたしたちがこの世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちはすべての人のなかでもっともあわれむべき存在となる」となっていて、「単なる望み」と意訳しておりますが、このほうがここでパウロがいいたいことをよく訳していると思います。つまり復活を信じると言うことは、キリストにあってこの世の問題だけに関する単なる望みではない、それは死を超えた世界にまで望みをもつ希望を与えられているのだということであります。だから、それは「単なる望み」ではないのだということなのです。

 ちなみに、リビングバイブルでは、こう訳されております。「もしクリスチャンであることが、この世の生活でしか価値がないのなら、私たちほどみじめな者はありません」となっております。これも意味が明解であります。

 なぜそういう望み、この世の生活を超える望みを与えられるのか。それは十字架で死んで葬られ、陰府にくだったイエス・キリストを神がよみがえらせたからだということであります。イエス・キリストが死を突破してくださって、われわれの望みがこの世の生活だけでの単なる望みではなく、死を超えた世界にまで望みをもつことができる望みを与えられたということなのであります。

 パウロはローマの信徒への手紙の四章二四節からみますとこういいます。
 「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させたかたを信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」といいます。
 ここは不思議に思われるかも知れません。といいますのは、パウロは、義とされるということを、キリストの十字架によってわれわれは義とされたのだと言ってきているからであります。たとえば、その前の三章の所では、「ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と言っていて、そこでは、キリストの十字架の贖いよってわれわれは義とされたのだと言っているのです。しかしここでは、「イエスはわたしたちの罪のために死にわたされ、私達が義とされるために復活させられたのです」と、神はキリストを復活させることによってわれわれを義とされたのだというのです。

 これはどういうことかといいますと、われわれの罪というものは、ただこの世の世界だけが問題だということ、死んだらすべてが終わりだという考えで生きているから、われわれこの世の富に執着し、この世で出世することにこだわり、この世での名誉を求め、そしてこの世での自分の義を主張することに汲々として、お互いに傷つけあい、罪の狭い狭い穴の中で生きてしまっている。
 そうしたなかでわれわれの人生は単なるこの世のなかだけの単なる望みに生きているのではない、この世を超えて、死を超えて神が生きておられる、そのことが信じられるようになると、われわれは本当に広い広い世界へと導かれ、単なる望みではなく、死を超えた世界にまで望みをもてるようになる、そして本当に生ける神を信じられるようになる、それがわれわれが義とされるということなのであります。義とされるということは、神との関係が義とされる、神との関係が正しい関係にと導かれる、それが神がイエス・キリストをよみがえらせたということなのだということであります。

 復活は十字架を無意味にする出来事ではもちろんないのです。あのキリストの十字架による贖いによって、われわれの自己主張という罪が明らかにされたということ、キリストがそのわれわれの罪を身代わりに引き受けてくださったことによって、神の裁きを受けて十字架で死んでくださったことを無にすることではないのです。
 われわれの罪がきちん正しく処理された上で、神はそのキリストをよみがえらせて、われわれれを義としたということで、それは決してキリストの十字架を無意味にする出来事だったということではないのです。

復活ということをわれわれが考える時に、イエスは十字架で死んだにも拘わらず、神はイエスをよみがえらせたのだと考えてはならないのです。そうではなくて、イエスが十字架で死んでくださったからこそ、その故に、神はイエスをよみがえらせたのであります。

 少し理屈ぽっくなって申し訳ないですが、しかしわれわれの信仰を考える時に大事なことなので、少し理屈ぽっくいいますけれど、この「にも拘わらず」ということと、「それ故に」という論理は、復活信仰においては大変大事なことなのです。
 つまり、イエスは十字架で死んでしまった。もうわれわれの一切の望みは絶たれてしまった、もう駄目だ。恐らくイエスの弟子達はみなそのような思いだったと思います。しかしその望みを失った弟子達によみがえりのイエスがあらわれた。イエスは生きておられた。神はそのイエスをよみがえらせてくださった、そのことを知って、そのことを信じて、弟子達はたちあがることができたのです。それはまさに、イエスは死んだ「にも拘わらず」、殺された「にも拘わらず」、イエスは生きた、生かされた、という信仰を与えられたということであります。

