「神の右に座すキリスト」 使徒信条十三 ローマ書八章三一ー三九節

 使徒信条は、「イエス・キリストは三日目によみがえった」と告白したあと、「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」という告白が続きます。

イエス・キリストはよみがえったあと、四十日この地上におられましたが、そのあと天にのぼられたのであります。そしてその天の昇られたイエス・キリストは天の広いどこかにいなくなったのではなく、全能の神の右に座しておられるというのであります。

 神の右に座しているイエス・キリストということで、使徒信条は、イエス・キリストのおられる場所を問題にしているのではなく、イエス・キリストの役目、役割を問題にしているのだと、ある神学者が述べております。

 確かに、イエス・キリストは天にのぼられて、神の右に座して、もうなんの役目もしていない、いわば隠退したのだ、神の右にどっかりと座っておられるのだということではないのです。さきほど読みましたローマへの信徒の手紙八章には、「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」と書かれているように、イエス・キリストは神の右に座して、もうすっかり隠退したのではなく、生きて働いておられるのであります。

 それならば、天に上り、全能の父なる神の右に座しているイエス・キリストは、この地上におられたイエス・キリストとどのような働きの違いがあるのでしょうか。
 
 ひとつのことは、もし復活したイエス・キリストが地上におられたままであったならば、イエス・キリストの働きは、あのイスラエルの国の中で限定されてしまったということになるかもしれません。しかし今やイエス・キリストは一つの国、一つの地域に限定されるかたとしてではなく、全世界の主として人々を執り成しをするかたとなったということであります。

 変なたとえかもしれませんが、衛星放送というのが行われるようになって、へんぴな過疎地でもテレビが見られるようになったということですが、それは電波が一度衛星に送られて、そこからまた地上に電波が送られてくるということで、どんな地域からも、テレビがみられるようになったということですが、イエス・キリストは天にあげられて、いわばただイスラエルという一地域の領域だけを支配するのではなく、全世界を支配する主になったのだということであります。
 
 そしてフイリピの信徒への手紙では、キリストは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架に死に至るまで従順であられた、そのキリストを神は高くあげられた」のだというのです。そうして父なる神は「あらゆる名にまさる名をお与えになった、こうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべてイエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白し、そのようにして父なる神を讃えるようになるのだいうのであります。

 つまりイエス・キリストは天にのぼられることによって全世界の人がこのかたこそ救い主であり、このかたこそ真の王であると告白し、このかたの前にひざをかがめて、神を賛美するようになるというのであります。
 腕力をふるう王ではなく、あるいは経済力で君臨する王ではなく、われわれのために徹底的に仕えてくださったかた、われわれの一番汚れた足を洗ってくださったかた、徹底的にへりくだってくださったかたの前にひれ伏し、そしてまた顔を高くあげて、「われらの主」と讃えることができるようになった、そのためにイエス・キリストは今父なる神の右に座しておられるのであります。

 そしてもう一つ大事なことがあります、それはイエスみずから、こういうことを言われているのです。ヨハネによる福音書一六章にある言葉ですが、「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、わたしが去ってゆかなければ助け主は来ない、もし行けば、助け主があなたがたのところに送る」と弟子達にいうのであります。

 イエス・キリストは、弟子達に自分がこの世を去って天の昇ることは、お前たちのためなのだ、お前たちの益になるのだと言っているのです。なぜかというと、わたしがこの地上を去ることによって、今度は聖霊という助け主がお前たちのところに送ることができるからだというのであります。

 つまり、イエス・キリストが天の昇られ、今や全能の父なる神の右に座しておられるということは、ある意味では、現場を退いて、もっと上から、もっと高所に立って、われわれを見ておられる、そしてその代わりに助け主である聖霊をわれわれに送ってくださったということであります。

 なぜイエス・キリストが直接弟子達と交わらないで、聖霊を通して弟子達と、またわれわれと交わることがいいことなのでしょうか。聖霊のことに関しては、使徒信条は「われは聖霊を信ず」という告白があとででてきますので、そこでまた考えようと思いますが、なぜイエスは、弟子達に、自分が天に上り、この地上から離れることがお前たちのためになるのだといわれたのかということなのです。それはわたしの代わりに聖霊を送ることができるからだというのです。

 イエス・キリストが今は天にのぼり、神の右に座すていうことは、イエス・キリストは直接われわれと交わるのをやめて、助け主である聖霊を通してわれわれと交わるということであります。イエス・キリストはわれわれといわば間接的に交わろうとしていることで、それはわれわれのためによいことなのだということであります。

 わたしが神学生の時に、神学生のひとりが「直接性は罪だ」といったことがあって、わたしは大変印象に残っているのです。それはだれか有名な哲学者の言葉として彼がそのように言ったのですが、誰の言葉なのかいまだにわたしはわかりませんし、その「直接性は罪だ」という言葉がどういう意味なのかもわかりませんが、わたしはこれを自分勝手に解釈して、人との交わりにおいて、人と交わる時に、直接的に交わるのは悪いことで、できるだけ間接的に交わることが大切だと理解しているのです。

 これはどういうことかといいますと、自分のことでいいますと、みなさまももういやになるくらいその名前を聞かされるていると思いますが、竹森満佐一先生とわたしとの接触の仕方なのですが、わたしは自分が牧師になってから、東京から離れて遠い四国の地で、主任牧師として教会の牧師となっていろいろなことで行き詰まりを感じている時に、ある時に、竹森満佐一の「ローマ書講解説教」が出版されて、全三巻の説教集ですが、それを読んですっかり敬服したのです。竹森満佐一先生とは神学校時代に授業で教わったのですが、あまり授業では印象に残ったわけではないのです。ただ時々学校の礼拝で、短い、本当に短い説教をなさるだけでしたが、その説教は大変すばらしい説教でした。竹森満佐一を自分の師として仰ぐようになったのは、神学校を卒業して、遠い四国に行ってからなのてす。ですから、先生とは直性交わるということはできなかっのです。書物を通してでした。

 四国にいる時には、大洲教会の八十周年の記念礼拝で講師としてお招きしたときに、直接接した程度で、東京に来てからも先生のところに直接お尋ねしたことはありません。ただ一度クラスの人数人が竹森先生のところに話に行こうと誘ってくれたので、一度だけお宅を訪問しただけです。

 わたしは自分が敬服している先生とは、直接交わることを避けたいと思うところがあるのです。どうしてかといいますと、直接交わると、どうしてもその先生のいいなりになるというか、その先生に媚びたりするようになるのでなはいかということを非常に恐れるからであります。ある距離をおきたい、そうしないと、自分の個性というものが侵略されるのではないか、それを恐れるのです。

 エピゴーネンという言葉がりあますが、辞書をひきますと、真似をする人、亜流、追従従者とでてまいりますが、そういうエピゴーネンになりたくないという思いがあるのです。

聖霊がわれわれと交わる時には、われわれの個性というものを大切にしてくれるのであります。パウロはコリントの信徒への手紙の第一の一二章では、霊の賜についてこういうのです。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に、霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には、霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって、知識の言葉」と言って、人間にはそれぞれ違った個性的な賜物が与えられている、それが聖霊の賜物だというのです。
 
 もしイエス・キリストが復活したあとも、地上におられてわれわれと交わるのであるならば、われわれはそのイエス・キリストの真似をしようとして、亜流に陥る、追従者になる、つまらないエピゴーネンしかうまれないのではないか。この世の偉い先生の弟子には、そうしたエピゴーネンが多いのではないか。そしてこの世の偉い先生はそういう弟子がいることを自慢するのではないか。イエスはそのようなことを望まれなかったのです。