 ですから、弟子達の最初の説教では、その「にも拘わらず」ということが前面でております。「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りてイエスを十字架につけて殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられれました」と説教しております。あるいはその次ぎの説教では、「あなたがたは命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました」といいます。これはみな「イエスは死んだ、にもかかわらず、神はこのかたをよみがえらせた」という論理です。従って、ここではイエスの十字架というのは後退してしまって、イエスがよみがえったという驚きが前面に出て、復活ということが強調されています。

 十字架ということを前面に押し出したのは、ある意味では、パウロかもしれません。もうあまり繰り返しませんが、ただひとつ引用しますと、ローマの信徒への手紙の六章で、パウロはこういいます。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は罪から解放されています。わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリスト共に生きることにもなると信じます」と言って、あくまでイエスの復活はイエス十字架の死によってわれわれの罪があがなわれたからこそ、その故にあるのだと十字架を強調するのであります。

 復活ということは、十字架を無意味にするものではないのです。十字架があったからこそ、復活があるのです。十字架によるキリストの贖いがあったが「故に」、われわれは自分の罪「にも拘わらず」赦され、生かされ、復活させられるのであります。

 イエスのたとえ話にあります、取税人の祈り、彼は自分の犯してきた罪を考えたときに、神に目をあげることができないで、遠くに立って、胸をうちながら、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。そのように神の前に祈ったということは確かにすばらしいことかもしれませんが、しかしそれだけでは、まだ救われたことにはならないのです。まだ本当に悔い改めたとは言えないのです。そのように祈ったいる取税人に対して、イエスが「義とされ家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」という言葉を聞いて、このような自分でもキリストは赦してくださった、義としてくださった、そのことを信じて、今度は目を天に向けて生きる、神の赦しを信じて、もう自分の古い自分の罪を捨てて、それを見ないで、ただ神の赦しのみを信じて、目をあげて生きるようになる、それが本当の悔い改めということであり、それがキリストの十字架と復活を信じて生きるということなのであります。

 自分の罪にも拘わらず生きるのです、その背後に神の赦し、キリストの十字架の贖いがあるが故なのです。この「にも拘わらず」と「それ故に」という信仰の論理は、パウロが復活について語る時にいつもでてきます。
 コリントの信徒への第二の手紙の四章でもそうであります。「わたしたちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」というのです。そしてこういいます。「だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、『内なる人』は日々新たにされていきます」と力強く宣言するのであります。
われわれは倒れる時もある、行き詰まる時は始終ある、従って落胆することもしょっちゅうあります、しかし、その時にいつも「にも拘わらず」立ち上がろうという力を上から、外からあたえられるのであります。その背後にイエスの死を体にまとっているからであります。
 
 使徒信条は、「死にて葬られ、三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白いたします。聖書では、イエスの復活のことに言及するときには、たいていは、イエスはよみがえらされたと、イエスのほうから言えば、受け身の表現が用いられます。つまりイエス自身の力でよみがえったのではなく、よみがえらせてくださった神の力によってよみがえらされたのだということであります。イエスのほうは十字架で本当に死んでしまい、墓に葬られてしまい、そして陰府にまでどんどんくだっていかれた、その死んだイエスを神がよみがえらせたというのです。

 しかし使徒信条は、「三日目に死人のうちよりよみがえり」と、まるでイエスご自身の力でよみがえったかのように告白するのであります。

 しかしこの告白の仕方も大事であります。確かにイエスは神によってよみがえらせていただいたのです。しかし、その父なる神によみがえらせていただいて、今度はイエスもまた立ち上がる、よみがえったからであります。
 われわれもまた同じであります。神が罪あるわれわれを赦し、生かしてくださったのであります。そうであるならば、われわれもまた自分の罪にも拘わらず、われわれもまた自分の足で、というよりは、ナザレ人イエス・キリストの名によって自分自身の足で立ち上がり、歩かなくてはならないのであります。