 親鸞という人は、弟子をひとりも作らずといったそうですが、イエス・キリストもそのような意味での弟子を作ることはしませんでした
。「わたしがこの地上からいなくなることは、お前たちに益になるのだ」というのです。しかしイエス・キリストはご自分ひとり天に上られてしまい、神の右に座しておられるのではなく、われわれに助け主、聖霊を与えられるというのであります。

 霊がわれわれを助ける時、霊は弱いわれわれを助けてくださるというのです。わたしたちがどう祈っていいかわからなくなっている時、霊みずから言葉にならないうめきをもって執り成してくださるというのです。

 弱いわれわれであります。これも竹森満佐一の説教に出てくる言葉ですが、「世の中でもっとも扱いにくいものは、弱さではないか。弱い人というのは、大事にしすぎるとつけ上がるし、厳しすぎるとひねくれるし、甘やかすとまつわりついてくるというように、手に負えないものだ」というのです。

 そういう弱いわれわれが、直接ある偉い先生が目の前にいたら、ある時にはつけあがり、ある時にはひねくれ、ある時にはその先生にまつわりつくようになるのでなはいか。

 聖霊はそういう弱いわれわれを助ける時、命令的にわれわれに指導しないのです。命令的に指導するのならば、聖霊はなにも聖霊自身が言葉にあらわせないようなうめきで苦しむこともないのです。命令一本でこうしなさいと叱咤激励すればすむのです。しかし聖霊は、われわれの弱さを十二分に知ってくださって、われわれの人格を尊重し、われわれのそのわがままな個性を尊重し、われわれの弱さを十分にいたわりつつ、共にうめき、そうしてわれわれを神にとりなしてくださるというのです。

 イエス・キリストは、今天にのぼり、父なる神の右に座し、いわばどっかりと座って、その代わりに聖霊をわれわれのところに送っておられるのです。

 主イエスは律法学者たちとの論争の最後にこういわれました。自分は単なる人間ダビデの子ではない、自分は神の子なのだといおうとして、詩篇の言葉を引用してこういうのです。「主なる神ははこういわれた。『わたしの右に座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに服従させるときまで』」といわれたのです。いわばここでは、主なる神ご自身が敵と戦ってあげるから、そして敵をすべて滅ぼし尽くすまでは、あなたはわたしの右にどっかともう座っていなさいといわれているようであります。もうお前はこの地上で十分働いてきたのだからといわんばかりであります。

 イエス・キリストは今天にのぼり、全能の父なる神の右に座しておられるのです。もちろんこのかたは神の右に座してなにもしないわけではないのです。パウロはこういうのです。「死んだかた、否、むしろ、復活させられ方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」と言っておりますから、イエス・キリストは神の右に座してなにもしないわけではないのです。われわれのために執り成してくださるのです。しかしパウロはそのすぐまえのところでは、聖霊が弱いわれわれのために執り成してくださると言ってりおますから、実際にとりなしの働きをしてくださるのは、聖霊だといってもいいかもしれません。

 そうだとしても、このイエス・キリストは神の右に座しておられるだけで、われわれはもう本当に安心なのです。ステパノは石で打ち殺されるときに、天をみつめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」といって、死んでいったのであります。

神の栄光のなかで神の右にどっかりと座っておられるイエス・キリストを見上げた時に、そのイエス・キリストが、座っていたイエス・キリストが立ち上がって自分のほうを見つめておられるのを見たというのです。

 この天にのぼり、全能の父なる神の右に座しておられるイエス・キリストは、われわれにそういうイメージを引き起こしてくれるほどに力強い存在として今や天にどっかりと座しておられるのです。そのかたに今すべてのものが膝をかがめて、「イエス・キリストは主である」と告白し、父なる神を賛美することができるのであります。われわれの礼拝もまた、なにかこの地上のもの、ローマ法王とか、偉い先生に対してではなく、われわれに仕えて十字架についてくださったイエス・キリストを崇め、そのイエス・キリストの前に膝をかがめて、礼拝をすることができることはなんとりあがたいことかと思います。